はっと



覚醒した。


遠く失われていた意識がぐらりと傾くように戻ってきて、そんな揺れに酔った俺は気持ちの悪さばかり抱いたまま開いた目蓋の中にある目玉をぎょろりと動かした。

わからない。

最初に思ったのはそれ。



わからないのが、わからない。


何かを失った気がする。
景色は見えているのに、見えていない。
脳内にはただの景色としてひたすら詰め込まれていくから、解析されない。ただ集められて、お仕舞いだ。

ここは、どこだ?


あんまり急な意識の戻り方だったものだから、そんなことが思えたのもしばらくたってから。
俺は、屋外にぼんやりと立ち尽くしていた………けれど、そこは見覚えのない場所。
街路樹の立ち並ぶ大きな通りを目の前に、振り向けば車が何台か止まっていたから、ああ、駐車場だなんて当たり前なことに感心した。
足を出す。
踏みしめた感覚。いや、でも何か違う。
奇妙な違和感が拭えない。次々に込み上げてはその理由を考える前に泡のように弾けて消えてしまうからどうにもならないでいた。

変だ、音がしない。
遠く、車の音はかすかにするけど、あんまりよく聞こえなかった。夢の中にいるような浮遊間もある。熱でうかされるような、そう、ちょうどあんな感じ。


この建物は何だろう。
黒基調の、……俺は、ここを知っている。でも、わからない。
急に今は未だその答えがわかってはいけない気がした。

ふらふらとその場を離れ、足元もおぼつかずに駐車場の端。いつもなら座るのに気後れしそうな古ぼけた長めの木製ベンチにどっかりと腰を据えて、なんとなく空をみた。

傾きかけた日に、向こうの空は紫に染められはじめている。その中にちりばめられた胡麻のように黒々としたカラスの群れ。
は、と息をつけば少し惚けていた頭も冴えてきたようだった。
視線を下に戻せば、人差し指にリングがはまった自分の手の甲と、黒いズボンに袖口にファーのついた上着。
それは何の問題もない。見慣れすぎて飽くくらいにいつもと同じだ。


何が、問題なのだろう


俺の中で何かが消えた。
何かが狂った。
俺のセカイが、音を立てて崩れたような、そんな錯覚に陥るくらい、何かが違うと感じていた。







「臨、也」








見開いた目と、思わず大きく吸った空気。
冷たいそれに気管が急激に冷やされて、けほと一つ小さな咳が零れた。心臓は早鐘のように打たれて収まらない。

この声、は

そうだ、なんで思い出してしまったんだろう
忘れてるくらいがちょうどいい相手だったというのに


左横を見れば、ベンチの端に座ったスーツ姿の男。
トレードマークともいえるバーテン服を身につけていなかった分一瞬だれかわからなかったが、よく見るまでもなくそれは腐れ縁のあいつで。

古いベンチの両端に座る男が二人。
端から見れば奇妙な光景なのかもしれない。むしろ俺たちが顔をあわせているのにこのベンチが破壊されていないことが奇妙なくらいだ。


「臨也、」


「…………何?」



呼ばれる。
でも、それは俺の名前じゃない気がした。そんなに優しく、シズちゃんに呼ばれる名前じゃないはずだったし。
それでも、シズちゃんは俺を無視してもう一度俺の名を呼んだ。
不思議だった。周りの音はほとんどよく聞き取れなかったのに、シズちゃんの声だけはうるさいくらいよく聞こえていたから。

何?また聞き返すのに、シズちゃんは思い切りため息をついてそのまま押し黙ってしまった。









見慣れない服装のシズちゃんは、ベンチに座りながらがっくりとうなだれて
どっかのボクシング漫画で見たことあるなあとか思ったけどどうせ無視されるからもう何も言わなかった。

はあとわざとらしいため息が横から聞こえて、さっきから無視してるわりに騒々しいなと顔をしかめれば、しばらく黙っていたシズちゃんがまた口を開く。




「臨也、」

「…………なんだよ」



腹立たしい。
まだシカトする気かこいつは。
立ち上がってずかずかとシズちゃんの目の前に仁王立ちになる。文句の一つや二つじゃすまないぞ。



「ねえ」

「…………」

「……ねえ!!なんとか、言えよ!!」

「………………、して」

「………へ?」

「どうして」





声を荒げたのは、どうしようもなく不安になったから。忘れている、大事な何かを思い出しそうだったから。
それを思い出したなら、すべてが終わってしまう気がして、

どうして

その先を聞きたくはなかったのに、不思議と耳を塞ぐことはしなかった。
観念したように俺は静かにその続きを待って。



「……何、死んでんだよ、臨也」





ああ、そうかと思った。
だからか、と思った。

だから俺はこんなに怯えてたんだ。俺の世界が終わってしまうことを認めたくなかったから


シズちゃんに触ってみようかと思った。
でも、心のどこかではそんな行為ももう無意味なんだってわかってたから、出しかけた手を止めて、また最初に座った場所に腰をおろした。


霊体なのに椅子には座れるんだな。
妙に感心していれば、隣でシズちゃんが煙草を取り出して火を点けた。
それを一度大きく吸って吐き出して、何かを決めたような顔で話し始めて



「臨也、なあ、そこにいるのか?」

「………いるけど」

「……………まあ、手前のことだからわざわざ俺なんかの顔見にくる前に地獄に落ちてそうだがな」

「地獄って……酷いなあ」

「なんか俺の泣き顔みたいからとか言ってその辺にいそうだけど」

「人を変質者みたいにいわないでくれるかな」




キャッチアンドリリースの成り立たない会話が続く。
でも、本当はシズちゃん俺のこと見えてんじゃないのかなって思うくらいに間とか、そういう細かい節々が成り立つから不思議に思った。
別段、それだから何になるってわけでもないけど。

