その日は、滅入るくらい天気が悪くて、その瞬間は、馬鹿みたいに呆気なくやってきた。




「痛いの痛いの飛んでいけ」

「うん、とんでいけ!」


殴られた頬を撫でながら唱えれば嬉しそうに飛び跳ねたサイケは俺の手をぎゅうと掴むとたのしいねと笑って言った。ああ、と相槌はうったけれど、サイケが意図的に明るくオーバーリアクションをしていることもわかっていたから、ちゃんと笑い返せていたかわからない。
マスターは出かけている。今日も遅くなるらしいから、夜までは怯えずに過ごすことができそうだった。相変わらずまるで一種の癖かなんかみたいに出かける前は必ずサイケを殴っていく。だから、自然と俺の仕事も家事手伝いとサイケの介抱になった。消毒液なんてない。湿布も、包帯もない。ないけれど、サイケはそれでもあの呪文さえあれば喜んでくれた。



「いたいのいたいのーとんでけ!」

「飛んでったか?」

「うん!」




さあ、家事をやってしまおう。サイケの手を取るとソファーに座らせて、ちょっと休んでなと頭を撫でてそこでやっとあれ、と感じた。


「サイケ」

「ん?んっ!?」



額をくっつける。熱い。かなり。この間の水風呂のせいだな。あのあと結局俺が帰ってくるまで出ていればいいと言ったのにも関わらず頑なに首を振って、大丈夫と繰り返した。気を失う寸前で、マスターが帰ってきて

「まだやってんの?馬鹿みたい。早くでれば?俺に命令されないとそんなこともできないんだね、本当愚図だ」

と言われるまで、サイケは水風呂からあがることはなかった。着替えさせようとした俺にマスターは着替えていいなんて誰が言ったと牽制して、着替えさせてやることすらできず、部屋に戻って

ただ服を脱がして、その濡れた体を俺の服で拭いた。
その冷たい体を温めるように、抱き締めて一緒に眠った。

翌日着替えたサイケはいつも以上に怯えながらマスターの前に姿を見せたが、着替えたことを糾弾されることはなかった。あのときのせいだ。他に考えられない。


「お前…熱あんぞ。辛くないのか」

「え、あ…マスターにぶたれたからあたまいたいのかとおもってた。きょうはなんかさむいなーっておもったけど…」

「言えよ、まったく……家事やっといてやるから部屋で寝てろ」

「でも…」

「大丈夫だ。時間はあるし…1人で平気だから、な?」

「………うん。ごめんね、つがる」

「なんで謝んだよ。お前は悪くないだろ?」



サイケは何か言いたげに口を開きかけたけれど、すぐに閉じて、わかったと寝室へ向かった。負い目を感じていたから勧めた、と言うのも否定できない。俺がサイケを守れたなら、サイケだって熱を出すことはなかったんだから。


たまに、夢を見る。俺もサイケも、そしてマスターも楽しそうに笑って話している夢。話の内容は覚えてないくらいつまらない話。でも楽しくて、嬉しくて、たくさん話すんだ。いつまでも、いつまでもそうして。

そして目が覚める。どっと嫌な気持ちになる。理由はよくわからないけど、自分を殴り付けたくなるくらい嫌な気持ちになるんだ。そんなの、有り得ないことを知っているのに、そんな生活が来ないことくらい、わかりきってるのに、なんでこんな夢を見るのだろう。

ああ、違う

わかってるから、夢を見るんだ。





は、と気が付いたら日が落ちていた。ざあざあと激しい雨の音と、手元の蛇口から流れ落ちるざああという水音が急に戻ってきて、慌てて時計に目をやる。想像以上にまだ時間は早くて、でも外は天候のせいでもう真っ暗だった。かなりの間ぼーっとしていたようだ。最近多い。疲れてるのだろうか。人間でもない俺が、疲れるなんてこと、あるんだろうか。

洗い終えた皿をかしゃんとおいて、流れる水を止めた。ぴちょん、ぴちょん、水が跳ねる。それを見ていたら胸が苦しくなった。理由なんてわからないけど、ただ、辛くて仕方なかった。

「………そうだ、サイケ」

わざと口にして、タオルで手を拭きながら様子を見に行こうと振り返ったときだった。


がちゃん、



玄関が開いた。

まさか、とは思いながらも急いで玄関へむかうと、そこにいたのはやっぱりマスターで、髪はカラスの濡れた毛のようにぺたりと雨にさらされていて、服からしたたる水が、長い間雨の中にいたことを物語っていた。なぜ、今日は遅くなると、言ってたのに。雨だからか?中止になったのか?


