目を開けたら煩いくらいの火災報知器のベル音と、うっすらと部屋を覆う白い煙。
どこからかシューシューと空気の漏れるような音がしていた。
しまった。
本気で寝てしまったらしい。
多分あの甘ったるい匂いのせいだ。
それよりも今は自分の置かれている状況がよくわからずに呆然と辺りを見回し、煙を吸い込むたびにゲホゲホと咳き込んだ。
火災報知器?
火事?
だけど火の手は見えない。
一酸化炭素中毒にはなっていないようで、身体を動かすことは可能だ。
酷く息苦しい。
自然と荒くなる息にほんの少し焦り、早く部屋から出ようと咳き込みながら扉に手をかけた。
「…………っはあ…嘘だろ?見かけによらず、えぐい殺し方、考えてくれるねえ…」
扉が開かない。
このまま焼け死ぬか一酸化炭素中毒で死ぬかだななんて思って、自傷的に笑う。
振り向いて扉に寄りかかり伝うようにずるずると座り込んだ。
死ぬか、
ここで
俺は死ぬのか
なんだよ、くそ
やっぱシズちゃんの言うとおりにしとくべきだったかな。
ただ終わりにしようと思ってきただけなのに。
ただ、片桐に
終わりにしようと告げにきただけなのに。
そうすればもう、俺がシズちゃんに近づかなければ、
もう、あわなければ
全部丸く収まる。
全部終わる。
くそ、うまくやれると思ってんだよ。
ああ、もう大嫌い、
言い慣れた言葉に息が詰まった。
膝に顔を埋めて、
「なん、なんだよ、なんで、こんなになっちゃったんだよ。なんで、………なんでシズちゃんのことなんか、好きになっちゃったんだよ」
好き。
言い慣れた言葉に、言い慣れていたはずの言葉に、唇が震えた。
俺は人間が好きだ、
そう叫ぶように生きてきて、今更、俺はこんな言葉にヤラレている。
どうかしてる。
涙が止まらないのだって、煙で咳き込んだせいなんだ。
俺は、自分でこの道を選んだ。
今まで全部、人の気持ちは選んでも、自分の道だけは誰にも譲らずに選んできた。だからもう、今回もこれでよかったんだ。
心のどこかでこうなることくらいわかってたんだ。
これで最期。
俺は、最期まで独りだ。
*
死ぬというのは甚く不思議なものだ。
だけど、何より平等だ。
平等に、独りだ。
生きているものとは決別して、死者はどこかへ行くのだろうか。
俺は、正直わからない。
人によっては宗教に絡んで、神のもとへ帰るのだとか、天国と地獄があるのだとか、はたまた死んだあとにあるのは何もない暗闇だとか。
無の境地であるとか。
知りもしないことを、決め付けて、こじつけていきている。
だから死ぬのが怖くないという人間がいる。
こじつけがあるから死ぬのが怖くないわけではない。
死ぬのが怖いからこじつけるのだ。
死んだ先には地獄しかないと、そう考えるより、自分に都合のいい考え方をしたほうが、死が恐ろしく感じないだろう。
つまりはそういうことなのだ。
どこへ行くかなんて、死ななければわからない。
どこかへ行き着いたと感じる脳など、停止しているかもしれない。
恐怖を感じるのも脳。
死後を考えるのも脳。
脳が停止した脳を想像することなどは、一生かかってもできないことだ。
無駄なことだ。
だから、俺は……
咳き込みながら目を開いた。
辺りは真っ白に煙に覆われている。
火災報知器のベルの煩さも、今は遠く聞こえる。
窒息しかけながら倒れた床の冷たさに、顔をしかめたのも、もうしばらく前。
朦朧とする意識のなかに、
思うこと、否、思い残したことを、願う。
そんな権利など、俺にはないだろうに。
シズちゃんに、
あと一度だけ会いたかった
それだけを。
最後に声を聞いたのは、あの日の電話。
あのとき、もしも波江が帰ってきていなかったなら、
もしももう少し早く、俺が想いを告げていたら、
もしも俺がこの気持ちを隠し通せていたなら、
