深夜。
吐いた息は白い。
群青色の空には、宝石のように輝く無数の星が輝いていて、痛む耳を手のひらで覆うけれど、効果はあまりない。
昼間は騒がしい池袋も夜が更ければ人の気配も疎ら。
新宿に帰るにしても終電を意図的に逃したため、ここで一夜を明かすことになるだろう。
そんな池袋の一角で、ぼうっと空を眺めている随分俺は怪しいだろうとか考えて。
「シズちゃん」
そう呟いて、鳥肌がたった。
別に気分を害したからじゃない。
シズちゃん、もう一度そう呟いて今度は鳥肌はたたなかったから、ほ、と息を吐く。
相変わらず、吐く息は白い。
相変わらず、俺はどうしようもない想いを持て余している。
今日も俺を追い回していた喧嘩人形の、その声を思い出そうと、躍起になって目を閉じて、
それでもやっぱり完璧には思い出せずに、またそっと目をあけた。
ねえ、シズちゃん、
俺がこんなに君を愛してることなんて、君は知らないんだ。
こんなに、君を想っているのに、その想いの丈の一寸たりとも君は知らないんだ。
会いたい、
言ってしまったら負けな気がして。
だから俺はこんなに溢れるような気持ちに溺れているんだろう。
そんな俺を動かす、
心臓も、筋肉も、感情も、心も、意志も、なにもかも全部、シズちゃんが、全てなのに。
シズちゃんがいるから、俺は生きているのに。
ああ、おかしいな。
こんなに君が好きなのに、その少しも伝えられないなんて。
は……
吐いた息は白く立ち上った。
ああ、全部君なのに。
この行き場のない想いのベクトルだって、全部君に向いているのに。
大ッ嫌いだとシズちゃんは言う。
大ッ嫌いだと俺は言う。
だけど、だけど心の中では、こんなに君を想っている。
それでも、顔をあわせれば大嫌いなんて言ってしまって。
はち切れそうなこの痛みも、
溢れるような気持ちも、
全部君のせいだよ。
全部、君のせいだ。
なのに欠片も伝わらない。
伝えられない。
切ないなあ、なんて、鼻で笑って空を見たのは
つんと痛んだ目頭を誤魔化すようにするためで。
「シズちゃん」
それはそれは、優しい響き。自分でも驚くくらいの。
寒いから、だろうか。
ぎゅうと、胸が締め付けられて、息が、苦しいのは。
いや、でも、それが気温のせいでないことくらい、俺はわかってるけど。
「あーあ、……俺、可哀想!」
「可哀想なのは俺のほうだ」
「はぇ?」
振り返れば忌々しげに顔を歪めた、今さっきまで考えていた人間がそこにいて。
物より先に言葉がぶつけられたのは初めてに近くて、驚く俺のそばまでずかずかとよってくると、俺の座っていたベンチの背もたれに手をかけた。
「シ……シズちゃん、なんで」
「寝付けなくて散歩してればよ……くそ、こんなとここなきゃよかったぜ」
「……珍しいね、物投げてこないなんて」
「……そんな気分じゃねえんだよ。じゃあな、邪魔して悪かった」
「あ、ちょ、ちょっと」
立ち去ろうとするシズちゃんのバーテン服の裾をつかむ。
それでも気付かなかったシズちゃんに引きずられて、ベンチから落ちかけた俺の悲鳴にやっとシズちゃんは俺が服を掴んでいたことに気付いたようで。
なんだよ、と愛想なく言うシズちゃんに、
「ほら、たまには一緒に喋らない?ここで会ったのも何かの縁ってことで」
はあ?ふざけんな、手前と交わす言葉なんて俺が持ってるわけねえだろ。
とか、
ああ、悪かった。今からその口黙らせてやるから覚悟しろよ、ノミ蟲。
とか、
そんな返答だろうとたかをくくっていたのに、
一瞬驚いたように目を丸くしたシズちゃんは、一度顔を背けて、何も言わないままに、俺の横にどっかりと座った。
そのまま煙草を銜えて火をつける。
俺もそんなことになるなんて思ってもいなかったから、呆然とそれを見ることしかできなくて。
シズちゃんが煙草の煙をふーとはいて、ようやくああ、話してくれるんだなんて思う。
俺も座りなおすけど、なんか急に緊張してしまって、黙りこくる俺に、黙ったままのシズちゃん。まあ、つまり気まずい静寂が俺とシズちゃんを包んでいた。
なんだこれ、なんで俺の横にシズちゃんがいるわけ?
