この世界で、俺はいろんなものを失いすぎた気がした。

形のあるものは勿論、絆とか、信用とか、そんな切れてほしくないものに限ってばらばらに砕け散っていく。いつしか切れてほしくないと縋りつくことすら諦めて、切れるなら切れてしまえ、はじめから繋がらなければいいと、意地をはり続ける子どものように周りを突っぱねてみた。


「静雄、」


声は優しかった。
俺を呼ぶその声を聞くたびに、胸がきりきりと締め付けられる。息が詰まって、目の奥が熱くなった。

誰かを殴るたびに、一つ一つ何かが消えた。それは泡のように脆くて綺麗なもので、失ってはいけない何かであることは明白だったけど、中学生の俺にはそれが何なのか理解することができないでいた。今尚、その答えは出せずにいるけれど。





「……先輩」

「また喧嘩か?」

「……そうっす、けど」

「おいで」





トムさんは、そんな日に限って声をかけてきた。まるで見張っていたかのように、いや、トムさんがそんなことしていないのはわかっていたけど、つい疑ってしまうほど、俺が喧嘩した日にはこうして声をかけてくる。俺はそんなトムさんからも少し離れようとしていた。単純に怖かったんだ。大事なものになればなるほど、自分でぶち壊してしまったときダメージがでかいから。絆とか、そういう大事にしたいものをこれ以上失うのは、怖かった。
他人は俺を化け物だと呼んだけど、トムさんは馬鹿じゃねえのと笑ってくれた。
どの辺が化け物なんだ。どう見ても人間だろ。
そう笑いながら、頭を撫でてくれた。触れてくれた。
こんな、俺に。



「静雄ー」

「…………」

「しーずーおー」

「あ、……はい」


意識が戻る。雑踏が耳についた。心配そうに見上げてくるトムさんと目が合って、ほっと息をついた。


「体調悪ぃ?」

「いや、ちょっと考え事を…」

「そか」



それ以上追及してこないところがトムさんらしい。冷たいとは思わない。それがトムさんなりの優しさなのはよくわかっている。
信号が変わり、人の流れと一緒に歩き始めた。遠くで人の声に混ざる蝉の鳴き声が、更に記憶を掻き回した。






「静雄」



抱き締められて静まり返ったトムさんの部屋には、遠くから聞こえる蝉の声ばかり反響していて、互いの呼吸音すら聞こえずに、いつもより近く感じたのは部屋に満ちていた彼の匂いで。ごめんな、という四文字が耳から入り、頭に浮かんで理解されずに消えた。それは俺が今まで失ってきた何かが消えるときに似ていた気がする。その瞬間に見開いた目から、涙がほろりとあまりにあっけなく落ちてトムさんの肩に消えていった。



「すき、」




そう言ったのは俺のほうだった。抱き締められたことすらよくわからないままに、口からそんな音が涙のようにこぼれた。体が離れても、トムさんはいつもみたいに笑ってくれない。何か、俺が追い付けないくらいのスピードでいろんなことを考えているようで。体が震えだす。急に自分の言った言葉の意味を自覚して、怖くてたまらなくなった。また失う。また消えてしまう。一番大切な人が、壊れてしまう。唇がわななく。涙が止まらなくなった。困らせたくないから、嫌われたくないから、今更失いたくないと醜く縋るように涙を拭い続けた。俺は一緒にいれたらそれでいい。それ以上なんて何にも望まないから、失いたくない。



「静雄」

「…先、輩……」

「静雄、聞けよ」

「いや、っす……聞いた、ら…」




聞いたら終わってしまう。




「ごめ、…なさ……い」

「静雄、なんつーか、俺は………」













「おい静雄!」

「は、……あ」

「またか?」

「あ………すんません」



雑踏から離れ、路地裏に入ったところでまた意識を引き戻された。



怖かったんだ。

好きになってしまったらまた傷付けてしまう気がして。失いたくなかったんだ。大切だったから。何よりも、綺麗な気持ちだったから。誰かを傷付けて汚れきった俺のなかで、唯一とも言える、綺麗で、大切な


「トムさん…」


『先輩』



記憶が交錯する。呟いた名前に、ん?と振り返った顔も、その優しい声のトーンだって、あの日のままで。
急に目の前が滲む。上顎の奥が辛い。ずびと鼻が鳴った。かっこ悪ぃ。



「し、静雄!?どうした、どっか痛ぇ…わけねえか。大丈夫か?」

「トム、さん……俺、いいんすか?」

「あ?」



「トムさんを、好きなままで、いいんすか?」












「なんつーか、俺は、多分自分が思ってるよりずっとお前のことすっげえ大事に思ってんだ。後輩だし…いや、それだけじゃねえけどな?だから、失いたくないんだ。だから怖かったんだ。それは、お前と一緒……なのかな。偉そうなこと言ってる割に自制心きかなくなってて馬鹿みたいだけどよ。静雄、俺は、お前が」











「静雄」





ああ、


なんて優しい響きだろう。
それが俺の名だなんて、こんなに嬉しいことはない。

しずお、

もう一度、トムさんが言った。その顔は困ったように笑っていて、ああ好きだとまた胸が痛んだ。何度も何度も体験した息苦しい痛みは、あの頃と何も変わらず今も俺を苛んでいる。トムさんが好きだ。震えるほどに不安になるのは、この失うばかりの俺の世界で、彼だけは失いたくないからだとわかりきっていた。わかりきっていたのに、どうしたらいいのかわからない。壊したくないから触れない。触らなければトムさんは必要以上に触ってくれない。拒絶されたくないから好きだと言えない。嫌われたくないから確認することもできない。

俺は馬鹿だ。

こんなことすらわからない。わからなくて、結局泣いて、わかりあえないまま、不安になるばかりで。




「そうだなあ、言わなきゃわかんねえよな」

「え……」

「好きだぜ」






あの日愛を叫んでいた蝉は、すでに死んだのだろう。自分に似ていると思った。回転の悪い頭をフル回転させて、言い訳と言う名の告白を小一時間かけて声にして、トムさんはあの日も困ったように笑って何度も頷いていた。止まらなくなった涙を止めることも諦めて、まるで子どものように……いや、子どもだったのだけど、拙い言葉を並べて自分の心を少しでもわかってもらおうと声を出したのだ。


『お前が好きだ』


あの日と同じだ。
嬉しいのか悲しいのか、よくわからない涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら抱き締められた。触れるのが怖くて体を強張らせていれば、大丈夫だと声がする。無くさないでいられるだろうか。俺みたいなのが、この幸せにのうのうと浸るには、どうしたらいいんだろうか。

わからずに背に腕を回すことすらできない俺の目の前には、相変わらずの拙い、舌ったらずな子どものような世界が広がっている。






――――――――
なにがしたかったのかよくわからない。
突発的に書くとこうなります。

先輩呼びが好きで仕方ないので静雄くんに呼ばせてしまいましたすいません
反省はしている後悔はしていない
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