今日も、だ。

何かが割れる音。
壊れる音。
叩きつけられる音。
怒声。


悲鳴。
懇願するような、謝罪。





「、い!ごめッ、ごめんな、さい!う、ッつ、めん、な、さ、ごめ、んなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!」



目の前で、ふっ飛ぶ華奢な体。
それを止めることもしない俺は、ずるい。わかってる。本当は止めたい。
本当は、手を差し伸べたい。
でも、それができない、んだ




「ひ、ぐ、ごめ、なさ……、ごめんなさい、ごめん、なさい」

「機械の分際で、人間に成り代われるとでも思ってんの?いいご身分だね」


傍から見たら奇妙な光景なのかもしれない。
同じ顔が二つ。片方は憤怒。片方は嘆き。
あまりにも、不思議な光景。でも、これが、最早日常。



殴っている人間の名は折原臨也。俺と、そして殴られているほう、サイケの、マスター。
マスターは、俺たちが嫌いだ。それは簡単な理由。


俺たちが人間じゃないから。


ただ、俺たちは精巧に作られているから、人間のように臓器もちゃんとあるし、だからこそ、人間のように死ぬ。
脳だけは電子頭脳だけれど、そのほかは、全部人間と同じだ。

俺たちを作ったのはマスターじゃない。
詳しいことはあまり知らないけれど、俺たちは人造人間の試作品として作られた。目覚めたときにはマスターのもとにいたから、よくわからないのだけれど。



がしゃんと大袈裟な音を立ててサイケが机に叩きつけられた。

はあ、はあ、マスターの荒い息と、ひく、ひくとしゃくり上げるサイケの声が、妙に耳に残って、ああ、今日こそは、今日こそは止めなければと口を開けかけて

それで、やめた。


口を出しても、きっとマスターはやめてくれない。
マスターは、俺の言葉なんかに従うわけがない。




「………出かけてくる。津軽」

「…あ、はい」


ハンガーにかけられていた黒いコートを掴むと玄関に向かうマスターのあとを追った。
ちょうど靴を履き終えたマスターは黙って腕を出すから、それにコートの袖を通す。
もう、何度もしてきた行為。何度も、何度も。そしてマスターのいうことは決まっている。



「あれに手かさなくていいから。ねえ、わかってるでしょ?」

「………はい。……今日は、何時ごろお帰りですか?」

「わかんない。向こうの都合によって変わるから。でも遅くなるから夕飯はいらない」

「わかりました」





あれ、か。
マスターはサイケの名前を呼んだことがない。
どうして、わざわざサイケだけに暴力を奮うのか、それはよくわからないけれど、マスターは本当にサイケを疎ましく思っている。その割に追い出したりはしない。
いや、きっと、逃げ出しても連れ戻されるだろう。
理由なんてわからない。気に食わないから?そうなら、それだけなら、なんて浅はかなんだろうか。
そんな理由だけで、サイケは、あんな




誰もいなくなった玄関で、しばらく閉じた扉を眺めていた。
何故なんだろう。
何故、サイケなんだろう。
俺はあんな風に殴られたことはない。確かに俺はサイケより器用だ。頼まれたことはたいていこなすことができる。
ただ、サイケはすこしだけへまをする。不器用と呼べばいいのか。
でも、サイケが失敗るのは、マスターに怯えているからだ。コーヒーを零すのは、マスターの近くへいくと無意識に体が震えるから。書類を間違えるのは、怒られないか、殴られないかとそればかりに心を捕われているから。


サイケは悪くない。

サイケは、悪くないんだ。






「ひく、……ふ、ひく、ぅ…」

「………サイケ」





デスクの前で溢れる涙を拭うサイケの近くへ寄る。
こちらを見たピンクの目は、涙で濡れ、ハの字に寄せられた眉は、ただでさえ気弱そうに見えるサイケの表情を更に弱々しくみせた。
ふう、と息をついて一度トイレへ向かった。
ぐるぐるとできるだけ少なくすむようにトイレットペーパーを取り、それから戻ってサイケの前へ座る。
口の端は切れて血がにじんでいる。頬も大きな青痣になっていて、額には前に付けられた痣がまだうっすらと残っていた。
涙と血を、取ってきたそれでそっと拭ってやる。

わざわざトイレットペーパーを取ってきたのは、もちろん理由があった。
タオルを使えばそれに血がついていることを見つけたマスターにまたサイケが殴られるだろう。
ティッシュを使えばゴミ箱に入っているそれを見つけたマスターが………これ以上は言わなくてもわかるだろう。


