今日の終業後、杏奈は啓介と会う約束をしていた。どうしても外せない会議があり残業になってしまうだろうと、杏奈は別の日を提案したが、いち早く会って話がしたいのだと啓介は言った。少しでも早く退社できるよう、杏奈はランチタイムを返上して働いた。仕事の間、啓介のことが頭から離れなかった。
 行為に及んだ後、どのように啓介と接するべきか杏奈はわからなかった。可愛い弟のような存在だった啓介が、一夜にして「男」になってしまったのだ。その「男」とは、「ただ酔った勢いで身体を重ねた相手」のことではない。
 しかし、杏奈の中で確かなことが二つあった。一つは、啓介が今は恋人を求めていないということ。もう一つは、啓介のことを「男」として求めるべきでないということ。


「ごめん、遅くなっちゃって」

 定時より二時間以上も遅くなってしまったにも関わらず、啓介は杏奈の会社近くのコンビニで彼女を待っていた。

「悪いな、忙しい時に」
「ううん。話って何?」
「とりあえず乗れよ」

 啓介に促され、杏奈はFDのナビシートに乗り込んだ。間も無く、彼は愛車を発車させた。啓介は黙ったまま運転を続けた。杏奈は何も聞かずに、彼の横側を見つめていた。
 しばらく走ったところで、啓介がおもむろに口を開いた。

「俺、あんたとはもう会えない」

 そう言われることを、杏奈は何となく予想していた。心の準備はできていた。けれども、改めて彼の口から聞かされると、胸をえぐられるような思いだった。
 杏奈は少しの間も空けずに、言った。

「わかってるよ。元々そういう約束だし」
「約束?」
「忘れたの?会うのは今日で五日目だから、啓介くんのバイトも今日でおしまい」
「……なんだよそれ」

 胸が苦しかった。痛かった。それでも杏奈は必死で平然を装った。

「何って、言葉の通りだけど」
「それだけかよ」
「それ以上に何かある?」
「ふざけんじゃねぇよ。じゃあこの前のは、何だったんだよ」
「あれはお酒のせい。酔ってたのは、啓介くんも同じでしょ」
「本当にそれだけなのかよ!」

 啓介は声を張り上げた。
 杏奈は啓介の顔を見ることができなかった。彼が今、どんな表情をしているのか知りたくなかった。知ってしまったら、彼に対する気持ちを塞き止めることができなくなってしまいそうだから。

「啓介くんは、私があまりにも平然としてるから、それが気に入らないんでしょ。違う?」

 考えるよりも先に、杏奈の口からは言葉が溢れ出ていた。

「それなら、こう言えばいい?このままだと啓介くんのことを本気で好きになってしまいそうです。でも、啓介くんには夢があって、今は女に構ってる暇なんてありません。私は分別のある大人なので、啓介くんとのことは楽しい思い出にして、さっさと身を引きます。どう?これで満足?」

 啓介は何も答えなかった。黙ったままFDを路肩に停め、ハザードを点灯させた。
 きっと降車を急かされているのだろう――そう思った杏奈は、

「お望み通り私達はもう会わない。これにて契約期間満了ってことで。お疲れ様」

そう言い捨て、ドアハンドルに手を掛けた。しかしその瞬間、啓介が彼女の手首を掴んだ。

「どうしてそんなにも余裕なんだよ」

 杏奈の手首を握り締める啓介の掌に、力が篭る。彼に掴まれたところは、胸の痛みよりももっと痛かった。

「余裕に見える?」
「あぁ。なんでそんな風に余裕でいられんのか、俺にはわかんねぇ」
「私が大人で、啓介くんが子供だった。それだけのことじゃない?」

 杏奈は啓介の手を振り払おうとしたが、女の力では敵うはずがなかった。年下であろうが啓介は「男」だったのだと、杏奈は改めて思い知る。

「啓介くんはこれ以上私に何を求めているの?もう会わない、って意見は一致したんだからそれでいいじゃない」

 杏奈が啓介を振り返った時、彼は怒っているような、悲しんでいるような、困惑した表情を浮かべていた。そして、何か言葉を絞り出そうとしているようだった。杏奈はその言葉を待たずに、言った。

「もう会うことも無いだろうから、最後に教えてあげる。余裕があるんじゃなくて、必死で余裕がある振りしてるの」

 啓介は下唇を噛み締めて、真っ直ぐに杏奈を見つめていた。

「そんなこともわからないなんて、啓介くんはまだまだ子供だよ」

 泣きたくない、と杏奈は思った。泣く事だけは絶対にしたくない。大人は子供の前で泣くべきではない。

「俺のこと子供だって……本気でそう思ってんの」
「そうだよ」
「だったら子供相手に、んな顔すんな」

 啓介は杏奈の手首を離し、その掌を、彼女の後頭部へと運んだ。
 恋愛はいつだって思い通りにいかない、と杏奈は痛感した。啓介を求めても無駄であるとわかっていた。傷付くことから逃げる為に、余裕がある振りをしたのだ。それでもなお杏奈は、啓介に触れたいと思ってしまった。今は後先を考えずに、目の前の啓介に触れて、啓介のことだけを考えていたかった。
 杏奈はドアハンドルに掛けた手を下ろして、ゆっくりと瞼を閉じた。啓介の乾いた唇は温くて、優しかった。









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