おちる恋こそ、いとくるし | ナノ
初めて逢ったのは、先代"鴆"の葬儀だった。
親父に連れられて来たオレはまだ三つになるかならないか、しかも周りは大人ばかりで正直訳も分からず手持ち無沙汰以外の何物でも無かった。
そんな時。
牛鬼様に添われる様に皆の前に現れたのは、オレより少し年上だろう一人の子供。
牛鬼組に子供の妖怪なんて居なかったはずだし(牛頭馬頭の兄さん達は見た目はあれでも立派な成人だ)、その見目の麗しさに周りの大人が息を呑んだのが分かる。
オレ自身、気付かないうちにその子の動きを追っていた。
皆が喪に服した漆黒に包まれる中、唯一人、緑白鮮やかな異国の服を身に付けて。
伏せた目蓋に淡い青磁色の髪が影を落とし、まるで泣いているかの様に見えた。
「…鴆」
だけど、牛鬼様が呼んだ名に応える様にゆっくりと開いた銀朱の双眸は、凛とした眼差しで真直ぐに前を見据え、式が終わるまで決して揺らぐ事は無かった。
そして、オレは最後までその銀朱から目が離せなかった。
気付いたら、落ちていたんだ。
一目で、恋に落ちていた。
「猩影じゃねえか」
久し振りに逢った鴆は猩影の記憶よりも儚く淡く、なによりも綺麗に微笑んだ。
「鴆兄、久し振り」
猩影は鴆の隣に腰を下ろし、見上げる形で笑い返す。
そうでもしなければ、鴆を見下ろす事になる。
それに。
「お前が総会に来るなんて珍しいな?」
こうすれば、薬の確認をしていた手を止め、鴆が自分を見てくれると分かっているから。
「…ちょっと、確かめたい事があるんだ」
「ふぅん。まあ、久々の本家なんだ。皆にも挨拶しておけよ」
濁された言葉を気にする素振りすら見せず、鴆はにいと笑い猩影の頭を撫でる。
「……鴆兄」
ぐしゃぐしゃと無遠慮に撫でてくる手は何時もの事だ。
だが、猩影はその手を掴み見上げた鴆を見つめた侭、その柳眉を僅かに寄せた。
「猩影?」
「顔色が悪いよ。大丈夫?」
瞬、僅かに鴆の身体が強張ったのを猩影は見逃さない。
「調子が悪いなら総会なんて休めばいいのに」
そう、今までまともに総会に参加しなかったのは猩影だけでは無い。
ここ何年も本家に足すら向けなかったのは鴆も同じだった。
だが、ある事を切欠に鴆は総会に出るようになり、本家にも顔を出す機会が増えた。
リクオと盃を交わしたのを境にして。
そして、今日、猩影が確かめたい事もそれだった。
「あぁ、無理はしねえよ。相変わらずお前も心配性だな」
鴆は血の気の少ない顔色を誤魔化す様に笑い、猩影に掴まれた侭の手を下ろした。
離す気は無いのだろう、その手に導かれる様に猩影の手もついて来るが鴆は気にした様子も無い。
鴆よりも年下な猩影だが、掴む手は一回り大きく、昔から体躯も長身で逞しい。
そんな猩影が鴆の後ろをついて歩く、以前はよく見掛けた風景だった。
牛頭馬頭の後ろをついて行く鴆の後ろを猩影がついて来る。
そのほのぼのとした雰囲気に牛鬼や狒々も頬を緩めていた。
鴆もこの見た目の割に甘ったれな弟分が大好きで、よく面倒をみていた。
幼少時からの付き合いで、リクオを加えた三人は謂わば幼馴染みだ。
主にリクオと猩影が鴆に纏わり付いていたとも云うのだが。
それでも、以前は殆ど三人でいた。
あの日、鴆が元服を迎える直前まで。
「心配するよ。オレは忘れてないからね」
無意識だろう、鴆を掴んだ指先がぎりときつく握られる。
「オレは忘れない…アイツが、鴆兄を、裏切ったこと」
元服後、薬師一派の組長として、薬鴆堂の主として、鴆が多忙になる事は分かりきっていた。
会う事は可能だ、だが今までの様に自由に遊ぶ事は難しい。
だから猩影は鴆の元を訪ねたのだ。
