その口唇が紡ぐ名に | ナノ



「お待たせしやし…」
 店の片付けを終え自室に戻った良太猫の視界に飛び込んできたのは、まるで猫の様に丸くなって眠るトサカ丸の姿。
「おやおや」
 先程まで店を手伝ってくれていた為、瑠璃紺と白の縞模様、良太猫がトサカ丸の為に誂えた羽織に身を包んだまま、穏やかな、無防備とも言える寝顔を晒している。
 何時も凛々しく麗らかにその背を護る漆黒の翼が見えないだけで、どこか頼り無くも見える姿。
 見るもの全てを射抜く様な意志の強い翡翠の双眸が閉じられれば途端に幼い印象に変わる。
 だが、緩く開いた口唇は脹よかに艶かしくその柔らかさを主張している。
 良太猫しか知らない温もりと柔らかさ。
 実の所、あの兄妹の事、なんだかんだとこじつけて疾うの昔に奪われているだろうと思っていた良太猫には嬉しい誤算だった。

『………え?あ、れ、いま…っっっ!!!!!!!』

 初めての口づけ。
 それは隙を突いた様な不意打ちだった。
 口唇を重ねるだけの軽い触れ合い。
 挨拶同然のキス。
 トサカ丸だってきっと笑ってやり過ごすだろうと。
 だけど、良太猫の予想した反応は皆無だった。
 突然の出来事に何が起こったのか分からずキョトンとした顔。
 それから徐々に理解し始めた思考と共に段々と赤く染まっていく頬。
 瞬く度に潤い煌めきを増していく翡翠の瞳。
 そんな可愛いらしい反応に、良太猫は漸く自分の失態を悟る。

『ト、トサカ丸!もっかいしやしょう!今のやり直しっす!!』

 気付けばそんな無茶な事を口走っていた。
 恥ずかしがって逃げようとするトサカ丸を言葉巧みに追い込んで。

『ちゃんと、恋人のキス、させてください』

 その言葉に耳まで赤くしたトサカ丸がゆっくりと良太猫を見つめる。
 戸惑いの奥で揺れる小さな好奇心。

『………恋人、の?』

 何か違うのかと言わんばかりに首を傾げるトサカ丸に、ああやっぱりと良太猫はニヤける頬を引き締めた。

『確かめて、みたいですかい?』

 二度目の口づけはゆっくりと時間を掛けて。
 紅色に火照った頬を両手で掬う様に挟めば、指先から伝わる緊張。
 きつく瞳を閉じて身体を強張らせたトサカ丸の額に自分の額を優しく押し付ければ、閉じられた目蓋を飾る睫毛がふるりと震え澄んだ双眸に良太猫を映し出した。

『……みたい』

 真直ぐに良太猫だけを射抜く翡翠が煌めく水面の様に緩やかに揺れれば、対を成す濡羽色の黒玉がトサカ丸の姿を捉え艶を含んで細められた。
 その水面に波紋を落とし、爪の先まで身体を沈めていたいのだ。
 例え溺れても構わない。

『恋人の……して…』

 素より、この心臓は疾うに射抜かれているのだ。

『勿論でさぁ』

 返事と共に合わせた口唇はぴたりと重なり、互いの体温を伝えあう。
 だが、まだそれは柔らかく拒まれている。
 良太猫から与えられる穏やかな温もりだけを受け入れて、その先に荒々しくも恍惚とした灼熱がある事等知りもせず。

『………トサカ丸』

 僅かに離しただけの口唇は、その動きすら鮮明に伝わりトサカ丸のそれをも震わせた。

『…な、んっっ』

 疑問等一気に消え去った。
 端から意味の無い呼び掛け。
 艶やかに潤んだ口唇が微かに開いた瞬、良太猫は再度その薄紅に己のそれを重ねて塞ぐ。
 閉じようとする口唇に舌を差し込めば、途端にトサカ丸の動きが固まった。
 次いで直ぐに逃げようと足掻く身体を引き留める為、頬を包んでいた良太猫の両手がトサカ丸の頭を抱え直す。
 逃げなくても良いのだと、もう逃げられないのだと、優しく教え込ませる様に。
 咽奥に隠れたそれを捕まえ、己の舌を絡ませた瞬間、全身を巡った奮えはどちらのものか。
 良太猫はゆっくりと、だが確実にトサカ丸の情に火を点ける。
 為す術も無く遊ばれていたそれが徐々に意志を持ち始めた。
 己の膝上で固く閉じられていたトサカ丸の指先が良太猫の羽織を握り締め、一方的に与えるだけだった動きが僅かに変わる。
 それが合図。
 絡ませただけの舌先が、確かに絡み合った。
 だが、その瞬、背筋を奮わせた情欲を良太猫は無理矢理抑え込んだ。
 今考えると良く出来たものだと思うが、あの時はあれが正しかったのだ。
 間違って己の欲をトサカ丸にぶつけていれば、今の関係は無かっただろう。
 それ程までにトサカ丸は晩成で純粋だった。
 否、その後育ちに育った情欲をぶつけた今ですら、進行形だ。
 純粋に、与えられるもの総てを受け入れる。
 無垢なまま淫靡に乱れる姿は良太猫の情を煽り続けて。
 益々、深みに嵌っていくのだ。










「トサカ丸…」
 耳元で名前を呼べば小さく身体が震えたが、その翡翠が開かれる事は無く、相も変わらず背中を丸めて眠っている。
「ん…」
 だが代わりとばかりに薄く開いた口唇が艶かしい紅を覗かせれば、途端に視線が外せなくなる。

 が。

「…ろ…にぃ…」
 びき。
 凍り付いたのは、口元に浮かべた笑み。
「さ…さみ…」
 びきいっっ。
 そして、細められた濡羽の黒玉。

「………」

「………………」

「………………………」

「ほおぅ、ワシの名前は無いんですかい…」
 幸せそうに眠り続けるトサカ丸に良太猫の悪戯心が刺激されるのは当然の事だろう。
 トサカ丸の身体を四つん這いで組み敷き、己の腕の中で仰向けに転がせば、その動きに合わせてふわふわと揺れる蒲公英色の髪が畳に散らばる。
 それは意図も容易く二人の情事を連想させて、良太猫は無意識に息を呑んだ。
 良太猫は知っている。
 蒲公英の綿毛の様に揺れる柔らかな髪を。
 決して反らされる事の無い澄んだ翡翠を。
 寝返りで肌蹴た衿合わせの奥、しっとりと指先に馴染む肌を。
 なによりも、口づける度に紅を増し艶を増し、縋る様に誘う様に良太猫の名前を紡ぐ口唇を。
 良太猫は、もう、知っている。
「全く……愛惜しいったらありゃしやせんよ」
 緩む口端から小さく洩れた独り言が消えないうちに、その小生意気な口唇を塞ぎに掛かる。
 奥へ奥へと滑り込ませた舌先が対のそれに絡み付く頃、良太猫の背中に伸ばされる腕に気付き僅かに口唇を離せば。
「な、っ…ん」
 予想通り、朱に色付きすっかりと上気した双眸が良太猫を見つめていた。
 間近で揺れる翡翠の中に己の姿を見つけ、良太猫は満足気に微笑み。
「おはよう、トサカ丸。それじゃあお仕置きっすよ」
「は?ん、んんーーっ!?」
 再度重ねた口唇で、もう遠慮は無しだとばかりに口内で縺れ合わせたそれが互いの熱を与奪する。
 今度こそ、その口唇が己の名前を呼ぶ様に。










20110614.深結
「その口唇が紡ぐ名に」








- ナノ -