「おかえり、なさい」

「…………」

「上着を、あ、」


言い切る前にびしょびしょの上着を押しつけられた。それはじっとりと重くて、俺の心のようだと思った。


「…………あれは」

「え」

「主人が帰ったのに出迎えもしないのかあの愚図は」

「あ、ち、違うんです。サイケ、朝から熱があって…部屋で…」



言って、後悔した。
マスターの目に今までにないくらいの憤怒の色が浮かび上がったから。なぜそんなに憤慨したのかはわからない、ただ蟲の居所が悪かったのかもしれない、それでも

ああ、やばいと思った。



ずかずかと部屋へ向かうマスターの後を、思わず追った。待って、待ってサイケを、サイケをどうするの?
濡れた上着を律儀にハンガーにかけて、必死に部屋へ向かった。


「ま、待って、サイケ!サイケ!!」


扉が閉まった。後を追って扉に手をかけたが鍵が閉められてあけることができない。焦った。中から怒声と悲鳴が同じようなタイミングで聞こえてくる。

怒られるとか、もうそんなのどうでもよかった。ただ何度も扉を叩いて、サイケを呼んで


「マスター待ってください!!サイケ、サイケ!!マスター、待って、サイケ!!」

『ッ、この――!!』

『ま、やっなに、やめて!ごめんなさい!!マスターいや!いやだよ!つがる、つがる!たすけて!!つが、る』



そんな声を聞いた気がする。でももうよくわからない。怖くて、怖くて、耳を塞いで扉の前に蹲って嘔吐した。気持ち悪い。気持ちが悪い。サイケ、サイケ、ああ、なんで、なんでこんなことに、



サイケを失うことが急に恐ろしくなった。何よりそれが恐ろしかった。それは、サイケがいなくなったら今度は俺が殴られるんじゃないかという意味もきっと含む。でも、そんな汚い思いも含めて全部、猛烈に恐ろしくなった。
耳を塞いだ。目を閉じた。時間が早くすぎることを願った。サイケが何でもないような顔で「どうしたの?」って笑って出てきてくれることを切に願った。






*







気が付いたのは、いつだったか。気を失っていたようで、外はあまりに静かだった。静かすぎた。

立ち上がって、扉のノブに手をかけると、それはあまりに軽くかちゃんと音を立てて開いた。



「…………、あ」


声が擦れていた。ざらついた喉をどうにかするすべもなく、視界にはいった白い景色が何なのか、俺はしばらく理解できなくて


切り刻まれた服は、もはや服ではない。布切れ同然のそれに、渇いて変色した血が滲んでいた。そして、乱れた着衣の中に、気絶したサイケがいて、あまりにも冷静に『性的虐待』といういつかのニュースの言葉が思い出された。

近寄る足取りは、ふらふらと覚束ない。近付いて、ベッドの脇に崩れるように膝をついた。



「………、ケ………サイ、ケ……」



わずかに上下する胸に少し安堵して、名前を呼んだ。何度も、擦れた声が、出なくなっても、名前を、何度も、


「…………ん……」

「……!…サイ「いや…」

「……サイケ」

「いや!やだ、やめて、ごめんなさい!ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさ「サイケ!!」

「ひッ、う……あ、つが、……つがる?」

「サイケ…」




ほーと、体から馬鹿みたいに力が抜けた。安堵。それ以外の言葉は似合わないくらい、俺は安堵していた。また頬に痣ができている。身体中に打撲痕が残っていて、なのに俺はもう何にも感じなかった。これだけのものを見せ付けられて、俺は何を感じればいい?俺がサイケに寝ていろなんて言わなければこんなことにはならなかったのに。ああ、ああ俺のせいだ。俺、俺の…


「つ、がる」

「…………、…」

「いたいの、いたいのとんでいけ」


頬に触れられた手は冷たかった。


「つがる、いたそうなかおしてる。いたいの、とんでいけ」



ああ、こいつは、なんて奴なんだ。自分が一番辛くて苦しいはずなのに、その原因を作った俺を心配してやがる。馬鹿みたいだ。俺は何してんだ。サイケ、お前みたいになれたなら、


サイケ、



「痛いの痛いの飛んでいけ………痛いの、いた、いの……と、ッ、で……ふ、う」

「……つがる?」

「とんでけよ、頼むから……とんでってくれよッ……」



サイケの心配そうな顔が、滲んで全然見えなくなって、ぼろぼろと涙が落ちるたびにこの小さな体から今すぐにでも傷が消えていくことを願った。神様、いるんならサイケを助けて。こいつは何にも悪くない。こんなにも純粋で無垢で、俺とは正反対だ。傷付けるなら俺にしてくれよ、頼む、頼むから。

この痛いとこ全部、どこかに飛ばしてくれないか。


泣きながらキスをした。
ああ、こいつのことがこんなにも好きだ。自分の痛みより他人の痛みを按じることができる、優しいこいつが好きだ。


痛いの痛いの飛んでいけ


心の中でそう唱えながら、身体中の傷全部にキスしてやって、その夜は、一緒に抱き合って眠った。

雨の音が、少しだけ優しくなった気がした。




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