どろりとした
川底の汚泥のような
じっとりとした
絡み付くような
冷たい、暗い


そんな世界に、俺はいた。

たった一人で、
宙に浮くように、
気分の悪い空気に、押し上げられるように、押し付けられるように、



不意に目を開けて、白い天井が目に入って

ああ、夢だったかと
そう思って





ダダダダダっ



そんな効果音が似合うような足音。
振り向けば
新羅がらしくないほど息を荒くしていた。
膝に手をついて、
細っこい肩は酷く上下し、玉のように落ちる汗に全力疾走してきた様子が見て取れた。

上げた顔は泣きだしそうで、嫌な気配に何も言うなと強く願って、じっとりかいた手のひらの汗に息苦しさを覚えて。



言うな言うな、言うな

頼むからそれ以上言うな。

俯いて、何だとも聞けずに、
折れそうな膝に、
何度もそれだけを願って。





「静雄、臨也が………
















臨也が殺されたって…」














声が出ない。





ただ新羅の荒い息づかいだけが耳に残る。
涙さえ溢れることはなく、ただなぜだと、そんな愚直な問いばかり溢れてしまって



なんでだ、

なんで死にやがった、臨也

おかしいだろうが、
いつも殺しても死なねえみたいな顔して、余裕ぶっこいてへらへら生きていたのに、

何俺の知らないところで死んでんだ


ふざけるなよ、


なあ、







臨也、


















「シズちゃん、なんで来てくれなかったの?」

















声がした。


そんな気がした。








*













「ぅ、あ……っ!!……はあ、…はあ……くそ、がっ…」


飛び起きると、相変わらずソファーの上。
昨日あけた穴もまだ残っている。
無造作に身体の上にかけられていた毛布に、ああ、夢だったとそこで気付く。

心の底からの安堵。
はあと吐いた息にやっと呼吸したと思えた。
冷えた空気が爪先から頭まで染み渡る気がする。

さああと外からする音は、雨の音かとぐったりと思う。
日も昇る前だ。
新羅たちを起こさなかったかは不安だったが、どうやら平気だったみたいだ。


たれる汗を拭おうとして、不意にそれが涙だと気付く。

泣いている?

この俺が、
臨也が死んだと、そう思って。


唐突に不安になった。
今、臨也は生きているのか。

怖い。
理由はわからないのに、臨也が死ぬのが怖くて仕方ない。



黙って座っていることもできずに、立ち上がると新羅の部屋に入ろうとする。





「……わあっ、なんだ。静雄か。おはよう、まあ起きてると思ってた……って、なんで泣いてるの!?大丈夫!?」



先に扉が開いたので驚くが、それよりもオーバーに新羅が驚いたために、ふう、と軽く息をついた。




「………大丈夫だ。ちょっと嫌な夢見ただけだ。それより」


「………はい、携帯。電話するんだろ?」



思わず新羅の顔を眺めてしまう。
こんなに気が利く奴だったのか、と。


……まあ…変態じゃなけりゃあなあ。



「なんか今結構失礼なこと考えなかった?」


「いや」





傍にあった昨日投げ捨てたゴム手袋を着用して、新羅が渡してくれた携帯の通話ボタンを押す。











「だめだな。電源切れてやがる」


「相変わらず、か」


「やっぱ一昨日電話切れたときに殺されたとか、捕まったとか、……ああ"!!、くそ、苛々する」


「落ち着いてって。わざわざ電話してきて日にちを指定してきたってことはさ、静雄に何らかのアクションを起こさせようとしてきてるんじゃないかと思うんだ。場所までしっかり決めてきてさ。……それに、僕は臨也を殺そうとしてる奴とメールを送ってきた奴は同一人物だと思うんだよ」


「……なんで」


「だって考えてもみなよ。無言電話をしてきた奴は君に[場所はメールで送る]なんていうわざわざ君にわかるように場所を指定してきた。一方でメールを送ってきた奴は無言電話がなかったら意味もわからなかったようなビルの写真を添付してきた。静雄に対する嫌がらせとしてなら臨也の写真だけで十分だったはずだろう?」


「……、まあ。つーことはなんだ?臨也を犯したやつが臨也を殺そうとしてるってことか?」


「そうなるよね」







はあ?

とてつもない程の怒りが沸き上がるのがわかった。
抑えようともしていないが、腹立たしくて仕方なかった。
自分勝手に臨也を抱いて、ヤるだけヤったら殺すだと?

ふざけやがって。

つーか、臨也が死ぬことを後悔しろだと?

