月に叢雲 羽根に毒 | ナノ



 鬱蒼と繁る木々が風に遊ばれ葉を揺らす。
 重なり合う乾いた音を聞きながら、独り縁側で酒を飲み下す。
 肴は闇に浮かぶ金色の十三夜。
 僅かに欠けてはいるものの、それは見事に艶めいている。
 まるで、彼の人にも似た。
 焦がれて止まない、彼の人に。
 闇の中心に居ながら煌々と光を放ち導いていく。
 冷酷にも見える光が全てを魅了し穏やかに包み込む。
 もう一つの姿がそうさせるのだろう。
 彼の人は闇を照らす月で在りながら、青に輝く太陽だ。
 焦がれて、焦がれて、恋涸れた。

「って、涸れちゃあいねえが…」

 くく、と喉を鳴らし杯に口づける。
 喉を滑る焼け付く様な熱さが心地好い。
 いっそ、この爛れた五臓六腑を焼き尽くしてくれればいいとさえ。

「…早く来ねえと、溺れちまうぜ」

 僅かな自嘲を零しながら、鴆は小さな杯から零れ落ちそうな月を一気に飲み干した。










 リクオがそれを知ったのは、三日ぶりに訪れた薬鴆堂の軒先だった。
 いつもの様に庭から通じる鴆の部屋へ足を進めたリクオを待っていたのは、薬鴆堂の番頭蛙。
「鴆様は此処にはおりません」
 出会い頭に番頭はそう言った。
 そして、
「居場所はお教え出来ません」
 とも。
「……どういう事だ」
 番頭はその円らな両目を僅かに細めリクオを見上げる。
「何度も申し上げますが、鴆様は今療養中で此処にはおりません。そして誰にも、若頭であろうとも居場所は告げるなと仰せ遣っております故…」
 これ以上は何も出ないとばかりに番頭は口を噤む。
「…………」
「…………」
 暫し続く沈黙。
 見下ろす視線に鋭利な刃の様な気が纏われ始めた頃、見上げる視線も更に細められた。
「無礼を承知で申し上げます。例え破門されようとも、わたしめは…否、薬師一門は決して口を割りませぬ。若頭、貴方には尚更です!」
 ピシャリと見事に言ってのけた番頭だが、その実必死に耐えていた。
 見下ろす視線は完全なる殺気に変わり果て、まるで己の首元に刃を突き付けられているかの様な。
 研ぎ澄まされた鋭利な緊張を一身に受けながら、それでも番頭は耐えていた。
「ぜ…鴆様を大事に思うのは、若頭だけではございませぬっ!!」
 その瞬。
 不意に空気が緩んだのを番頭は見逃さなかった。
「本家からの恩情には感謝しきれぬ思いを抱いておりますが、我等が誓いは鴆様への忠義でございます!主を護る為ならこの身等幾らでも差し出しましょうぞ!!」
 その眼差しは真摯にリクオを見上げていた。
「覚悟は出来てんだろうな」
 寒々とした声音は勿論リクオだ。
 剣呑な双眸に冷酷な光を浮かべ番頭を一瞥する。
 本家への裏切りとも取れるその言葉。
 番頭も理解した上で発した言葉。
「無論!!」
 だがそれは、紛う事無い真実。
「……………………」
「……………………」
 再度訪れる、重い沈黙。
 そしてその壁を崩したのは、リクオだった。
「……ったく。主が主なら下僕も下僕だ。変な処ばっかり似るんじゃねえよ」
「っ、は…」
 溜息と共に纏っていた畏れにも似た殺気を消し去ったリクオに、番頭はよろよろと腰から崩れ落ちた。
「よくよく手の掛かる鳥だぜ。いい加減、本気で閉じ込めねえとな…」
 先程とは違った種の光をその深い紅色の瞳に映し、リクオは自嘲にも似た愉悦の笑みを浮かべていた。
「おい。アイツはオレに『居場所は告げるな』と言ったんだな」
「は、はい」
「………そうかい。じゃあ此処で悠長にしてらんねえな」
「は、はい?」
「あぁ、さっきの。頼むから鴆には愚痴ってくれるなよ」
「え、えぇ、そりゃあ勿論ですが…若頭、何処へ?」
 唐突に踵を返したリクオに番頭は僅かに恐縮気味に問う。
「オレの鳥を迎えに行くんだよ。なぁに、オレが探して捕まえるのは構わねえって事だろ」
 振り向きざま、にやり、と笑む顔はまるで悪戯を思い付いた幼子そのものだった。










