「人は平和を理解し得ないんだよ」




誰もいない体育館のステージの上、その縁から足を投げ出してばたつかせながらそいつは言った。

射殺すくらいの勢いで睨み付けているのに、そんな眼光なんて見えていないように飄々と言葉を続ける。



「人は、こんなにも幸福を理解しない」



本当の幸せの渦中にいるかなんて、人は理解できないんだ


そう笑う。
物を投げることにも飽いて、突っ立ったままの俺はそんな奴に見下ろされている。
気に入らねえ。だけど攻撃する気にはならない。



「不幸が訪れて初めてああ、俺はあのとき幸せだったんだって思う。どうして気付かなかったんだって思う。それは人間の悲しい悲しい性だ。自分が幸せの渦中にいるときはその価値に気付くことなどできないんだよ。なら幸せってなんだ?こんつめれば生きてることか?そんなことを日頃から思えるならそれは究極の幸福論者か余命を告げられた病人ってとこかな。生きているということを取り上げられるまでは、人間は本当にその価値を理解することなんてできないんだよ。俺がこうしてここにいることも幸せかもしれない。でも俺はその価値を理解していない。だってそれが当たり前だから。当たり前に生きているから。ねえ、シズちゃん、当たり前なんだよ。生きて、動いて、愛して、笑って、全部、当たり前なんだ。なのに俺は理解していない。そうだよ、俺は」



一気に言った割にゆっくりと、臨也は怪しげな微笑を浮かべたまま言葉を紡いで。


「俺は、こんなにも愚かだ」












外からしんしんと音が聞こえそうな気がした。
優しく降り続く雪は東京では珍しく大粒のボタン雪。寒さもひとしおだけれど、それが嫌いなわけではなかった。
あまりに突拍子もないその演説に何を答えるわけでもなく、ただその狡猾そうな瞳の色を眺めるだけ。
底冷えする体育館は、吐く息も白い。
どうして、もう何も言わないのか。
じっと見つめあってるのにお互い身動ぎもしないのは、別に理由があるわけじゃない。
そんな空気に嫌気もさして、それを裂くようにため息を漏らせば、驚きや期待に色の変わった瞳が大きく開かれた。



「手前が愚かなのはとっくに知ってる。自覚あるなら早く死ね」

「……人の話聞いてた?」

「聞くか」

「はあ………、あのねえ、シズちゃん。もう少し協調性養ったほうがいいよ?」

「手前と協調する気なんざTミクロンたりともねえよ」

「ああ、怖い怖い」



わざとらしく肩をすくめた臨也がわかるように舌打ちをすれば、苦笑まじりにこちらを見て

ねえ、聞いてよとよく通る声が鼓膜を揺らす。
でもそれを聞きたくないと嫌がる俺が心のどこかで警鐘を鳴らしていた。耳を塞ぎたかった。なぜだろう。妙に逃げたかった。







俺は愚かだ。

臨也のいう持論はあまり関係なく、俺はそう思う。
それは、こんな力を持ってしまったからという部分ではなくて、むしろその力を制御できない自分を指す。

人は傷付いたぶん優しくなるといわれたことがある。
誰にだったかは忘れたけれど、子供のときだった気がした。


なら俺は、もっと優しくてよかったはずだ。

なのに俺はちっとも優しくない。
傷付いた。傷付けた。傷付けたから傷付いたのに。
傷付けたぶんだけ俺は傷付いてきた。なのに、優しくなれない。


愚かだ。
学ばないのだから。
いつまでも、いつまでも。1人で失敗ってばかり。













「……俺死ぬんだってさ」







優しくなれない。

唇は驚くくらいわななくわりに、優しい言葉などかけられないのだから。

愛しているよ、と誰かが呟くような響きで、死という言葉が俺の世界を染めた。
それは絶望ではなかったけれど、歓喜でもなかった。

ただ喪失感。
何も失ってなどいないのに、俺の身体のなかは空っぽになっていく。




「でも別にいいんだ。まだ17年しか生きてないけどもしかしたらあと10年くらい生きちゃうかもしんないし、今はまだ実感なくて生きてることも幸せなんだななんてバカみたいなこと思わないけど、そのうちそんなことにも気付くんだろうね。考えるわりに気付かない人間からはれて卒業だ」



にっと笑った臨也は、なんだか楽しそうだった。
今自分がどんな顔してるかなんて本当にわからなかったけど、そんなのお構いなしに話し続けるから、気にする暇もなくて



「シズちゃん、」

「…………あ?」

「寂しい?」

「……はッ、誰が」

「………あはは、ねえ、それ通用すると思ってんの?」

「うるせえ、手前なんかとっとと……、……あぁ、」



ああ、そうか。
崩れ落ちるように膝をついてそれだけ言葉にしてしまったのは、とんでもない喪失感に呑まれてしまったから。
ああ、ああ、そうか。

手放したくないんだ。
傍におきたいんだ。
一緒にいたいんだ。
離れててもいいんだ。
ただ、同じ世界にいたいんだ。
嫌っていてほしいんだ。
そういう急にいなくなるようなとこが大嫌いなんだ。
わけわからないから、大嫌いなんだ。
それでも寂しいんだ。
失いたくない。
失いたくない。
失いたくないよ。

理由なんか知らない。
だけど失いたくない。



「なんだよ、俺のこと嫌いなくせに」

「、……」

「いまさら遅いんだよ。先はないんだから。もう、戻れないんだよ」





気付いたら臨也が目の前にたちすくしていた。
笑っていなかったのが妙に印象的で、それだけ言うと今度は自傷的に笑った。
吐き出すような言葉。
それは慰めでもなんでもない。



「今更遅いから、そんな顔しないで。優しくしないで。生きたいなんてこれ以上思わせないで。シズちゃん、ねえ、今まで幸せだったんだなんて、気付かせないでよ、俺を、俺を愚かなままでいさせて」




死ねなんて言わなければ、
気に入らねえなんて言わなければ、

ああそうか、これが後悔か。
こんなにも後悔している。

人は考えるわりに気付かないんだよ、

その言葉が胸を裂く。
そうだ、気付かなかったんだ。
失うまで気付かなかったんだ。
もう遅いのに。

臨也が必要だったことなんて、気付かなかったんだ。

もう、遅いのに。

もう、



「ごめんね」

「…………なあ」

「ごめん」

「なあ、臨也」

「………そんな顔させたかったわけじゃないんだ」

「俺は愚かだ」

「ごめんね」

「俺は、」

「好きになって、ごめんね」








すべて遅かった。
気付くのも、言葉にするのも。

こんなにも愚かな人と化け物の間に残されるのは溢れるような愛だけ。

張り裂けそうな身体のなかにはもうなんにもない。
ただ目の前で落ちた涙を拭うことも、震える肩を抱くこともできずに、今もしんしんと降り続く雪の音を聞いて、いる。





―――――――――
好きだなんて、もう言えない




むくわれないね



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