「愉しいねえ」
それは大きく手を広げては、くははと思わず零れたであろう笑いを携えて、僕を見た。冬の冷たい空気が吹き抜ける、そんな暗いビル、と呼ぶにはあまりに小さい廃墟の屋上で、僕は何故だかこの男と一緒にいる。
風は鋭く冷たい。
ちっとも優しくない。
だから早く帰りたくて仕方ないのに、まあ、もう少しこの悦楽に浸させてよと言葉にする前に笑われてしまったから、「帰っていいですか?」なんていう控えめな拒絶も喉の奥に引っ込んでしまった。多分、もう出てこない。
また一層強さと冷たさを増した一陣の風がびゅうびゅうと耳を掠めるから、ああもう嫌だなんて体を小さく丸めて黒ずくめの男に目をやった。
「臨也さん」
「なんだい?」
「今日、こんなもの見せるためだけに僕を呼んだんですか?」
「そうだよ」
「…………」
「寒いのかい?」
「寒いです」
「そうか。じゃあこっちにきて下を覗いてみるといい。きっと愉しくなるよ?君の大好きな非日常が、今!ここにあるんだよ?」
「………非日常って言いますけど、そこにあるのはぐちゃぐちゃになった死体だけじゃないですか…」
「ん?何か言った?」
「いえ、」
「ほらぁ、おいで」
うずくまっていた僕の手を、僕より冷たい臨也さんの手がさらった。
立ち上がると、当たり前だけどもっと寒くて、思わずこくんと唾を飲んだ。ふるりと震えた体はそんな冷たい風をきって、臨也さん、僕より手冷たいのに寒くないのかなと疑問に思って。思うだけで尋ねなかった。脳内で今の僕のように唇を真っ白にしてがたがた震える臨也さんをうまく想像できなかったから。
錆びた柵からを下を覗いた臨也さんはこっちをむいて、満足そうに笑った。
ねえ、帝人くん
声は、気味が悪いほど透き通って、瞳は、狡猾そうに僕を見て、それは酷く純粋な期待に輝いていて
怖くはない。
でも、やっぱり変な人だなあと思った。こんなところに急に呼び出して、夜陰に乗じていれば物思いに耽った男が柵の近くまで行って立ち止まる。そしてそのあとそれを乗り越えて、
飛び降りる瞬間、「あ」と声が漏れかかるのを臨也さんに口を押さえ付けられて止められた。
何故、なんで?
どうして止めないんだ?
そう思う割に僕のほうだってドキドキしていた。
それは、不安じゃない。
期待?わからないけれど、この異常な男と、もしかしたら同じ感情なんかを抱いてるんじゃないかって思った。
そう、それは今も。
こうして柵の前まできて、きっと普通なら見たくないと顔を背けたがるだろうに、僕は、どこか興奮していた。それはまるで子供のような、いや、僕は多分まだ子供なんだろうけど、そんな幼い期待だ。わくわくと、そんな、感情が
「さあ、見てごらん」
嫌悪。
この男を嫌悪している。だけど僕は期待している。この人の喜ぶものは、きっと"普通じゃない"。人の死を悦楽ととらえるこの男を嫌悪しているけれど、僕は
そんな矛盾の中に僕はいる。
そんな矛盾の外に彼がいる。
つないだ手は冷たいまま。離れた体の間を吹き抜ける風も冷たいまま。そのはずなのに。
その風が血なまぐさくぬるい気がしてならなかった。なのににやりと笑う彼の顔に、怪訝そうな顔を向けたつもりだったけど、そんな僕の顔を見てもっとにやあと厭らしく笑うから、もしかして僕も今笑ってしまっているんじゃないかなんて、思って
「さあ、」
柵に手をかける。
ドキドキと心臓がうるさいくらいに騒いでいる。
ああ、どうしよう。本当に死んでたらどうしよう。
どうしよう、どうしよう、どうしよう
そうして、見た。
「………………あれ?」
何もない。
いや、暗闇のなかに、生々しい血のあとは残っているけど、でもそれは、今さっきついたような新しいものではなくて
なんだろう、この感じ。
がっかりしている?
喪失感、みたいな、そんな、感じがした。
そんな僕の隣で臨也さんがくつくつと堪えきれないように笑うから、
「どういうこと、ですか?」
「さぁてね。残念だった?」
「いや、……死んで、ないんですよね?さっきの、人」
「さあ、でも死体がないんだから、そうなんじゃない?」
また余計なことを、
そんな声を聞いた気がしたけれど、意味もわからなかったから、問うことはしなかった。
臨也さんのことなんて、よくわからない。わからないことしかないくらい、わからない人。
だから聞いたってきっとわからないから、
だから聞かなかった。
言葉にしても意味がないことくらい、わかっていたから。
「臨也さん、」
「なんだい?」
「一体、何が愉しかったんですか?」
「そんな問いが君の口から出るってコトは君はあのどこぞの誰ともつかない男が死んでいたら愉しかったのに、と思っていたっていうことだよね?人の死を愉しんでいた俺をあれだけ怪訝そうな顔で見ていたわりに、君は期待していたんだ。あの男が死んでいたら面白い。
死んでいたら、よかったのにって、今残念に思ってるんだろう?」
「そ、そんなこと………」
そうなのかもしれない。
僕は、期待していたのかもしれない。心のどこかで、知らない誰かが死ぬことを、愉しみにしていたのかもしれない。
びゅうと強い風が吹き抜けたとき、ようやくはっとして
「……ない、です」
そうつぶやいて。
ふうんと、臨也さんは笑っていたけれど、多分僕が考えていることくらい僕以上によくわかってるんだろうなと思った。
「俺はね、別にあの男が死んでいようといまいとどうでもいいんだ」
「………え?」
「君の、その表情を見てるのが一番愉しい。今日の目的はそれだもの」
「はあ…………じゃあ僕は、やっぱり貴方個人の悦楽のために呼ばれたんですね?」
「そうだよ?」
にっこりと笑った顔は、偽物だと思った。でも、本物だと思った。
自分が娯楽の玩具のように使われたことに、酷く嫌な気持ちになったけど、「あなたは最低ですね」とそれを口に出すほどの度胸も僕にはなかったから、その笑顔から視線を外してまた柵の向こう側の世界を見る。
たった、こんな錆びた柵一つが境界を引いた世界には、あまりに差異がありすぎると思った。
生と死、それは本当に背中合わせのもの、そんな感じだと思った。
すごく似ているなと思った。
それだけ思って、きっと僕はいつだってこっち側から向こう側をみているんだろうと確信した。
きっと、この隣にたっている男のように、僕も向こう側を悦楽とする人間なんじゃないかなと、考えて、
そこで急に寒さが戻ってきた。
かたかたと体が震えはじめたら、また僕よりも冷たい手が柵に置かれた僕の手をとって、
「帰ろうか」
そういうから、
「帰りますから、あの、手は……勘弁してください」
そう言った。
真冬の、いつも以上に星のよく見える夜の話だった。
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友人に差し上げたものを引用
帝人くんよくわかんねえw