残業終わりに近所のスーパーへ足を運ぶと、晩飯のメインディッシュになるような惣菜は殆ど売り切れてしまっている。だけど、目当てのマカロニサラダはたいてい最後まで売れ残っている。他の客達は何もわかっていない。このスーパーじゃこれが一番美味いのに。
半額シールが貼られたマカロニサラダ(今日はラス1だった)をカゴに入れ、アルコール売り場へと向かった。暇さえあれば妙義へ行きたいという思いもあり、毎日晩酌をする習慣がある訳ではないが、仕事があまりにも忙しくパンク寸前だった今日は酒を飲みたい気分だった。俺の安月給じゃあ缶ビールは贅沢品だ。いつもの発泡酒に手を伸ばした時、ふと、若い女性の姿が目に飛び込んできた。彼女はビールの棚の前に立ち、身を屈めて銘柄を吟味しているようだった。その横顔に見覚えがあった。
「ひかるちゃん可愛かったなぁ。先週のハルカちゃんを抜いて今月の暫定一位」
ヘラヘラと笑いながらそう言った後輩を思い出した。コイツは女性客が来店する度に、彼女達の容姿を勝手に評価してランク付けをする、ふざけた男だった。女性事務員達に白い目で見られても一切気にせず、あの子はカラダだけなら合格、あの子はヤれる、なんて下世話な話を止めない奴だ。営業成績は悪くないから、会社としてはクビを切れないようだけど。
そうだ、彼女はひかるちゃんだ。後輩のお陰でその名を思い出した。突然今の家に住めなくなり、最短で入居できる物件を探しに来た新規顧客。名前は確か……工藤ひかる。どういうわけか、俺のことを「信頼できる」と言ってくれた子だ。
内見の際に、俺がこの近所に住んでいることは話したはずだ。それでも彼女は会社の顧客であり、俺はたまたまスケジュールが空いていたから担当になっただけの営業マンであり、それ以上でも以下でもない。プライベートな場で馴れ馴れしく話し掛けるのは如何なものだろうか。そう躊躇っていると、缶ビールを買い物カゴに入れ上半身を起こしたひかるちゃん……もとい工藤さん(俺の心の中とはいえ、勝手に下の名前で呼ぶのは気が引ける)と目が合った。
「あ」
彼女の口から声が漏れた。俺はすかさず、反射的に名乗り出ていた。
「不動産会社の中里です!」
びくり、と彼女の肩が上下する。驚かせてしまっただろうが、無理もない。こんな風に声を張り上げるつもりはなかった。驚いているのは俺も同じだ。
「びっくりした。そんな大声出さなくてもわかりますよ」
「……なんかすみません」
俺は頭を下げながら、一歩、彼女に歩み寄った。
「中里さんもビールですか?」
「はい。今日は飲みたい気分で」
彼女が一本200円以上する缶ビールをカゴに入れた手前、一本100円そこらの発泡酒を買うなんて格好悪いことは出来なかった。俺は少しだけ見栄を張って、普段ならば絶対に選ばないロング缶に手を伸ばした。
「それ、マカロニサラダ」
「覚えてたんですか」
「勿論です。私も買っちゃいました。これ本当に美味しいですね」
彼女のカゴの中に同じマカロニサラダが入っている。たったそれだけのことが、特別な出来事のように思えた。
「あ、中里さんのは半額だ」
「そっちは……3割引ですね」
見栄張ってロング缶を買ったついでに、俺は互いのマカロニサラダを交換した。この前板金代を払ったばかりで節約生活の真っ只中だが、たった数十円で可愛い女の子に良い格好を見せられるのならば安いもんだ。
「いいんですか?」
「この前ご契約いただ分の歩合付きますから。お礼です」
「不動産屋さんってやっぱり契約一件ごとにインセンティブ貰えるんですか?」
「はい。って言っても、俺達賃貸の営業は歩合も微々たる額ですけど」
俺の仕事の話をしつつ、工藤さんと肩を並べてレジへと向かった。あの日と同様彼女は自身のことをあまり話さなかったし、俺も敢えて聞こうとは思わなかった。「訳アリ」で引越しをした女の子のプライベートに踏み込むべきではないし、第一、俺にはハードルが高過ぎる。
日頃、仕事以外での人と関わる機会といえばナイトキッズのむさ苦しい男達ぐらいだ。契約へのクロージングトークはある程度身に付いているつもりだが、可愛い女の子との距離を縮める方法なんてわかるわけがない。
*
彼女と再会したのは数日後、仕事終わりのスーパーでのことだった。惣菜売り場で鉢合わせて、他愛のない会話をしながら店内を回り、駐車場で別れる。そんなやりとりが何度か続いていくうちに、いつしか仕事後のスーパーが俺の楽しみになっていた。仕事が早く終わった日にはサービス残業でわざわざ時間を潰したりして、彼女といつも顔を合わせる時間帯にスーパーへと向かっていた。勿論、彼女に会えない日もあった。そんな日に限ってマカロニサラダは売り切れていて、俺はダブルで肩を落としたのだった。
今日はこの後、ナイトキッズのメンバー達とファミレスで会う予定があった。けれども俺は、明日の昼飯を買う為だと自分自身に言い聞かせ、スーパーを訪れていた。
しかし、残念ながら今日は彼女の姿が見えなかった。昼飯の菓子パンだけを買って、店を後にする。R32のドアを開けた時、背後から俺の名を呼ぶ声が聞こえた。工藤さんの声だ。思わず緩んでしまった口元を引き締め直して、俺は声の方を振り返った。
「こんばんは」
工藤さんは胸の辺りで小さく手を振っていた。彼女の隣にはもう一人、女性が並んでいる。
「どうも。お友達ですか?」
「職場の先輩です」
俺は紹介された先輩と向き合って、一礼した。
「不動産会社の中里です」
「どうもー。ひかるの言う通り、本当にチャラくなさそうですね」
工藤さんは慌てた様子で先輩の腕を引いた。
「先輩。余計なこと言わないでください」
「いいからあんたは黙ってなさい」
片手で先輩の腕を掴み、もう片方の手では「ゴメン」のポーズをしている。そんな工藤さんがあまりにも可愛らしくて、俺はすぐさま彼女から視線を逸らした。
「中里さん。貴方のことはひかるから聞きました。で、私は今日、中里さんが本当にチャラくないかチェックしに来たんです」
呂律が回っていない、とまでは行かないが先輩はかなり酒が入っているようだった。ゆらゆらと身体を左右に揺さぶりながら、彼女は言う。
「俺が……?」
「そう。だって、不動産の営業マンってめちゃくちゃチャラいじゃないですか」
「まぁ……そういう奴らも多いですけど」
「ほんっと、不動産マジでチャラすぎですよね。特に賃貸。あんたも賃貸だし」
ふらつく彼女の肩を工藤さんが両手で支えている。
「もう、先輩行きましょう。ごめんなさい中里さん。この人ちょっと酔ってて」
「酔ってない!」
「酔ってる酔ってる。帰りますよ−−中里さん、この人の言うことは気にしないでくださいね。本当にごめんなさい」
工藤さんは何度も頭を下げ、先輩を連れて俺の元から立ち去っていく。
二人の女性は横並びになっているにも関わらず、俺の目には工藤さんの後ろ姿だけがスポットライトに照らされているように映った。彼女達の−−工藤さんの姿が見えなくなるまで、俺はその場に立ち尽くし、彼女を見つめていた。
工藤さんが自動ドアの向こうへ消えた時、俺は図らずも先輩の言葉を思い出した。「貴方のことはひかるから聞きました」と先輩は言った。確かに、そう言った。だけど、何故なのか、どんな内容なのか、そもそも果たしてそれは本当なのか……工藤さんが俺の話をしていたって?
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