啓介の「アルバイト」三日目は、梅雨入り直後のことだった。出先から帰社せず直帰する予定でいた杏奈は、ゲリラ豪雨に遭い、全身ずぶ濡れになっていた。雨の日にタクシーはなかなか捕まらない。ふと啓介の存在を思い出した杏奈は、コンビニで買ったタオルで髪を拭きながら、彼の到着を待った。
 杏奈と同じく、啓介もこの雨に降られたようだった。

「どうして車で来たのにびしょ濡れなの?」

 杏奈はタオルを啓介に貸した。

「赤城山で仲間と集まってたんだよ。すごい勢いで降ってきやがったから、車に乗る前にずぶ濡れになっちまった」
「今日はもう走らないの?」
「わかんねぇ。あんたを送って、雨止んだら戻るかも」
「じゃあうちで着替えて行きなよ」
「着替えなんか持ってきてねぇよ」
「元彼が置いてった服あるから。そのままだと風邪ひくよ」
「元彼のお古を着ろってか」
「風邪ひくよりマシでしょ」

 文句を言いながら、啓介はFDを発進させた。

「あんたさ、上着とかねぇの」
「鞄に入れてあるけど。なんで?」
「なんでって……服、びしょ濡れだろ」

 啓介の言葉に、杏奈は気が付いた。雨を十分に吸い込んだ白いシャツ越しに、下着が透けて見えている。

「へぇ。そういうところちゃんと見てるんだ」
「ちげーよ。たまたま視界に入っただけだ」
「まぁいいよ別に。ハタチの子にブラ見られたからって、死なないし」
「だから、見たくて見たわけじゃねぇって」

 そんなくだらないやり取りは杏奈のアパートに辿り着くまで続いた。年下の啓介を前にすると、背伸びをせず、気を張らず、肩の力を抜くことが出来る。杏奈は安らぎに近いものを感じていた。

 アパートに帰り着替えを済ませると、腹が減ったと言う啓介に、杏奈は炒飯を作った。

「ごめん。冷蔵庫に何もなくて、こんなのしかできなくて。ビール飲む?」
「いや、酒はいいや。また戻るかもしれねぇし」
「えー。炒飯にはビールって昔から決まってるのに」
「んな事誰が決めたんだよ」
「私」

 杏奈は缶ビールを開けた。仕事終わりのビールは格段に美味しい。元交際相手に最悪の形で捨てられた直後は毎日のように自棄酒をしていた。しかし、破局からしばらく経った今、杏奈の心に残る彼の影はすっかり薄れていた。

「雨の日は走らないの?」
「走る時は走るぜ」
「今日は?もういいの?」
「今日はずぶ濡れで寒かったし、腹も減ってたし、そのタイミングであんたから呼び出し食らったから」

 啓介はあっという間に炒飯を平らげた。余程空腹だったのだろう。こんな時に限って、冷蔵庫の中には若者の腹を満たせられる食材が入っていない。杏奈は酒のつまみ用に常備してあった冷凍食品の焼売を電子レンジで温め、テーブルに並べた。

「本当に飲まない?焼売にもビールって昔から決まってるのに」
「飲んだら帰れねぇだろ」
「寝ていけばいいじゃん」
「んなわけにもいかねぇだろ。女の家だぞ」
「彼女いないなら問題ないでしょ。私だって、自分より若い子を取って食おうなんて思ってないし」
「取って食うって……あんた、実際のところいくつなんだ?」
「内緒」

 杏奈は啓介を可愛い弟のように思っていた。年下なのにタメ口で、文句を吐きながらも杏奈の頼みを聞いてくれる、まさに弟のような存在だった。
 とは言えその「弟」は長身且つ整った顔立ちであり、女の子達が放っておかないだろうと杏奈は思った。彼がもし年下でなければ、惚れていたかもしれない。

「啓介くんって、本当に車が理由で元カノを振ったの?」
「そうだけど」
「好きじゃなかったの?元カノのこと」
「まさか。一応、ちゃんと好きだったぜ」
「ふぅん。別にさ、彼女が居ても走れるんじゃないの?四六時中一緒に居たいってタイプの子なら無理だろうけど」
「俺のチームにも彼女持ちの奴は何人かいるけど、俺には無理だ。どっちも中途半端なんて耐えられねぇ」

 杏奈は啓介が羨ましかった。そんな風に好きな事に自分自身の全てを費やす事ができるなんて、羨ましい限りだ。
 では、自分はどうだろうかと、杏奈は考える。何か一つの事をやり遂げる為に、それ以外を犠牲に出来るだろうか。答えはきっとノーだ。社会人である以上、投げ打つことが出来ないしがらみが多すぎる。

「すごいね、啓介くんって」

 好きだった彼女を捨ててまで、「走る」事と真摯に向き合うことができる。そんな啓介を、杏奈は心から尊敬した。

「なんか考えさせられちゃった。すごいよね、年下なのに」
「年下なのに、は余計だろ」

 その後、空腹を満たした啓介は、雨上がりの赤城山へと走っていった。食器の後片付けをしながら、杏奈は、今頃赤城山を疾走しているであろう黄色のスポーツカーに思いを馳せていた。










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