何かが変わっていたのだろうか。
事態がもっと好転していたのだろうか。
今頃
シズちゃんと、またケンカしたりしていたのだろうか。
ああ本当に
運命って奴はなんて。
シズちゃんがあんな変な力さえ身に付けなければ、何もかわらず、ずっとあの頃のままでいられたはずだ。
ケンカして、怒らせて、追い掛けられて、貶めて
でもどこか切なくて
そんな想いに気付かされたのは、皮肉にもシズちゃんに近付けないという状況になって、そんないつもならどうでもいいようなことに異常なほど自棄になって、片桐に抱かれて、それで。
なんて、全部遅かったんだろう。
気付くのも、動くのも、想うことさえも。止まない後悔に涙は零れ続ける。
「ゲホゲホ………っ、ちゃ……シズちゃん…ゲッホゲホ」
「――――いざやぁああ"あ"あ"!!!いんなら返事しやがれ、コラ!!!」
びりびりと吠えるような叫び声の直後、目の前に立ちふさがる扉がみしりみしりと何度か軋んだ。
聞いたこと、ある声だ。
聞きすぎて、間違えようのない声だ。
焦がれすぎて、どうしようもなかった声だ。
え、なんで
「…………シズ、ちゃん…?」
*
「手前はずいぶん淋しそうに笑うな」
「………どうしたのシズちゃん、急に」
気持ち悪、と怪訝そうな顔を向ければ眉間には深々と皺。
それはいつものように苛立ちからではなく、純粋な疑問、それから。
首を少し傾げるように見つめてくるシズちゃんに、不意を突かれてしまっていつものように、べらべら話すことも出来ず、ばれない程度に内心たじろぐ。
「なぁ〜にを……言っちゃってるの?」
「臨也よぉ……俺とか他の奴とかにべらべらべらべら苛々するようなことをわざと苛々するように言ってくるってのは………本当に単に俺が嫌いだからなのか?」
「は?」
「嫌いならよってこなきゃいいだろ」
何言ってんだこいつ。
でも、シズちゃんとこんなに長い間言葉のキャッチボールが出来たのは、大分久しぶりのことだ。
だが、意思のキャッチボールをすることがなっていなさすぎる。
いつも俺の考えを根底からぶっ潰してくるシズちゃんのことだから、バカのくせにまたよくわかんないこと考えてるんだろうけど。
「それは……シズちゃんだって同じだろ」
「俺は会いたくねえのに手前がよってくるんだろうが!!」
「だってシズちゃん見ると怒らせたくなるんだよ。ほら、バカのくせになんかよくわかんないことばーっかり考えてるからムカつくんだもん」
「真面目に答える気は……ねえのか、手前にはよ!!!」
高校の、薄汚い屋上で、シズちゃんの持っていた空の苺牛乳のパックがミサイルのように飛んできたのをひょいっと避ける。
今更この程度のものをよけるくらい造作もない。
へへん、とバカにするようにシズちゃんを見れば、闘牛の様に息を荒く怒っていたが、俺がナイフを取り出して戦意を見せ付けると急にやる気が失せたのか腕をだらりと下ろして頭を掻いていた。
なんだよ、怒んないじゃん。
ちょっとだけ期待外れというか、虚しくなって俺もナイフをしまう。
「…どうしたのさ、調子狂うなあ。頭どっかにぶつけてきたんじゃないの?」
「…手前はよぉ、
淋しいだけなんじゃねえのか?
ガキみてえに飽きずに毎日毎日毎日毎日、俺なんかに絡みにきてよ。淋しいなら友達作れ。そして俺を苛々させるな」
シズちゃんは多分、自分に被害が及ぶのが嫌だったから、あんなこと言ったのだと思う。
でも、出会ってまだ半年もたたないくらいのシズちゃんなんかに言われたそれが、
あまりに図星だったから、シズちゃんなんかに、自分の弱さを、
隠していた心を唐突に見透かされてしまったから、
俺は、
何も言えずに、ただシズちゃんが居心地悪そうに購買で買ったパンに食らい付いてるのを、見ているしかできなかった。
口を開いたら、
泣いてしまいそうだったから。