水星の赤
「急ですが、この塾にもう1人塾生が増えます。」
そう淡々と告げた雪男の隣には、見た事の無い女が立っていた。凛と前を見据えている双眸には、まるで俺たちが映っていないような印象を受ける。どこか、遠くを見透かしているようだった。
「初めまして、天野彗です。正十字学園には通っていません。この塾にだけ通う予定です。」
宜しくお願いします、ときっちりお辞儀をすると、その背中に反して髪の毛がだらりと揺れる。顔を上げると、再びその双眸は遠くを見つめ始めた。その双眸に似合う凛とした声が、何故か耳から離れない。
一通り自己紹介をし終えたのか、天野彗と名乗った女が黒板の前から歩き出す。じろじろと見ている俺たちを気にする様子もなく、真っ直ぐを向いたまま後ろの方の席へ座った。
「なんか・・・かっこいいねぇ・・・!」
隣でしえみが、小さな声で、尚且つ興奮したように言う。俺はそんな風には思わなかった。ただ、愛想の無いヤツだ、と思った。しかし、不思議な事に後ろの方に座ったあいつの事が気になって仕方が無い。たまにチラッと後ろを向いてみても、あいつの目は教科書をなぞっているだけだった。そして俺は雪男に怒られた。
「な、なあ!」
塾が終わった。天野から、どこか漂う近付くなオーラから、あの志摩でさえ話しかけることが出来ず、結局誰も声をかけることが出来なかった。俺はそれが、どうにも気になって、とうとう廊下で声をかけてみた。声をかけて3歩進んだところで、あいつは止まり振り返る。
「なに?」
その双眸が、やっと俺を見た。それだけ、たったそれだけだと言うのに、心臓が締め付けられるような感覚に陥る。今まで、どんな話題で話しかけようかずっと考えて準備をしておいたのに、すっかり真っ白になってしまった。
どれくらい経ったのかは分からないが、黙ったままの天野はずっと俺の次の言葉を待っていてくれた。待つには長い時間だっただろうと思う。実は優しいやつなんじゃないか?しかし、だからと言って俺がこのまま黙っているわけにはいかない。
「い、一緒に帰ろうぜ!」
やっと搾り出した俺の一言の所為で、俺は無駄に緊張する帰り道を歩む事となった。さっきから黙りこくっている天野は、何故俺の提案を承諾したんだ。ばっさり断ってくれれば、こんなに緊張しなくても良かったのに。
「じゃあ、私、こっちだから。」
天野が口を開いたと思ったら、それは別れを告げる言葉だった。結局何も話せなかったなんて、この無駄に緊張した今までの時間が勿体無い気がする。また明日、と目も合わせないまま背を向けようとする天野に慌てて質問をぶつける。
「あっま、待てよ!」
「なに?」
「い、家何処なんだよ?寮か?」
「ううん、違う。」
首を横に振りながらそう言う天野が、妙に子供っぽく見えて吹き出しそうになった。そこを何とか堪えると、さっきまでの緊張感が何処かへ行ってしまった。この調子で、次の質問をぶつけてみる。
「送ってやろうか?」
「いい。」
「あっ!や、やましい気持ちがあるとか、そんなんじゃないからな!!」
「いい。」
「・・・そう。」
ここでずっぱり断られると、ちょっと凹む。また明日、と背中を向けようとする天野の背中をまた引き止める。律儀にも天野は再び止まってくれた。
「あー、なんで今の時期にこの塾に来たんだ?」
「・・・。」
「・・・?」
「知りたい?」
「え、」
丁度天野の背中に、真っ赤な夕陽が隠れた。眩しいんだかそうじゃないんだか分からない空間の中では、天野の表情が見えない。それでも、その中で天野の双眸だけは、イヤに輝いて見える。得体の知れない雰囲気が俺を包み込んで放さない。
「・・・。」
「また明日。」
返事をしない俺に、本日三度目の『また明日』を言って、とうとう天野は帰宅の続きを始める。今度は止めなかった。止められなかった。
『死んでくれ。』
何故か、いつかの雪男の言葉が、脳内で反復された。
20110904