「"あい"って、なに?」




聞かれて戸惑った。
サイケの口から出たことのなかったその言葉の響きが、無意識に俺を恐怖させた。

それは、愛。
愛、それは、マスターのこと。

あの人は人間を愛している。この場合、自分を含めた人間、もしくは誰か個人をさすのではなくて、あくまでも他者。
つまり人間という存在を愛している。

マスターが俺たちを毛嫌いしている理由も、明らかにそこで、人間でもない俺たちが、まさに人間のように生きるのが気に入らないんだろう。
俺たちだって作られたくて作られたんじゃないのに。
俺たちだって、本当は、人間に



「………よく、わからないな」

「にんげんじゃないから?」

「え、「にんげんじゃないから、わからないのかなあ」



その無意識に、無自覚に、抉られる。
悲しそうに笑うサイケの顔に、言葉にならない想いが溢れだして

人間じゃないから、愛がわからない
人間じゃないから、愛せない

人間じゃないから、
愛されないの?


そうサイケは聞きたかったんだと思う。
そうとは言わなかったけれど、濁した言葉の裏など、あまりに浅くてよく見えて



「……あ、」

「ちょっと、来い」


ずかずかとやってきたのは、やっぱり機嫌の悪いマスターで、サイケの髪を乱暴に掴むと、そのまま部屋を出ていく。
とめる間もなくて、焦りながらそのあとを追った。

ごめんなさいと泣くサイケにうるさいと怒鳴り付けるマスターの声が、嫌というほど耳に刺さる。
やめて、サイケを虐めないで。
サイケは悪くないのに、サイケは何にもしてないのに
やめて、

やめてよ


やめてくれよ



「や、あ、ごめん、なさい、ごめんなさい」

「うるさいな。少し黙りなよ」



追い付いたとき、それはちょうど、マスターがサイケの顔を風呂の水につけている瞬間だった。
ごぼごぼと、水面に浮かんでは消えるサイケの吐いた息。
それは、だんだんと小さくなって、ばしゃばしゃともがくサイケの姿が、怖くてたまらくなって


ざばんとサイケの顔が水面に引き上げられる。
げほげほと咳き込んで、いつものように謝る間もなくまた水に浸けられて。


怖い。

怖い、

怖い、怖い怖い、


その光景を、ちゃんと理解できていないのに、それがすごく怖くて
でも動けなくて、すくんだ足は、逃げ出すことさえできない。
震えた唇は、やめてくれと、それすら訴えることもできず、何度も冷水に頭を沈められては引き上げられるその暴力を、俺はただ佇んでみているだけで


「お前みたいのが人間みたいに呼吸しやがって、」


やめてくれよ、

仕方がないだろう。
俺たちはそうやって創られてしまったんだから。

たまたま、サイケが、マスターを意識して創られただけなのに。
俺たちは頼んでない。
こんな顔にしてくれなんて頼んでない。

なのに、なんで?
サイケが優しいことなんて、俺でもわかる。
サイケが間違ってないことなんて、俺でもわかる。

なのに、なんで?
なんでサイケはこんなふうにされてるの?
なんでマスターはサイケばかりに暴力をふるうの?

