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*パロ


いつもどおりの時間に家を出た。まだ人通りは少ない。

すでに行きつけになっている小さなパン屋で朝食のべーグルを選ぶ。
いくつかある種類の中から今日はハムエッグを手に取った。
レジカウンターにそれを運んで、ホットコーヒーSひとつ、と店員の目を見ることもなく告げた。
ここのパン屋は小さいながらもカフェテラスも同時に経営している。
俺は一度もそこを利用したことはない。
いつも職場までの道のりを歩きながら朝食を済ませるからだ。

俺の愛想のなさになど興味はないのだろう。
若いアルバイトスタッフだと思われる店員は一度奥に引っ込み、紙のカップにコーヒーを注いで戻ってきた。
コインを3枚カウンターに置き、べーグルとコーヒーを手に店を出た。

職場の大学までここから歩いて15分ほど。
数学者である俺は大学卒業後、院に進学しそのままゼミの教授のところで助教諭として働きはじめた。
朝、1限前にここを通ると学生たちで溢れかえっている。
その雰囲気に馴染むことができなくて、俺は学生時代から基本的に1限前という時間帯を外してここを通る。
早起きは嫌いだが苦手ではない。それに朝の澄んだ空気は好きだ。
毎日、学生よりも早く大学へ行く。
へたをしたらどの教授たちよりも早いのかもしれない。
少しだけ残っていたコーヒーを飲み干し、食べ終えたベーグルを包んでいた紙と一緒にそれらを道路脇に設置されているゴミ箱へ投げ捨てた。

ふと、何か降ってきたような気がして上を向いた。
雨かと思ったが、見上げた空はあいにく雲ひとつない晴天だ。
気のせいか、とまた一歩踏み出した瞬間に感じた感覚。
やはり、何か降ってくる。
また上を見上げようとした瞬間に、今度は頭上から声が降ってきた。

「おーい、お兄さん!すいません、汚れてないっすか?」

お兄さん、とは俺のことだろう。
ここの通りを歩いている人はまばらで、今は俺以外ほとんどサラリーマンと思える疲れた顔をした中年男性がちらほら目に付くくらいだ。

頭上から声がしたのだから上に人がいるのだろうと結論付け、今度は人を捜す為に上を見上げた。
小さな教会の屋根の真下に、体格のいい若い男がこちらを見下ろしているのが見えた。
朝日がまぶしく、思わず目を細めたのをその男がどう思ったのか、もう一度すいません、と大きな声で謝られた。

いや、と小さく声を出して否定してから気づく。
結局何が降ってきていたのだろうか。
ぼうっと眺めていると、男は吊してあった梯子をぎしぎしと言わせながら地上まで降りてきた。
体格はいいだろうと思っていたが、俺の前に立った男は身長も高かった。
結局俺は見上げる形だ。

「あの、どこか汚れたりとかしてないですか?綺麗なスーツだし、もし汚れてたらクリーニングとか・・・」

いや、あの今は手持ちないんっすけどなどとあたふたしている男を前にして俺は自分を見下ろした。
特に、どこか汚れている箇所もないし大丈夫だと伝えると、男は安心したように笑った。

「あそこの教会の壁画を修復してるんですよ。今修復箇所を削ってて。この時間だとあまり人通りも少ないからと思ったんだけど、すいません」
「いや、大丈夫です。どこも汚れてないみたいだし。それにしても・・・」

壁画を修復していると言ったか、この男は。
言っては悪いが、ここの教会はどちらかというととても古風でもう人も寄りつかないのだと聞いたことがある。
ミサすら行っているのかどうかすら分からない。
というより、神父がいるのかどうかも謎だ。
何年もこの通りを歩いているが、俺は見かけたことはない。
壁画など、あっただろうか。

男の肩越しに教会を見る。
こんなにまじまじと見たのは初めてのことだ。
確かに、男の言っていた通り教会の白い壁には壁画らしきものが描かれているようだった。
それは白い壁とほとんど同化しているくらいに薄く消えかかっている状態だったけれど。
だから修復しているのか、と納得した。

ぼうっと教会を観察していると、ふと視線を感じた。
それは目の前にいる男からのものだということにすぐに気付く。
あぁ、失礼だっただろうか。

「あの、」

少し気まずくなって声をかけると、男は何かに驚いたかのような表情をしたかと思うともう一度すみません、と謝った。
そして言葉を続ける。

「よかったら、またここを通るときにでも声かけてください。俺、当分まだここの壁画修理する予定なんで」
「はぁ」
「服、汚れてなくてよかった。それじゃあ、また」

名前すら知らない男は、にこりと俺に笑いかけて教会の扉の中へと消えた。
なぜ誘いを断らなかったのか、そして彼の姿が見えなくなるまでなぜその後ろ姿を見送ったのか。

なぜだろう。
幼いころに感じていたような、初めてみるものを受け入れたような、そんなわくわくとした気持ちが胸に渦巻く。
そういえば名前も知らないのにどうやって声をかけたらいいのだろうと、そんなことを考えながらいつもと変わらない、いつも通りの日常へと目を向けた。

今までに感じたことのない不思議な気持ちを持て余しながら、一歩踏み出した。


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10.06.05




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