トイレットペーパーは都合がいい。
流してしまえば見付かることもないから。


傷を見せてみろと促せば、ふるふるとサイケが首をふった。



「ひく、だめ、だよ、ッぅ、」

「なんで」

「つがるが、おれのてあてしてるのしったら、つがるも、なぐられちゃうよ?」

「……………大丈夫」

「でも、でも、つがるが「サイケ」

「……………」

「大丈夫だ」



ぎゅう、と抱き締めて

大丈夫だからともう一度呟いて、体が痛くないようにそっと抱き締めた。
きゅ、と掴まれた着物の袂に、なんだか言葉にならない気持ちになって、サイケ、サイケと名前を呼んだ。

可哀想、そんな哀れみをかけるくらいなら、止めればいいのに

そんなふうに思う。でも、俺には止められる力もないんだ。

ごめんな、

ごめん、


そうやって何度も心の中で謝りながら、いつもサイケを抱き締める。
ごめんな、サイケ。
俺が弱いから、俺が、

ごめんな、




「つがる、」

「……ん?」

「いつもの、やって?」

「…………ああ」






それは、ずっと前に教えてやった呪文。
俺がテレビで見ただけだけど、サイケはそれが好きだった。
だから、いつもサイケが殴られたあとには、








「痛いの、痛いの、飛んでいけ」
「いたいの、いたいの、とんでいけ」




「向こうのお山に飛んでいけ」
「むこうのおやまにとんでいけ」





くすくす、サイケが笑った。
痛くなくなったかもと、笑った。

本当は、すごく痛いんだろう。気休めにしかならない。そんなのわかってるけど、それでもサイケが笑ってくれるから、

だから、







マスターが何を考えているのか、よくわからない。
俺たちを嫌っているわりに、部屋を一つ貸し与えてくれている。ちゃんとベッドもあるし、エアコンだってついていた。
多分、すごく恵まれている。

マスターが出かけている間は、頼まれた仕事や家事をこなし、そのあと帰ってくるまで自由に過ごす。
サイケもその間は殴られることもないからよく笑ってくれる。にこにこ、人懐っこい笑顔で、笑ってくれる。
それが好きだった。
サイケの笑顔が大好きだった。

つがる、つがると俺を呼ぶ声が好きだった。




「つがるー」

「何だ?」

「いぬってどんなの?」

「んー………動物だ」

「どうぶつ?ねこちゃんみたいなやつなの?」

「まあ、俺もテレビでしかみたことないんだが」

「ねこちゃんはにゃあにゃあっていうんでしょ?」

「おお、よく知ってるな」

「えへへ」




頭を撫でてやれば、嬉しそうにはにかむ。
俺たちは外に出られない。
マスターから禁じられているから。

だから、世界にはたくさんの人間がいることも、俺のモデルになったオリジナルの人間がいることも、知ってはいるが、見える世界などテレビとマンションから眺める景色だけ。

悲しいとは、あんまり思わない。

だって俺たちは世界の広さなど知らないから。
きっと、マスターがいるかぎり、その広さを知る日などこないから。
わかってる。
別にマスターを憎んでるわけじゃない。
きっと、サイケだってそうだ。マスターを憎んでる訳じゃないんだ。



「サイケは、偉いな」

「なんで?」

「んー、なんでも」

「……えらかったら、マスターにおこられないよ……えへへ」

「………無理に笑わなくていいんだぞ?」

「え?」

「マスターがいないときくらい、自由にしていればいいんだ。感情も、行動も」

「…………じゃあさ、つがる」

「ん?」

「ぎゅーってして?」

「………でも、体痛くないか?」

「そのときはつがるにいたいのいたいのとんでいけしてもらうからいいの!」

「…そか」





おいでと手を出せば飛び付いてくる傷だらけの、子供のようなサイケ。
ぎゅっと、布の擦れる音がして、思い切り抱き締めた。
どこへも行かせたくなくて、独り占めするように、強く抱いた。

苦しいようと困ったような声が耳をくすぐって、思わず笑みがこぼれる。

ああ、ずっとこのままならいいのに。
いつまでもこの瞬間のままならば



「…痛いの痛いの飛んでいけ」

「うん、………とんでった!」



にっこりと腕の中で笑ったサイケの頭を撫でてやる。

そんな動作に、酷く切なくなった。

きっとマスターが帰ってくればまたサイケは殴られる。わかってるけど逃げられない。

でも今はこのままでいさせてほしい。

せめて、この瞬間だけでも




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