その日、ファミレスのアルバイト終わりに瑠衣が携帯を見ると、珍しい名前からの着信が入っていた。彼女は急いで私服に着替え、リダイヤルボタンを押した。

「瑠衣、今兄貴と一緒か?」

 開口一番、啓介は早口で言った。
 今日は涼介のスケジュール帳でいう、空欄の日だ。シフト調整が出来ずファミレスには出勤をした瑠衣だが、もう一つのアルバイトは休みを取っていた。「香織さん」の件を確かめる為に。

「ううん。私、涼介さんとはもう二週間ぐらい会ってないよ」
「二週間も?お前達が?」
「大学の課題でめちゃくちゃ忙しいからって言ってたけど……涼介さんに何かあったの?」
「それが、FCにでかいウイングが付いてるところを見た奴が居て、気になって兄貴に連絡取ろうとしても繋がらないんだ」
「ウイング?どうしてウイングなんか付ける必要があるの?」

 最後に涼介と会った時、FCに変化や異変等は全く見受けられなかったと瑠衣は思い出す。

「それも含めて、史浩が今調べてるところだ。瑠衣が知らないっていうなら尚更、嫌な予感しかしねぇな」

 瑠衣もまた、嫌な予感を覚えた。

「啓介、香織さんって知ってる?」
「あ?誰だよ香織って。兄貴に関係あんのか?」
「多分……でも私の勘違いかも」
「何だよそれ」
「ごめん。忘れて」

 瑠衣は今日、涼介は「香織さん」と会っているのだと予想していた。しかし、ただ「香織さん」と会うだけならばFCにウイングは不要だろう。今日、涼介の身に何かが起こっている。それが何なのか、「香織さん」がどの様に関係しているのかは分からない。

「兎に角、何か分かったら電話するから。お前この後はキャバか?」
「今日は休み取ってるよ」
「そうか。じゃ、もし兄貴から連絡来たら俺に教えてくれ」
「わかった」

 啓介との通話が切れると、瑠衣はすぐさま涼介に電話を掛けた。しかし彼は電源を切っているようで、コール音すら鳴らなかった。留守電にメッセージを残した彼女は、彼の所在を確認するメールを一通送り、携帯電話を握り締めた。大学の課題が忙しいというのはやはり、嘘ということで間違いない。


*


 瑠衣の電話が再び鳴ったのは、彼女が帰宅した後だった。登録されていない番号だった。携帯電話をずっと手に握っていた彼女は、着信音が鳴ったのと殆ど同時に通話ボタンを押していた。

「もしもし?」
「あ、瑠衣ちゃん?Dでメカニックやってる松本だけどわかるかな?」
「お久しぶりです……でもどうして?」
「涼介さんから番号を教わってたんだ」

 涼介の名に、瑠衣は息を飲んだ。

「涼介さん、今どこで何をしてるんですか?」
「あれ、涼介さんから何か聞いてたのか?」
「ううん。啓介から連絡があっただけですけど……電話してきたってことは、松本さんは何か知ってるんですよね?」

 恋人である自分に嘘を吐いて、レッドサンズやプロジェクトDの面々を巻き込んで、涼介は一体何処で何をしているのだろうか。瑠衣は胸が落ち着かなかった。

「携帯の電源を入れたら、色んなところから何件か着信が来てて……皆に連絡するつもりはないけど、瑠衣ちゃんにだけは話しておきたくて」
「はい」
「もし涼介さんに何かあったらその時は俺から瑠衣ちゃんに連絡するから、すぐに出て来られるようにしておいてくれないか?」

 涼介に何かあったら。その言葉に、携帯電話を握り締める彼女の手は震えていく。

「どういうことですか?涼介さん、香織さんと会ってるんじゃないんですか?」
「香織さん……そうか。彼女、香織さんっていうんだな」
「香織さんはそこに居るんですか?」

 スピーカーの向こうから松本の溜息が聞こえてくる。

「ごめんな。俺からは言えないよ」
「言えないって……じゃあ、松本さんはどうして連絡してきたの?」
「……誰かと話したくて」

 今にも泣き出しそうな声で、松本は言った。

「今、俺は涼介さんが帰ってくるのを待ってるんだ。無事に帰ってくると信じてるけど、もしかしたらと思うと少し怖くて」
「無事に、ってどういうこと?無事じゃない可能性もあるんですか?」
「……心の準備だけはしておいて欲しいんだ。もしものことがあったら瑠衣ちゃんには俺から全てを説明してくれって、涼介さんからこの番号を渡されてたから」
「もしものことって何なの?涼介さんは今何してるの?」

 瑠衣は声を荒げていた。彼女に嘘を吐いた涼介にも、連絡を寄越しておきながら肝心なことは話そうとしない松本にも苛立っていた。

「ごめん。何かあっても何もなくても、必ず瑠衣ちゃんにはまた連絡するから」
「そんな、松本さん……」
「俺が電話したことで、かえって瑠衣ちゃんを不安にさせただろうけど許してくれないか。俺も今、いっぱいいっぱいで」

 二人の間に沈黙が流れた。瑠衣は空気を胸いっぱいに吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。それでも心の中の靄は晴れない。

「松本さん。一つだけ聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「涼介さん、私のことは何か話してました?」
「……来週の最終戦が終わったら、プールへ連れてってやろうと思ってるって」

 思いもよらない答えに、彼女は一瞬、言葉を失った。

「何、それ」
「本当にそう言ってたんだよ。瑠衣ちゃんに今日の件を話してあるのか聞いたら、何も話してないって。ただ、最近我慢させてばかりだったから、今日の件とDの最終戦が終わったらプールへ連れて行きたいって。何処かにいい室内プールがあるか聞かれたよ」
「ちょっと待って。確かにプールへ行きたいとは行ったけど……私のことはそれだけ?全然意味がわからないです」
「多分、何事もなく帰ってくるっていう決意表明みたいなもんじゃないかな。俺達外野はこんなにも震え上がってるのに、涼介さんらしいよ。強い人だ」

 松本の言う「涼介らしい」というのが何なのか、瑠衣には理解が出来なかった。確かに涼介は強い人だ。恋人である瑠衣や仲間を欺いたことにも、必ず彼なりの意図があるはずだ。それでも彼女は、自分が愛する高橋涼介という男の人となりを見失ってしまったような気がした。

「じゃあ、また連絡するから……俺じゃなくて涼介さんからして貰うようにするよ」
「待って。切らないで、松本さん」
「ごめんな」

 松本が電話を切った後も瑠衣はしばらくの間携帯電話を耳に当て、不通音を聞いていた。松本との通話だけではなく、恋人との心の繋がりもまた途切れてしまったのかもしれない。









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