翌朝、杏奈は半休を取った。静かに寝息を立てる啓介があまりにも可愛らしくて、彼を残して仕事へ行くことなどできなかったのだ。
 杏奈はコーヒーを淹れて、啓介の寝顔を眺めていた。温かいコーヒーを飲んでも、杏奈の心は冷え切ったままだった。

「おはよう、啓介くん」

 ボクサーパンツ姿の啓介は、寝惚け眼で大きな欠伸を漏らした。彼の上半身を見て、彼女はどきりとした。昨晩の激しい行為を思い出してしまった。

「仕事は?」
「午後から行くよ。コーヒー飲む?」
「あぁ。悪いな」

 コーヒーを飲んでいる間、二人は何も話さなかった。
 マグカップはあっという間に空になった。衣服を着た啓介は、パンツのポケットから家の合鍵を取り出した。

「これ」
「あー、渡してたっけ。忘れてた」

 杏奈は合鍵を受け取った。

「そろそろ帰る?」
「あぁ」
「そっか」

 帰らないで。そう言って、彼の手を握ることができたらいいのに――杏奈は心の中で呟いた。そんなことできない。できるわけがない。

「本当にこれにて契約満了だね」
「おい……頼むから、そういう言い方すんな」

 二人は玄関へと向かった。靴を履き、ドアノブに手を掛けたところで、啓介は杏奈を振り返った。

「杏奈、俺さ」
「なに?」
「絶対プロになって、成功してみせるから」
「そっか。その時はサーキットまで応援行くね」

 出会ってから数週間。顔を合わせたのはたった五日間とはいえ、杏奈は確かに啓介が好きだった。恋人に裏切られ、心もプライドも何もかもボロボロだった杏奈を支えてくれたのは紛れも無く啓介だったのだ。最後は湿っぽくならぬよう、杏奈は精一杯の作り笑いをした。
 しかし、啓介は一向に部屋を出ようとしなかった。

「啓介くん?」

 彼は小さく息を吐くと、ドアノブを握る手を下ろした。

「俺が結果を出した時に初めて、それまでのプロセスが価値のあるものになるんだよな?」
「そうだね」
「だったら俺がレーサーになるって夢叶えた時、この選択も価値のあるものになるな」
「この選択って?」
「……あのなぁ。言わせんなよ、わかってんだろ」

 啓介はそう言って、掌を差し出した。
 どんなに杏奈が願っても、例え涙ながらに説得を試みたとしても、啓介の選択を覆すことはできないだろう。喉元の辺りで留まっていた「離れたくない」の言葉を飲み込んで、杏奈は啓介の手を握り返した。

「最後だから言うけど」
「うん」
「杏奈って、綺麗だよな」

 杏奈の顔をまじまじと見つめながら、啓介は言った。杏奈は顔が熱くなるのを感じた。もう会えなくなるというのに、彼女は再認識してしまった。啓介が好きだと。

「突然どうしたの」
「いや。改めて明るい所で見ると、美人だなと思って」
「どうせ夜はヨレヨレです」
「そういう意味じゃねぇよ。折角美人なんだから、ちゃんとしたいい男探せよってことだよ」
「心配しなくても、啓介くんよりもイケメンを探すよ」
「そんな奴はいねぇだろ」

 啓介は漸く笑った。

「それと、もう飲み過ぎんなよ」
「わかってるよ」
「迎えに行ってやんねぇからな」
「だから、わかってるって。帰らないの?」

 その問いに、啓介の笑顔は消えていった。少しの間二人は黙ったまま、お互いを見つめていた。永遠のように長く感じる沈黙の後、啓介は杏奈の唇を塞いだ。

「杏奈のこと、忘れねぇから」

 そう言い残した啓介は、杏奈の手を離し、玄関を後にし、愛車へ乗り込んでいった。空気を震わせるロータリーエンジンの音が、杏奈の心までも震わせる。FDの姿が見えなくなると、杏奈はゆっくりと玄関のドアを閉め、ドアに持たれ掛かるようにへたり込んだ。仕事に行かなければならないのに、杏奈はしばらくの間、その場から動くことができなかった。もう遥か遠くへ行ってしまったはずのエンジン音が彼女の頭の中でずっと鳴り響いていた。









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