 漆黒に穴を開けた様な見事な望月。
 療養と云う名目で鴆が訪ねた場所は捩眼山だった。
 随分と幼い頃、両親を亡くした鴆が一時的に預けられた場所であり、後見人でもある牛鬼と共に過ごした場所だ。
 記憶と変わらない屋敷を見て安堵した自分に、やはりそれなりに緊張していたのかと苦笑したのは一週間程前の話だった。
「月見も良いが深酒は止めておけよ」
 一人、杯を傾ける鴆の背後から掛けられた声。
 落ち着いた低音に幾分の優しさが滲んでいる事に気付く者は残念ながら此処には居ない。
「俺は"鴆"だ。そこいらの酒じゃ酔えもしねえよ」
 何時もの羽織りを脱ぎ着流し姿の屋敷の主に鴆は杯を掲げ座れと促した。
「フ…初めて酒を口にした時は大変だったがな、"めのう"よ」
 細めた片眸に穏やかな光を浮かべた牛鬼が呼んだそれは鴆の幼名。
 先代である鴆の父親が付けたその真名は極々近しい身内にしか知らされていないもので、鴆が唯一の主とするリクオですら未だ知らない名だ。
 先代が死に"鴆"を継いだ今では呼ばれる事も皆無となるはずだったその名。
 だが、牛鬼組々長であるこの男とその腹心の部下だけは今でもその名を呼ぶ事がある。
 そしてそれは人前で呼ばれる事は決して無い。
 そこまで徹底しなくても、と呆れつつもまるで家族の約束事の様なそれを鴆は密かに気に入っていた。
「っ…いい加減忘れろ、牛鬼」
 僅かに薄紅に染まる頬は酔えない酒のせいでは無いのは明白だ。
「否、あれは牛鬼組が初めて完敗した出来事だからな、牛頭、馬頭も未だ忘れておらん」
「あいつらっ…」
 今は本家預かりとなっている二人の兄貴分を思い出し、鴆は盛大に眉を寄せた。
「そう邪険にするな。あいつらも存外お前を可愛がっているんだ」
「…イジメられた記憶しかねえぞ」
 小さく口端を緩めた牛鬼の杯に酒を注ぎながら、鴆は至極真面目な顔で幼き日々を思い出す。





 あれは総会から戻る牛鬼を迎えに行く途中。
 長い石段を降りていく途中だった。
「待って、待ってよ!牛頭兄、馬頭兄」
 その声に振り向いた二人の視線の先。
 立ち止まり、肩で息をする鴆の姿。
「あぁ、ごめんよ、めのう」
 馬の頭骨を被り顔を隠した馬頭丸が鴆のいる数段上まで戻ってくる。
「ったく、またかよ。餓鬼が無理して着いてくるからだよ」
 牛鬼の様に伸ばした前髪で片目を隠した牛頭丸はその場で腕を組みそんな二人を見ている。
「餓鬼じゃない!」
「もう牛頭丸。そんな言い方しなくても良いだろ。めのうも、興奮するとまた」
 馬頭丸が二人を宥めようと溜息を吐こうとした、正にその時、ひゅ、と嫌な音がそれを遮った。
「ゲホッ!グ…ハッ、ゴホゴホッ」
 咳き込むと同時に背中を丸め蹲る鴆。
「めのう!」
 鴆の小さな背中を撫でる馬頭丸の視界に映ったのは、肩まで伸びた青磁色の髪から覗く真白な能面。
 "鴆"と云う種族にとってその発作は日常。
 常に死と隣り合わせの生、それが"鴆"だ。
 そう分かっていても、目の当たりにするとやはり落ち着かない。
 鴆はまだ幼い子供。
 だが、鴆は生まれながらにして先代より強力な毒をその身に纏っていた。
 本来なら元服を迎える頃から全身に回り始めるはずの猛毒が僅かではあるが既にその身に纏われていたのだ。
 故に、その毒で母が死んだ。
 同じ"鴆"でありながら、だ。
 それは鴆以外が知る周知の事実。
 そして、それは鴆が元服時に伝えられる事になっている。
 正に鴆にとって二重苦以外の何物でもない。
 馬頭丸はこの小さな背中に枷せられる未来を思い眉を寄せた。
「馬頭、そいつ連れて帰れ」
 突如、頭上から浴びせられた冷ややかな言葉。
「……や、だ」
 だが、鴆は咽び込む喉を押さえつつ確かな拒絶を返した。
 短い呼吸を繰り返す度、その薄い肩が激しく上下している。
「い、やだっ!オレも、牛鬼のお迎え、行くんだ!」
 その小さな指で牛頭丸の着物の裾を必死に握り締める。
 牛頭丸を見上げる真直ぐな銀朱の双眸。
 透ける様な青白さの中、爛と輝くそれだけが生を持っていた。
「……」
 沈黙は長く続かなかった。
「…ったく。雛鳥の癖に頑固な奴…誰に似たんやら」
 ほら、と呆れ口調とは裏腹にその口元を僅かに緩めた牛頭丸が、鴆に背を向けしゃがみ込む。
「ボクじゃないのは確かだよね」
 可笑しそうに馬頭丸が笑い、唖然とする鴆の身体を牛頭丸の背中に乗せその手を取り有無を言わせず歩き出す。
「お前が伏せると牛鬼様が過保護になり過ぎんだよ。牛鬼組の沽券に懸けてアレだけは誰にも見せらんねえ…」
「アー…ハハハ…」
 力無く笑う二人に首を傾げつつも、身体に感じる緩やかな揺れと繋いだ手の温もりが自然と鴆を笑顔にさせた。