やめて、
やめてよ



ああ、なのに

俺はそんなことすら、言えずに今もこうして







プルルル




「…………ふん、悪運が強くてよかったね」

「げほ、げほ……はあ、は……あ、」

「………サイケ」





近付くことも、できなかった。
目の前で咳き込み震える小さな体が、うずくまっているのに
濡れた髪から滴る水滴を眺めているだけの俺は、



何してるんだ。

何をしてるんだ。

もうマスターは来ないのだから、早く手を、さしのべて



「……サ「津軽」

「…………は、い」

「出かけてくる。…………ほら、立てよ」

「い、た……、う……」

「そこ入れ。俺が帰ってくるまででるな」

「え、でも……」

「何?入らないの?」

「………はいります」

「……マ、マスター!」

「…………」



無意識だった。
サイケが風呂窯に足を入れた瞬間に、俺は叫ぶように言っていた。
ふらりとこちらをみたマスターの目は、とても人のものとは思えなくて

ぎらりと光る、獣のような
そんな、威圧的な、高圧的な、



怖い。
またそう思った。
ぶるりと体が震えて、駄目だ、逃げろと警鐘をならすのに、体はぴくりとも動かなくて



「何?」

「……あ、いや、その……、あ、サイケ、が、」


そんなことをさせたらサイケが死んでしまうよ

言いたい。
でも、言葉にならない。
声が震えている。

ずい、とマスターは俺に近付いて



「ねえ、」

「……はい」

「わかってるよね?」

「…………………」

「………早く入れよ、グズ」

「はい」




ちゃぷんと音がした。
服を着たまま、冷たくなった水のなかにサイケはうずくまって、
マスターは俺にはもう、何にも言わないで、出ていった。




駄目だ。

俺は、なんでこんなに無力なんだ。
どうして、



どうして








「つがる」


「………え……」

「おへやそうじしてきていいよ?またちだらけになっちゃったし。あさ、たたかれちゃったときによごしちゃったのそのままだったし。おちるかなあ」



そんなことを、弱々しく笑って言うから、俺のほうが泣きそうになった。
視界が滲んで、ああ、でもだめだ、俺が泣いたらきっとサイケが不安がる。
だから泣いたらだめなんだ、俺が泣いたらだめなんだ。

自分に言い聞かせるように、何度も、何度も心の中で囁いて、




「サイケ、すぐ、戻ってくるからな」

「……え?」

「すぐ、戻ってくるから、そうしたらいっぱいいろんなこと話そうな」

「………うん!」


嬉しそうに、それはそれは嬉しそうに、サイケは笑って頷いた。



*


朝方サイケが流した鼻血を、削ぎ落としていく。俺たちはアンドロイドだ。だけど、ご丁寧に血液までそっくりに創られている。正確にいえば血液ではないのだけれど、顕微鏡でも覗かないかぎりわからないほど、それは"血"だ。サイケが落ちるかと心配していた血は、想像以上にあっさりと落ちた。ほ、と息をつく。安心したんだ。この件ではマスターに怒られることはないだろう。

「ああ、洗濯物干さなきゃな。それから皿も……早く終わらせてサイケのとこに………あ、れ」




ぼろりと、液体が落ちて。あまりに呆気なく落ちたものだから、それが涙だと気付くのが遅れた。

何、泣いてんだ、俺は。

泣きたいのはサイケのほうだろ。なのになんで、―――なんで助けもしない俺が泣くんだ?

ああ、最悪だ。俺が一番最低な奴だ。全部わかってる。マスターが、何かに苦しんでいて、それゆえにサイケに暴力を振るってることも、サイケがそれを理解して尚且つマスターを愛そうとしていることも、俺がマスターに怯えて守ってやれないことをサイケが憎んでないことも、いつも、ありがとうと笑うサイケの笑顔が泣きそうなこと、いつも、サイケは誰も見ていない場所で1人で泣いてることも、気休めのあの呪文を、俺を励ますために楽しんでみせていることも


全部、わかっているのに、俺は何もできない。



「………ッ、う、あぁ」



ああ、どうして泣いてんだよ、早く仕事終わらせなきゃ。早くサイケの元へ行かなきゃ。泣いてたらサイケが心配する。それじゃ駄目なんだ。せめて俺といる間は笑ってくれるように、俺は笑っていなければ。笑え、笑えよ。ああもう、なんでこんなに悲しいんだ。ああ、ああくそ



誰も悪くないのに、なぜ傷付くんだろう。

俺にはわからない。
人間がわからないものを、わかるわけないんだ。

わからない。

そう言って俺は、いつも逃げるんだな。




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