ふざけんな、何臨也を殺せる気になってんだ

臨也はいつかぶっ殺す。
だけど、それは俺たち2人の話だ。
どこの馬の骨かもわかんねえ野郎に臨也を殺されてたまるかよ。


臨也の、あの泣きじゃくる声が蘇る。



『会いたくなるから』




そんな、以前の俺なら気分を害しただろう言葉に、
行き場のない息苦しさを覚えて、胸元を握り締めた。


臨也、俺は、



手前が死ぬのが怖くて仕方ない。


なんでだ、そう聞かれたら、上手くは答えられねえけど



ただ言えるのは、

手前が死んだら




「……つまんねえんだよ」









大っ嫌いな手前がいない、そんな世界じゃ。




*







静かな、だが足音だけは酷く反響する廊下を、
あの男の秘書の後ろを、
着いて歩く。

慣れた手つきでドアの前の機械に何かカードを差し込んで、ピッという軽い音のあと、重々しくがちゃりと鍵のはずれる音がした。


中へ入れば広い部屋の奥で、この会社の社長がゆったりと黒い椅子に座っていた。
ふわり、妙に甘い匂いがして、なんの香水だろうと怪訝そうな顔をしていれば片手を上げて男は笑う。



「よう、折原。元気だったか?」

「あなたのせいで溜まった仕事がまだ残ってるよ」

「たはは、そりゃ悪いことしたなあ」



片桐は相変わらず愛想のいい笑顔を向けてくる。
とろんとした眠そうな目を開けて、どこかふわふわとした空気を漂わせていた。




やはり。

この男に、人が殺せるだろうか。
むしろ虫一匹殺せるのかも怪しい。
あんだけ痛め付けられておいて言うのもあれだが、片桐は実際、甚く気の弱い奴だと思う。
というか、優しいのだ。


どうしてこんな男が、俺のような奴と関わるような世界にいるのかもわからないほどに。
くあぁ、と欠伸をした片桐の目の前にアタッシュケースを放る。
がしゃんと重い音がして、
当の片桐は、お?と動物のように興味を示して。


「なんだ、本当に金持ってきたのか?」

「は?だって…」

「軽い冗談だったのに。まあ、もらえるなら貰っとくけどな、たははっ。……さてと、じゃあネブラ関係の話だっけ?」

「ああ。最近気になっててさ。矢霧製薬のごたごたとかもあったんだけど……それがまた面倒なくらいいろんな方面に根を残しててさ…」

「そうらしいな。……あ〜……すまん折原、ちょっと待っててくれるか?実はなんかついさっき客が来たみたいで…すぐ行くって言ったときにお前が来たから向こうを待たせてるんだよ」

「え?ああ、ごめん。行って来てよかったのに」





片桐はゆっくり立ち上がるとデスクの前に立ちすくんでいた俺の横まできて立ち止まる。
なんだとそちらを見れば、そっと頬に手をおかれて。


じっと、子供を見る親のような、
患者を診る医者のような、
そんな目で俺を見て。
ふと、そんな色めいた空気に
きっと片桐を睨み付けた。



「…ちょっと……約束、覚えてるよね」


「…あ?…たはは、当たり前だろ。だからこうして律儀に約束守り続けているんじゃないか」


「まあ、そうだね。破ろうと思えば一瞬でできてしまうもんだし。むしろ律儀すぎて驚くよ」




片桐はまた、たははと笑ってドアに手を掛けた。
ああそうだと振り返り、にこりと笑って



「折原」




そう、名前を呼んで。
どこか、
忘れないように、
確認するように、だけど、もういっそ忘れたいと言いたげに、
そう、呼んで。


なんだと怪訝そうな顔をしてみせれば、






「……愛してるよ、俺は」






一瞬、
片桐が悲しそうにはにかんだ気がして
ほんの少し、怯んだ。

それでも、ふーんと無関心に息を漏らせば、
行ってくるなとまた笑い声。



「片桐さん!」

「ん?」

「…………あとで、話がある」

「………ん、了解」




扉がかちゃりとしまり部屋が沈黙に覆われた。




「………あ、れ」


ぐらり。視界が歪んだ。
妙に眠い。
部屋にあった客用らしいソファーに倒れこんでうとうとし始める。

やばい、どうしたんだろう。
よくわからない。
寝たらまずい。もし予告電話をしたのが片桐だったら、それ、は







ああ、あと一度だけ、


シズちゃんと喧嘩したかったな、とか

シズちゃんをからかいにいきたかったな、とか

シズちゃんに、

会いたかったな、とか



本当に、
走馬灯のようにうかんでは消えて



ねえ、シズちゃん


俺が死んだら、










あんたは、


俺を思って泣いてくれるのかな










*











「片桐さん」

「すまない。ちょっと考え事してた…」

「本当に…、やるんですね。好きなようにと言いましたがあなたもなかなか過激派だ」

「………まあな、でも、まだ少し未練がましい。だって生きている間には、彼ともう会うことはないんだからね。死んでも同じ場所には行けっこないしな」

「……………」

「そんな顔するよ。簡単なことなんだから。あんたが言い始めたことだろう」

「……私も十分捻くれてますが、あなたもかなりのものですね」

「うるさい。最後なんだ黙ってくれ」























「さようなら。折原、臨也」























―――――バツンッ









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