愛酔 | ナノ



 良太猫はカラスが嫌いだった。
 カラスは鳥の中でも特に狡賢く野蛮だから。
 シマの猫達が何度と無くあの鋭い嘴と爪で被害を負っている。
 つい先日も、一匹の仔猫が背中に酷い爪痕を残す事になった。
 幾ら喧嘩に弱い化猫組だろうとも、いい加減。

「堪忍袋の緒も切れるってもんすよ」

 そんな経緯で、良太猫は見回りをする事に決めた。
 と云っても、店を放る訳にもいかないので、朝方に三郎猫と二人でだ。
 それでも、二度とウチの猫達に絡みたくないと思うぐらいには懲らしめてやるつもりで、気合も十分な二人は化猫組のシマである妖怪横丁を巡回していた。



 ………一時間後。



「なんで一羽もいないんっすか!?」
「…見事にいませんねえ」
 今まで被害があった場所を中心に回った結果、カラスどころか何時も屯っている猫達の姿すら見当たらない。
 余りにも不可解な現状に良太猫は苛立ちを隠さず伸びた髪を掻き毟る。

 ニャァ…

 不意に二人の耳に届いた小さな鳴き声。
「今のは…」
「あっちは…確か公園が、」
「行くっすよ、三郎猫!」
「ちょ、親分!?」
 返事を待たず駆け出した良太猫を三郎猫は慌てて追い掛ける。





 繁華街の中、ひっそりと造られたその公園には児童用の遊具等は無く比較的緑の多い、謂わば一時の休息を目的としたものだ。
 公園の中心には小さめだが噴水が有り日中はサラリーマンやOLが昼食を取ったり昼寝をしたり、夜になれば酔っ払いや学生の集団が騒いだりとなかなか賑わっている。
 つまり朝方は静かな公園なのだ。
 だが、今、良太猫達の目の前には不思議な光景が広がっていた。
「……これ、は…?」
 其処を染める大半は黒。
 だが、残りの半分は色とりどりの見慣れた毛皮。
「ウチの猫達と……カラス?」
 シマ中が此処に集まっているのか、公園内は異様な光景だ。
 噴水を挟んで猫とカラスが向き合っている。
 だが、不思議な事に険悪な雰囲気は何処にも無い。
「っし、出来た!」
 唐突に、猫とカラスしか居ないと思っていた公園に響いた声。
 まだ少し幼さを残すも、耳に残る甘やかな声音。
 良太猫が声の主を探して視線を巡らせれば。
「………あ」
 探すまでも無く、探し人は猫とカラス達の視線の先に在た。
 噴水の縁に座る一人の少年。
 蒲公英色の髪を風に揺らし、翡翠の様に輝く瞳を眩し気に細め、何かに話し掛けている。

 ナアァァ…

 それは、少年の膝上で丸くなりすっかりと寛いだ小さな毛玉。
 先日、背中に傷を負った仔猫だった。
 だが直ぐにその傷を覆う様に巻かれた包帯に気付く。
「鴆様の薬だから直ぐに良くなるぜ。だからちょっとだけ我慢、な?」
 彼が巻いたのであろうそれは少しばかり不格好ではあったが、仔猫は気にした様子も無く、只、彼に甘える様に身体を寄せて鳴いている。
「もう野良犬にケンカ売んなよ?見つけたのが黒兄だったらひでえお説教だったぞ?」
 野良犬?
 あの傷は確かにカラスの爪痕だった筈だ。
 だが、良太猫は疑問を口に出する事が出来なかった。
 否、何も言葉に出来なかった。
 脳が、何も、受け付けない。
 唯、彼の姿を視界に焼き付ける事を。
 唯、彼の声を鼓膜に響かせる事を。
 唯、それだけを望んでいる。
「お前、此処で何してるんだ?」
 代わりに真当な疑問を問うたのは三郎猫。
 瞬。
 少年を取り巻くカラス達の雰囲気が一変した。
 殺気を孕んだ殺伐とした視線が良太猫達に突き刺さる。
 だが、
「コラ。そんなんだから誤解されんだぞ」
 咎める様な少年の言葉にカラス達は一斉に視線を泳がせ、最終的に不安気に揺れるそれを少年へと戻した。
 その姿はまるで叱られた子供の様でもあり、この少年が如何にカラス達に好かれているのかが伺えた。
 そして、そんなカラス達を満足気に見つめている少年もまた、カラス達が大好きなのだと。
 不意に、少年の翡翠がゆっくりと良太猫を捉えた。
「コイツの手当てしてたんだけど、何かまずかったか?」
 鮮やかに澄んだ水面の様な翡翠をくるりと揺らしながら、少年は己の膝上で丸くなる仔猫を抱き上げる。
「そいつの傷、野良犬なのか?カラスの爪だと思ったけど…」
 答えたのはやはり三郎猫。
「ああ、それは…」
 何処か場都が悪そうに少年が口を開く。
 どうやら野良犬に咬まれそうになった仔猫をカラス達が救けたらしい。
 その際、掴んだ場所が悪かったのか仔猫が暴れた為傷付けてしまったそうだ。
「まさか、今までの猫達の傷も…」
「…ごめん。傷付けずに救けられたら良いんだけど…コイツ等そんなに器用じゃ無いから」
 そして新たに浮上する疑問。
 見た目にも酷い傷を負った猫達だが、随分と治るのが早かった。
 先程、少年が言った"鴆様の薬"が奴良組薬師一派の鴆の事であれば当然だ。
 つまりそれは。
「今までもずっと手当てしてくれてたのか?」
「怪我してる奴助けるのは当たり前だろ?」
 間違い無く鴆の影響であろう考え方に良太猫は確信した。
「じゃあ…お前も、奴良組の妖怪って事か?」
 そして、三郎猫も同様だった。
「………あれ?言って無かったっけ?オレはトサカ丸。今月から妖怪横丁の見回り担当になったんだ」
 ばさりと広げられた漆黒の翼に目を見張る。
 それは、少年、トサカ丸が鳥妖怪、間違い無くカラスである事の証明。
 夜空を切り抜いたかの様な深黒は艶を帯び美しく、ぴんと伸びた羽先が凛々しく誇らしく包む姿は穏やかに煌めいて。
「あんた達は化猫組だろ?よろしくな!」
 仔猫の頭を撫でながら、にいと口端を持ち上げて笑うトサカ丸。
 それは咲き誇る大輪の向日葵の様に。
 まるで彼の周りだけが鮮やかに色付き輝いたかの様に。
 つまりは、月の如く煌めきと太陽の如く輝きで良太猫の視界を眩く埋め尽くしたのだ。