だが、行ってみれば鴆は伏せっているという。
最初は何時もの発作かと思ったが牛頭馬頭の遣りきれない表情に違うと悟った。
そして理由は直ぐに見つかった。
リクオだ。
リクオが総大将を継ぐ気が無いと云う噂は既に猩影の耳にも届いていた。
そして、猩影が知った事実。
真実は純粋な程に残酷だった。
『鴆くんは反対しなかったよ。ボクのしたいようにすればいいって笑ってくれたんだ!』
今思い出しても、なんであの時殴っておかなかったのかと、猩影は自分の甘さが嫌になる。
あの時から、否、初めて会った瞬間から、猩影とリクオは互いに感じ取っていた。
こいつとは恋敵、それ以前に同族嫌悪、だと。
あからさまに鴆との時間を邪魔してくる存在。
水面下で繰り広げられる諍い。
それはもう誰の目から見ても子供の独占欲で済まされるものでは無い。
唯、鴆だけが気付かない、気付かせない様にしているのだ。
そんな処もよく似ている。
かといって相手が嫌いかと問われれば、それは否だった。
互いが憎みきれないからこそ、この関係は続いていたのだ。
それが崩れた瞬間でもあった。
「また、繰り返すかもしれないのに…」
それ以来、猩影はリクオを信じていない。
そして、猩影は本家に近付かなくなった鴆の傍にずっといたのだ。
「猩影………心配するような事はもうねえよ…例え繰り返したとしても、今度は、大丈夫さ」
「そんなわけねえっ!!あの時の鴆兄は見てらんなかった!またあんな、っ、、」
激昂する猩影を止めたのは、ふわり、と羽根の様に暖かい鴆の温もり。
「…お前はいつもオレの為に怒ってくれるんだな」
完全に頭を抱き込められる形となった猩影には鴆の顔が見えない。
「皆、本当に過保護でいけねぇや」
だが、その腕が、その声が、微かに震えている。
猩影は、堪らずにその身体を抱き締めた。
なんで、この人ばかりが我慢しなければならない。
なんで、この人ばかりが傷付かなければならない。
なんで、なんで。
「…オレは、絶対に認めない」
彼は、幸せになるべき人だ。
生まれながらに苦痛を約束された身ばかりか、何よりも近付く死の恐怖にもがき苦しみ続けている心。
その痛み総てを引き受けたっていい。
だから、これ以上の苦痛を、彼に与えないでくれ。
あの頃、誰よりも鴆の傍にいた猩影だからこそ、何度も願った。
だが、その願いは決して叶えられる事が無かった。
元服した鴆に与えられたのは新たな苦痛。
告げられた、出生の事実。
母親を死に追いやった己の毒。
歴代の"鴆"と桁違いのその毒は、鴆自身をも喰らい尽くそうと日に日に濃度を増しているのだ。
矢継ぎ早に襲いくる残酷な真実は鴆だけでなく猩影も苦しめた。
鴆を救けたい。
何度も、何度も、何度も。
願う程に絶望は深まった。
無力。
鴆を内から巣喰うものに刃等効きはしない。
鴆毒に抵抗する知識なんてあるわけが無い。
唯、苦しむ鴆の傍に在る事しか出来ない。
思い出しただけでも自分の不甲斐なさに苛立ちがこみ上げる。
だが不意に。
「オレは、幸せだよ」
ぽんぽんと猩影の背中をあやす様に軽く叩きながら鴆は言葉を続けた。
「オレの為にお前がこんなに苦しんでくれる、それだけで、オレは十分幸せだ」
猩影の苛立ちを鎮める様に鴆はその広い背中をあやし続ける。
何時だってそうだ。
鴆は決して弱さを見せない。
あの時だって、一度たりとも弱音を吐かなかった。
「鴆に、」
「離れてくれる」
猩影の声に被さる様に部屋に響いたもう一つの声。
誰かなんて問う必要も無い。
「リク、」
鴆がその名を呼び終える前に、リクオは再度言い放つ。
「鴆くんから離れて」
その硬質な声音に鴆の身体が僅かに強張ったのを猩影は見逃さなかった。
「嫌だと言ったら」
抱き締めた鴆の身体に回した両腕に力を込める。
「それを決めるのは君じゃ無い」
一瞬だけ、猩影を一瞥したリクオの視線と絡み合う。
だが、それだけだ。
リクオの双眸は常に同じものを映していた。
真直ぐに鴆だけを。
「……猩影」
ぽん、と一度その頭を軽く撫でて鴆は猩影の腕から抜け出した。
「鴆兄!」
呼び止められた鴆は少しだけ困った様に笑い猩影を見下ろした。
だが、それも長くは続かなかった。
鴆は一歩、一歩とリクオの傍に歩み寄り。
「そんな顔すんなよ、若頭」
猩影に背中を向けた鴆がどんな表情をしているかなんて分からない。
ましてや、今、リクオがどんな顔をしているかなんてどうでもいい。
知りたくも無い。
唯、分かった事は。
鴆がリクオを選んだという事。
リクオが鴆を欲しているという事。
猩影の腕から一つのぬくもりが消えた事。
唯、それだけ。
「猩影君」
総会が終わり帰路に着こうとした猩影を引き止めたのはリクオだった。
だが、猩影はその声に振り向こうとはしなかった。
玄関に座りスニーカーの紐を直す素振りを続ける猩影にリクオは言葉を続けた。
「ボクは繰り返さないよ」
何を、なんて分かりきった事は聞かない。
「もう誰にも、君にだって、渡す気は無い」
どの口がそう言っているのだと。
「もう結して離せないんだ」
気を抜けば罵倒を浴びせてしまいそうな衝動を、猩影はぎりと口唇を噛み締め耐えた。
「…………それだけですか?」
長い沈黙の後、もう用は済んだとばかりに猩影は立ち上がる。
「猩影」
突如、背後から掛けられた声音が豹変していた。
低く艶を含んだそれが妖怪のリクオのものだと理解する前に、猩影はその背中を粟立たせた。
振り向くどころか指一本動かせない。
それは鋭い刃の切先の様な畏れ。
「アレを奪いたけりゃあ奪えばいい」
「っ!」
ふざけるな!と、渾身の勢いで振り向いた猩影が視界に捕えたリクオの姿。
「身魂を懸けてな」
爛々と光る獣にも似た紅玉が真直ぐに猩影を射抜いていた。
その視線が語るは、覚悟。
猩影が初めて見る、リクオの覚悟だった。
「ま。そんな隙、微塵も見せるつもりはねえけどよ」
だが、リクオは直ぐににやりと口端を歪めて笑みを作る。
それは挑発にも似ていたが、猩影は気付いてしまった。
嗚呼、気付きたくなんて無かったのに。
「………鴆兄は?」
「ん?あぁ、寝かせてる。ったく、あの馬鹿鳥、熱あるのに無理しやがって」
鴆がリクオにだけ見せる、弱音。
そして、リクオが鴆を想い見せた、頬笑み。
それが、答えだと。
「…若頭。オレはまだアンタを認めちゃいねえ」
「………」
リクオは何も言わず、唯、鋭く光らせた双眸で猩影を見据えていた。
「だから見定める。アンタの覚悟見せてもらう」
「…ハッ、上等じゃねえか。いいぜ、幾らでも見せてやる。お前の方こそ覚悟しとくんだな」
くく、と笑いを押し殺したリクオはその獣の様な紅玉を光らせ猩影を一瞥すると、くるりと踵を返し家の奥へと姿を消した。
そして、一人佇んだままの猩影。
「…………手前で決めたことだろ」
小さく、それは本当に小さく落とされた。
声音というより吐息の様な呟き。
「この痛みは鴆兄には必要ねえんだ」
胸元で握り締めた拳に食い込む爪先。
「オレが引き受けるって」
つきりと軋む胸にはぽっかりと穴が開いている。
「覚悟なんざお前なんかの比じゃねえよ、若頭」
たった一目、堕ちた瞬間から。
決して塞がる事の無い。
育つ前に殺してしまった。
恋と云う名の、大きな穴が。
20110221.深結
「おちる恋こそ、いとくるし」
←