「…そういや、オレが伏せるとお前が過保護で牛鬼組の沽券に関わるらしいが…そうなのか?」
「……………」
 向けられる視線を受け流し、ぐい、と杯を煽る牛鬼に鴆は嬉し気に目を細める。
「オレの家族は皆過保護な奴ばっかだな」
 くく、と喉奥を鳴らした鴆の穏やかな笑みに牛鬼は再度杯を煽った。
「……鴆。迎えが来たようだ」
 かたり、と空になった杯を戻した牛鬼が視線を流した闇の先。
 鴆もその気配に気付き牛鬼の後を追う様に視線を向けた。
 煌々と輝く金色を背にゆらりと現れた闇の主。
 漆黒と白銀の混ざる髪を靡かせ、闇色に染めた羽織りを背負う。
 夜を支配する、彼等の主。
「よう、邪魔するぜ」
 深紅の眼差しが的確に牛鬼を射抜く。
 軽い口上に含まれた確かな敵意。
「これは若。このような所に如何ようですかな」
 だが、そんな視線すら軽く受け流し、牛鬼はリクオに一礼する。
「何処ぞの我儘鳥が里帰りなんてしやがったんでな」
「おいこらリクオ!」
 誰が我儘鳥だ!と声を上げる鴆。
 だが、その声に怒気は無い。
 有るのは歓びと僅かな安堵。
「このオレを迎えに使う奴なんざお前以外いやしねえよ」
 そして、辛辣な言葉に潜む甘やかな独占欲。
「さっさと帰るぞ。親孝行はもう十分だろう?」
 ちらり、と一瞥した牛鬼は相変わらずの無表情で再び杯を傾けていた。
「応、支度してくるから一寸待っててくれな」
 笑顔を残し奥に消えた鴆と入れ替わる様に縁側に腰掛けたリクオに向けられた徳利。
「随分と掛かったな」
「……言ったろ。親孝行させてやったんだよ」
 本当は牛頭馬頭に足止めされていたのを無理矢理沈めて来たのだが、どうやらそれはリクオの中では無かった事にされたようだ。
「…そうか」
「………ったく。何奴も此奴も、主に似ると碌な奴がいねえ」
 ぐい、と飲み干した酒が喉を滑る。
「あぁ…そうだな」
 焼ける様な熱さの中ほんのりと甘さが残るそれは牛鬼やリクオではなく、鴆が好む味だ。
「牛鬼。アレはオレが護ると決めたもんだ」
 杯を置いたリクオが月を見煽る。
 先程まで煌々と艶やいていた金色を薄らと霞掛かった雲が隠し始めている。
 まるで、その存在を消してしまおうとするかの様に。
「アレが護りたいと思うもの全てをオレは護る。だが此処は…不本意だが此処はアイツの最後の拠所だ………お前が護れ」
「御意」
 しかし、どれだけ雲が覆おうともその金色が消える事は無いのだ。
 どれだけ雲が隠そうとも、月は確かに存在するのだ。
 太陽に護られ、夜に愛されて、雲すら照らし。
 月は、一層美しく輝くのだ。
「さぁて、と……おい鴆!何時まで待たせんだ!置いて帰んぞ!」
「っな、てめっ、着替え中に入ってくんな!!」
 バゴッ、と人並みならない音が聞こえ視界の端を艶やかに毒々しい羽根が舞うのを愉しむ様に牛鬼は笑みを浮かべる。

「月に叢雲、羽根に毒…だな」

 騒がしい声が遠くなるのを聞きながら、縁側で杯を重ねる牛鬼が独りごちた言葉だけが静かに闇に融けて消えた。





20100719.深結
「月に叢雲 羽根に毒」








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