「ってのがワシらの出逢いなんすよ。カラスとの誤解も解けて今ではすっかり頼りにしてやす。それにしてもあの時のトサカ丸の可愛さときたら!今も十分可愛いんでやすが、まだまだあどけなさが残ってて我慢するのが大変でした」
 何の我慢だ。
 そんな突っ込みを呑み込んだ鴆は、引き攣る口元を無理矢理歪めながら杯の酒を飲み干した。
「あの頃っていやあ…まだ鯉伴様が仕切ってた時だな。"鴆"は親父か」
「そうでさあ。あの子は昔から"鴆"様に懐いてましてねぇ…何かあると直ぐ御兄妹か鴆様の所に行くんですよ。ワシの気持ちなんて全く分かろうともしないで」
 それはお前も一緒だがな…とは、言ってやらない。
 鴆はトサカ丸の理由を知っている。
 何だかんだと幼い頃からの付き合いなのだ。
 何度となく泣きそうな顔をして訪ねて来た理由。

『良太猫は…オレが、嫌い…だから』

 と、自分自身に言い聞かせようとするトサカ丸を、鴆は見てきた。
 この良太猫、好きな子程苛めたいタイプなのか、つまりはその日からトサカ丸への幼稚な悪戯が始まった。
 本当にこっちが馬鹿らしくなる様な、錫杖を隠したり(隠し場所は勿論化猫屋だ)、カラスを捕まえてみたり(特に仲が良いカラスが狙われた)、昼寝中に髪の毛を結んでみたり(赤いリボンが意外と似合っていた)とか。
 要するに見たい、話したい、触れたい、そう気付いて欲しいのだ。
 だがトサカ丸も精神的に幼いせいか見事にそれを真に受ける。
 そして二人のすれ違いは難なく成立した。
 が、そこから良太猫の大逆転劇が繰り広げられたのだ。
 それこそ土壇場の光明、否、巧妙と言った方が正しいだろうか、正に賭博師らしい手腕でトサカ丸を口説き落としたのだが、今この話は置いておこう。
 結果的にトサカ丸を散々泣かせた良太猫は許し難いが、これが色恋沙汰となれば些細なすれ違いは付きものだからと、鴆は目を瞑っているのだ。
 だが、当人達は人の心遣い等気にもせず周りを巻き込もうとする。
 恋は盲目とは、こう云った意味も含まれているのかと、鴆は何度溜息を吐いた事か。
 勿論、ご多分に漏れず、良太猫もだ。
「何時も何時も、黒兄が、ささ美が、鴆様が、リクオ様がと………ワシはやっぱり一等にはなれやせんかね」
 何時もの人の良い笑みはすっかりと鳴りを潜め、良太猫は噛み締めた口唇を自嘲に歪めた。
「…んなこたぁねえだろ」
 くいと煽った杯を置き、鴆は言葉を繋いだ。
「アイツがオレに話す事なんて何時もお前の事ばっかりだぜ?」
 本当は余り言いたく無い話だが仕方無い。
 目の前に珍しく弱り切った良太猫が居るのだ。
 流石に放っては置けない。
 例えば此処にリクオが居たとしたら、そんな不甲斐ない奴にトサカ丸をやれるか!と、間違い無くキレまくっているだろうなと、鴆は片隅で思う。
 リクオの親馬鹿っぷりは鴆も認める程で、時々、良太猫が可哀相に思えるぐらいだから、鴆はせめて自分は中立でいようと思っているのだ。
「しかし…随分と"二人だけの秘密"が多いみてえだがな」
 実際は鴆も大概トサカ丸寄りなのだが、意識しているだけマシだろう。
「だが、アイツが兄妹にも言わないって事が何より優先されてんだろ」
 ハッとした様な良太猫の表情の変化に気付いたが、鴆は止めとばかりに続けた。
「それだけお前を信じてるアイツをお前が信じないでどうする」
 だからこれは多分な叱咤と少しの激励。





 鴆は手酌で杯を満たしながら、今頃トサカ丸に電話でもしているであろう良太猫に苦笑を浮かべる。
「しかし、あんだけ甘えられてまだ足りないたぁ…良太猫も大概だねえ」
 口に含む酒がやけに甘く感じるのは気のせいでは無さそうだ。
「折角だ…ウチの甘えたな大将にも顔見せに行くか」
 ことりと置かれた杯に残った無色のそれがゆるりと波打つ。
 穏やかな笑みを浮かべた鴆の姿を、只、そこに映していた。


 甘露を肴に杯を煽るも、また一興。










20110425.深結
「愛酔」








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