なんで座ってるわけ?
え、何これ、どういう状況?
「……シズちゃん?」
「…………あ?」
「えっと……………寒くなったね、最近」
「そーか?」
「そうだよ」
「そーか」
「うん」
「…………」
「……………」
「…………………」
「…えっと……、あの…」
ああ、どうして、こういうとき、不器用なんだろう。
どうしてこんなに、不器用なんだろう。
いつもは自慢できるくらいに器用なのに、こういうときだけ不器用なのはなぜなんだろう。
なんか、泣きそうになってきた。
うつむいて、シズちゃんの顔も見れずに、潤む視界に震える唇と、嗚咽が漏れそうになるのをこらえてみたけれど
「…、う……」
「………ッ…な、ななな何泣いて、んだ、手前は!」
「ちが……」
「血?」
「違、う………ひ、ぅ……俺、…」
一度溢れた涙は、堰をきったようにぼろぼろとこみあげる。
シズちゃんは、おろおろと俺のすぐ横に座りなおして、あーだのうーだの騒いでいた。
そんなシズちゃんが面白くて、あははと思わず笑ってみせれば、ぽかんと俺を見てシズちゃんは動きを止めた。
どうしたの?と首を傾げれば、
「な、……なんでもねえ」
と、少したじろいでそっぽを向いた。
その顔は、少し紅かったような、でも暗くてよく見えなくて。
「シズちゃん、」
「……なんだよ」
「…………好き、かも」
思わずこぼれた言葉。
本当に、思わず。
だから、言ってしまった瞬間に、はっとして、立ち上がる。
シズちゃんの顔、見れない。
見れずに、ああどうしようなんて勝手に焦って
「ご、ごめん……なんでもない…」
「………」
「もう、行くね。ごめん、引き止めて」
「おい」
腕を掴まれて、立ち止まる。
振り返った拍子に涙が零れて、でもシズちゃんは妙に真剣な顔をしているから何を言われるのかわからなくて、怖くて。
「臨也」
「………あ…」
「臨也、さっき、なんつった」
「………え、だから、…忘れてって……」
「いいから言え」
「……………、好きかも……って、……シズちゃん、俺「俺も」
「………は?」
「俺もだ」
また、沈黙。
ほろりと最後の涙が頬を伝って、
見慣れない真剣なシズちゃんのその顔に、なに言ってるんだろうなんて思う。
シズちゃんが、何、
息は白く、立ち上る。
シズちゃんの吐く息も、煙草のそれのように、白い。
「………何、言って…」
「……臨也」
「意味、わかんない」
「ずっと、手前が、でも、顔あわせると大嫌いなんていっちまうから、どうにもならなくて……手前は、俺のこと嫌いだと思ってたから」
「………嫌いなのはシズちゃんのほうだろ」
「そんなこと、ねえ」
引き寄せられて、抱き締められて、
信じろよなんて呟くから、もう何にも言えずに、これは夢なんじゃないかなんて思う始末。
俺を抱き締めてるのだって、シズちゃんじゃない誰かに決まってる。
きゅう、と握り締めたバーテン服。
指先からほんのりと、体温が伝わって。
好き、好き、大好き。
大好きな、
こんなに想い続けてた。
なんだよ、両想いとか。
幸せすぎるだろ。
信じられないよ。
張り裂けそうな胸の痛みは、いつからか優しい痛みに変わっていて。
刺すような冬の寒さも、気付けば、交ざりあった体温で、温かく溶けるような。
シズちゃん、
名を呼ぶ。
夢じゃないと、自分に知らしめるように。
信じられるように。
今はまだ何も言えないけれど、それでももう少しだけ、この温もりに甘えていてもいいだろうかなんて、目を閉じた。
(好きだなんて嘘)
(嘘じゃねえ)
(……嘘)
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そのまま結婚すればいい←