「…………ああ、」







ぽろ、

そんな効果音があうような、儚く、あっさりと、

シズちゃんの頬に涙が伝った。


ぎょっとした俺の目の前で、からんと音を立てて落下した標識は、原型を止めないほどものすごい握力でねじ曲げられていて

そのまま崩れ落ちるように座り込んだシズちゃんに、逃げるべきか、それとも様子をうかがうべきか、決めかねていた。



「あぁ、……ああ、そうか」






その、筋張った大きな手で、子供がそうするように顔を覆って、嘆く。

嘆く、嘆く。



「シズちゃん、」


「わかってた」


「……、「わかってたんだ」





それでも、



言葉がつまる。
シズちゃんの嗚咽が、静かすぎる路地裏に響いて、
ああ、どうしてこんなに静かなんだろうなんて目を細めた俺は、離れた場所からその嘆く人形を眺めている。



「どうして、俺は」


「泣いてるの?」


「わかんねえ。知らねえ。でも、手前のその面見ると、この辺が、裂けるみてえに、ああ、わかんねえ。痛みなんて、もうずっと感じたことなんてねえのに、痛え、『痛え』『痛え』」



『痛い。』





バーテン服の胸元を、ぎゅうと強く握り締めて、吐き出すように、そう叫ぶ。
悲鳴に似ていると思った。
その痛みの理由など、俺は知らない。
だけど、俺も、そんなシズちゃんを馬鹿にもできず、貶しもできず、同じように胸が痛んでいたから、どうしてだろうなんて目を閉じて。




目をあける。

いつも見上げる彼を見下ろすのは、別段気持ちのいいものでもなく、むしろ、気分を害するような。






「泣かないでよ」


「……なんで、笑わねえんだ。なんで、」


「……弱ってるシズちゃんなんて、苛めても、つまらないよ」


「……うぜえ、うぜえ、うぜえうぜえうぜえ、……ふ、…う………」


「……泣かないでよ、気持ち悪いから」


「なら、ほっとけ…もう、嫌なんだよ。手前の面見るの」


「………どうして。だって、いまさらじゃないか。あんたが俺を抱くのも、俺があんたに抱かれるのも、もうずっとこうだった。最初から、本気じゃない、ただの遊び。興味、好奇心。そんなものでしょう、その程度、でしょう?」




シズちゃんは顔を上げた。

鼻はどっかのトナカイみたいに赤くて、まぶたも赤く腫れぼったい。
台無しだなあなんて思うけど、なにも言わずに見つめていた。
ずきり、と心臓が痛んだ。
なぜだろう。
どうして胸が痛むのだろう。

シズちゃんが嘆くのを見ているだけ。
いつもなら、あれほどほしがる彼の弱味がこんなにあっさり俺の前に転がっているのに、馬鹿みたいに優しく手を差し伸べる俺は




「はい」


「んだよ、」


「顔拭きなよ」


「……気持ち悪ぃ」



そういいながら俺のハンカチをはねのけて、ごしごしとワイシャツの袖で涙を拭う。
軽く舌打ちして、出し損のハンカチをポケットに押し込んだ。

優しくすんなと、シズちゃんは俺をにらむ。




「だれが、」


「優しくされても、困んだよ」


「優しくなんてしてない。自意識過剰にも程があるよ」


「…………」


「………………」


「本気、じゃ、ねえんだな」


「そんなの、君のほうだろ」


「俺はッ……!」


「………何、」


「……………なんでも、ねえ…」





また眼をそらして、シズちゃんはそう呟く。
なんなんだ、むきになって。
本気じゃないって最初に言ったのはシズちゃんじゃないか。
俺は、ずっと、その訳のわからない胸の痛みを耐えていたのに、



ぎり、と噛みしめた唇から、うっすらと血の味がする。
ああ、どうしてそんな顔をするんだ。
俺だって、痛むのに、どうしてそんなに痛いと嘆く。

痛みに鈍いのが平和島静雄だろう、
痛みに疎いのが、平和島静雄だろう、


痛みなんて、感じないのが



「………臨也…?」


「……、何?」


「どうして、泣いてんだよ」



え?と自分でもおどろくくらいの間の抜けた声が、唇を割って出て

頬に手を当てれば確かにこぼれ落ちていた涙。
ああ、どうして、俺は泣く。
泣く理由なんて、俺には




「………臨也、」


「……え、……ぁ…」






ぎゅうと、布の擦れる音がした。
抱きしめられてると気付いたのは、色素の抜かれた髪の毛が俺の濡れた頬を撫でたのと、鼻をぶつけた黒いベストから香る紫煙の残り香を吸い込んだから。



苦しい。


苦しい、苦しい。



息が苦しい。
胸が、潰れるようにきしんでいる。

ああ、

ああもう、


どうしてこんなに苦しいのだろう。

ぼろぼろ落ちる涙に、ああ俺も所詮脆弱な人間なんだなんて思って。


苦しい、なのに、シズちゃんは腕の力を強める。
その腕は震えていた気がしたけれど、首筋に触れたシズちゃんの唇からもれた吐息が、そんな小さな変化を誤魔化すように。





「………何してるの」


「……俺は」


「……………抱きしめてくれたことなんて、なかったくせに」


「俺は、お前がそういう顔すると、破綻しそうになる。お前が、本気なわけねえことくらい、わかってるけど、それでも、俺は、少なくとも、俺は」


「…………シズちゃん」


「俺は、本気で―――……」








抱きすくめられて、動けずにいる。
俺の、その、心すら

あんたが本気なら、俺はどうだろう。



本気なわけないじゃん、あんたとの情事なんて。

ああ、でも

こんなに、溢れるような気持ちの、その名前を
なんとつければよいのだろう。
裂けそうなこの痛みの、その名前を
なんと呼べばいいのだろう。




千切れそうなこの身の、その、痛みを









「………シズちゃん、」


「………ああ、」


「シズちゃん、……シズちゃん。俺は」


「ああ、」


「知らないんだ。この、痛みの名前なんて」


「……俺もだ」








互いにわからないまま

そのまま、

そのまま、



気付かないままに俺は溺れていたのだろう。
遊びのつもりで踏み入れたそこに、
ずるずる、ずるずると、沈んでいたのだろう。

ああ、だからこんなに


こんなに、苦しいのか。

こんなに、



布の擦れる音。
もっと、もっと傍にいようと
抱きすくめられたままそう言われた気がして、




押し退けた体。
その唇に、届くように、ありったけ背伸びをするけど、結局届かず下りてきたそれに惑う唇を奪われた。





それが答えになるだろうか。



ずっと本気だったと、


伝わるだろうか。





(本気じゃない)

(素直じゃない)

(それでもそれが、君だから)




―――――――――
素直じゃないねえ
そこがいいb


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