紫煙をくゆらせながら、シズちゃんはぼーっと虚空を見つめていて、取りつくしまもない。というか取り付けない。取り憑くことはできそうだけど(うまくない)




「まあ、いいや」

「なにが、何にもよくないよ、こっちは…」

「……とりあえず手前が聞いてるかわかんねえけど言いたいことだけ言っとく」

「…………」

「………俺、お前のこと、……うん」

「うん、て自己完結しないでくんない?」

「お前のことな、」

「………」

「……………」

「………………」

「…………俺お前のこと大ッキライだわ」




あらんかぎりの怪訝そうな顔でそういうから頭の奥のほうでなんかが切れた気がした。
手前、死んだ人間にたいしてそれはないでしょ
冒涜、冒涜
三代先までたたってやろうか、こいつ


「真面目に聞いた俺がバカだったか」

「…………でもよぉ」

「………、…」

「………なんかこう、俺の中でお前ってやつは、お前しかいなかった。この辺がよ、すっきりしちまったっつーか、ぽっかり穴あいたみてえで、すっかり風通しがよくなっちまった。なんだかよ」

「……………」

「いねえのもそれはそれで、足りない気がしちまうんだよな。あんだけ死ねばいいって思ってたのによ、いざいなくなったらなんか思い描いてたのとはちげえの」

「………シズちゃん」



ワイシャツの胸元を握り締めたままシズちゃんは苦く笑って言った。
まったくよくしゃべる。人が死んだのがそんなにうれしいか。
空を見上げれば向こうの方はもう紅を通り越して暗い色に覆われている。



「…………後悔、してるんだ」

「………?」

「手前が死ぬ数時間前に池袋にいたことはいろんな奴から聞いてしってる。でも、なんであのとき会えなかったんだって、今でも後悔してる」



「別段手前に会いたかったわけじゃねえ。むしろ会いたくなかった。でも、あのときいつもみてえに追い掛けまわしてりゃあ、お前も死なずにすんだんじゃねえかなって、思うわけよ」


「残念だが生まれたときから俺の中には手前のために流す涙なんざ一滴も流れてねえから、泣いたりなんか絶対しない。それでも………輪廻転生とか、そういうのあんまり信じてねえけど、もし、もしもそういうのが本当にあるなら、」







「そのときは、もう一度お前に逢いたい」






「んで、もう一度嫌いになりたい。手前なんか俺の人生に必要ねえって思ってたけど、実際手前に関わったから出会えた奴や、知ったこともあった。手前っていう、大嫌いな人間がいたから、俺は少しは人間らしく生きられてる気がする」







その時間が、どうしようもなく長く感じた。
嫌な意味じゃない。それくらいゆっくり、でもしっかり、俺の中に入ってきた。は、と鼻で笑って立ち上がる。


バカみたいだ、最期まで

見えてない俺にまるで見えているかのように自分の気持ちだけ淡々と伝えるとか



俺は、もう何も返せないのに



「バカじゃないの?」





立ち上がる。
ふらりと一歩椅子から離れて空を見た。



「俺だって、シズちゃんのこと大ッ嫌いだよ」




でもそれは嫌悪じゃない。
思わず笑ってしまったのは、そのバカみたいに優しい響きのせいだ。
そうだ、今も、これからも、ずっとあんたが大嫌いだ。


「でもまあ、シズちゃんみたいな面白い奴も早々現われないだろうから、来世くらいなら、」


「また喧嘩してやってもいいかな」




来世くらいなら、また邪魔されてもいいか。
きっと、目印になる。この嫌いという気持ちは。

まさか、こんなに早く終わりがくるとは思ってなかったけれど、淋しさはなかった。
溢れるような暖かい気持ちに、さてとと立ち上がる。死後ってこんなふうになってたんだな、信じてない人間でもこういうふうになるんだ。



「俺もう逝くね?」




シズちゃんは相変わらず煙草を吸ったまま。
時折吐き出す息は煙で白く曇っている。
最期までらしいなと思わず笑って、踵を返す。
もう、いい。
もう十分だ。
俺はもう思い残すことなんて何もない。



「臨也」




最期の名を呼ばれる。
目を閉じた。
背中で聞いたそれは、不思議と目蓋の裏に立ち尽くす男の姿を描いた。

それは場違いなバーテン服。少しだけ色の入ったサングラス。色素のぬかれた髪。

そいつが、めったに見せない含んだような笑顔で、俺を見る。




「"またな"」





その言葉に目を開けた。
この世に遺す最期の言葉を決めた。







*







「…………?」


吹き抜けた風の凪ぐ音が、もうこの世にいない男の声に聞こえて、思わず立ち上がった。
そんなはずはない。ない、のだけれど。


シズちゃん、

名を呼ばれた。
そして、


『またね』


あいつが笑った気がした。


もうここにはいないのに、
この世界のどこにもいないのに。
だけど俺の中のあいつは妙に嬉しそうにまたねと笑うから、俺もつられて笑って


「あぁ、」



短く答えた。


そんな短い返答と同じくらい短くなった煙草を携帯灰皿へ放り込んで立ち上がる。
もう、行こう。


やってきた群青色の空には都会では珍しいくらい、たくさんの星が瞬いていた。





―――――――――
優しい死ネタにしたかったのだ
愛というよりは絆ですかね。腐れ縁?
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -