「おはよう」とメールを送ると、「おはようございます」と返ってくる。「おやすみ」と送れば、「おやすみなさい」と返ってくる。瑠衣のアルバイト先へ行って以来涼介は、たった二往復のメールのやりとりを毎日欠かさず行った。その行為は、あの日彼女を中古車販売店へ連れて行ってしまったことへの贖罪の意味ではない。ただ、彼女が「早まったこと」を考えていないか、気が気ではなかったのだ。
 涼介は瑠衣に、かつて愛した女性の影を重ねていた。親が決めた未来を受け入れられずに、自らの手で命を絶った香織のことを。

「兄貴、ちょっと聞いてくれ」

 ダイニングに入ってきた啓介は、冷蔵庫を開けながら言った。その時涼介は、丁度「おはよう」のメールの送信ボタンを押したところだった。

「どうした。こんな朝早くから」
「今ケンタから連絡あったんだ。瑠衣のFDが高崎駅の近くにいるって」
「それが何だ。誰だって駅前を走ることぐらいあるだろう」

 啓介は冷えたペットボトルの水を、ごくごくと飲み干す。

「で、乗ってんのは瑠衣じゃなくてオッサンだって言うんだ。やっぱり瑠衣のやつ、FD売っちまったんじゃねーか」
「ただの同型車かもしれないだろ。色だって、お前のFDほど珍しくない」
「でも、同じホイール履いてるみたいだし、ケンタは間違いないって」

 涼介はFDを前に咽び泣く瑠衣の姿を思い出していた。配慮に欠ける言葉で、これ以上瑠衣を傷付けるべきではない。悲劇を繰り返さない為にも、彼女を追い詰めるようなことがあってはならないのだ。

「瑠衣がFDを売ったとして、それがどうした」
「どうした、って……」
「瑠衣はもうチームメイトじゃないし、俺達が気にすることでもないだろ」
「仮にもあいつはレッドサンズの一軍だぜ?その瑠衣が勝手にチーム辞めて、勝手に車売ってんのに兄貴は何も思わねぇのかよ。ただでさえこっちは変な噂流されてムカついてるのに」

 レッドサンズ一軍唯一の女性メンバーが、突如、理由も告げずに脱退したのだ。痴情のもつれが原因などという、でたらめな噂話を吹聴する連中がいたのは事実だ。

「何か事情があるんだろ。何も言ってこないということは、言いたくないってことさ」
「でも、兄貴」
「今はそっとしておいてやれ。もし瑠衣が戻って来ることがあれば、その時に話を聞けばいいだろ?」

 語調を強めた涼介に、啓介はそれ以上何も言わなかった。
 その時、涼介の携帯が鳴った。新着メール:一件。瑠衣からの「おはようございます」という短いメールだった。涼介は今日も瑠衣が無事生きていることに安堵し、温かいコーヒーを啜った。


*

 その日の夜、涼介はバイト終わりの瑠衣を迎えに行った。頭に血が上った啓介が彼女を責めたりしていないか、気掛かりだったのだ。
 アルバイト先の近くでFCを停車させると、程なくして瑠衣が現れた。すると、店の前で待ち構えていたらしいスーツの男が、彼女の腕を掴んだ。男は酔っているようで、瑠衣は彼を必死で振り払おうともがいていた。助けに行こうと涼介がシートベルトを外したまさにその瞬間、店から飛び出してきた店員に男は連れて行かれた。その隙に、瑠衣は男から逃げるようにFCへ乗り込んできた。

「さっきの、見られてましたよね」
「大変そうだったな。大丈夫か?」
「大丈夫です。すみません」

 涼介はエンジンをかけ、FCを発進させた。

「あの人、十万でどうだって言うんです」
「十万?」

 瑠衣は、進行方向を真っ直ぐに見つめていた。

「一晩、十万ですよ。一ヶ月に十万じゃなくて、たった一晩我慢するだけで十万。それも、月に何回会ってもいいって」

 瑠衣は溜息を吐いて、続けた。

「私、思っちゃったんです。もしそれだけのお金があれば、FDを売らなくて済んだんじゃないかって……勿論、断りましたけどね。こんなこと考えて馬鹿みたい」

 涼介は、瑠衣にかける言葉を見つけることができなかった。

「それよりも、話って何ですか?」
「あぁ。それが、瑠衣がFDを売ったことに、啓介が気付いたみたいなんだ。あいつは人の気持ちをわかってやれないタイプだから、何も考えず瑠衣に連絡を寄越してきたんじゃないかと思って」
「そっか……だから今日、あんなに着信があったんだ」

 涼介は、瑠衣の声が僅かに震えていることに気付いた。

「やっぱりな。俺から言って、止めさせようか?」
「いえ。大丈夫です。電話に出なきゃいいだけなので」
「瑠衣は本当にそれでいいのか?」

 瑠衣は涼介を振り返った。その瞳に薄っすらと光るものを、涼介は横目で見た。

「啓介のことが好きなんだろ?」

 短い沈黙の後、瑠衣はまた溜息を吐いた。

「やっぱり、涼介さんには敵わないなぁ」

 無理に笑おうとする瑠衣の姿は痛ましくて、涼介はそれ以上彼女を見ていられなかった。

「でも、好きっていうのは少し違うかもしれないです。啓介のことはよくわかってるし。好きになっても無駄な相手をわざわざ好きになって、傷付きたくないですし」

 世間ではそれを「好き」と呼ぶのだと、涼介は心の中で呟いた。

「私は、啓介が夢を追い掛ける姿を、傍で見ているだけで十分なんです。それだけでよかったんです」

 涼介の脳裏には、香織の言葉が浮かんでいた。夢を見るのは男の特権だ。好きな人が夢を追う姿をずっと傍で見続けることができたら幸せなのだと。
 瑠衣のことを無性にいじらしく感じた涼介は、思わず彼女の頭を撫でていた。

「何かあったら、俺を頼ってくれ。一人で抱え込まないこと。いいな?」

 瑠衣は小さく頷いた。
 必ず守ると誓った香織はもうこの世にはいない。目の前の瑠衣は、心から愛した女性ではない。しかし涼介の心は、瑠衣を守らなければならないという使命感に満ち溢れていた。それは瑠衣の為というよりもむしろ、涼介自身の為なのかもしれない。









人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -