「――本当に、迷惑かけてごめん」
杏奈は、目の前に座る青年に深々と頭を下げた。青年、高橋啓介は、
「もういいから。それより飲みすぎんなよ」
と言って、烏龍茶を一口飲んだ。対する杏奈は生ビールを、ごくごくと、ジョッキ一杯飲み干した。
「今日は送っていかねぇからな」
「わかってる。あんなに酔ったのは人生で初めてだし、普段はお酒強いから」
呆れ顔の啓介にそう言い放ち、杏奈は生ビールをもう一杯オーダーした。
あの日から数日。杏奈は自身の失態を詫びる為に、啓介は五万円を返す為に、二人は居酒屋で落ち合った。場所を指定したのは杏奈だった。あの日以来、杏奈はアルコールを摂取しないと眠れないようになっていたのだ。
「これ、返すから」
啓介は五万円をテーブルの上に置いた。
「いいよ。あげる。ガソリン代だと思って」
「あのなぁ。たった数十分走っただけでガソリン代五万なんて聞いたことねぇよ」
それでも杏奈は引き下がらなかった。
その五万円は、結婚を前提に付き合っていた職場の上司から受け取ったものだった。受け取ったというよりも、「一方的に渡された」という表現が正しい。あの日、杏奈が酩酊状態一歩手前まで酔っ払っていたのはこの五万円が原因だった。
「この前さ、職場の後輩の送別会だったの。新卒なのに寿退社するって」
気怠そうな顔をする啓介をよそに、杏奈は話し続ける。
「可愛がってた後輩だったんだけどね。一次会がお開きになる時に、ここでサプライズでーす、とか言って、結婚相手の発表があったの。その結婚相手が、私の彼氏だったんだよね」
杏奈の瞼の裏には、満面の笑みで皆に祝福される後輩の姿が浮かんでいた。その時、自分自身はどんな顔をしていたのだろうか。恋人だった彼は、その瞬間、誰の事を想っていたのだろうか。
杏奈は恋人と、三ヶ月程前に大きな喧嘩をしていた。互いの結婚観について、早く結婚したいと主張する杏奈とそれに反対する恋人との間には深い亀裂が入っていた。一度は別れを覚悟した杏奈だったが、「もう少し待って欲しい。大事な話がある」と言う恋人がプロポーズの準備をしているものだと信じて彼女は待ち続けた。結婚資金の為にと熱心に仕事に打ち込み、全社トップの営業成績を収めたりして、数ヶ月はあっという間に過ぎた。
恋人と自分は結婚するものだと、杏奈は思っていた。あの日までは。
「――もう、びっくりでさ。自分の彼氏が、ある日突然、職場の後輩と電撃結婚だよ?ドッキリかと思っちゃった」
杏奈は自身の失恋話をできるだけ面白おかしく話すよう努めた。そうしないと涙が溢れ出てきてしまうと、わかっていたのだ。
「で、彼氏を問い詰めようと思って、トイレに呼び出したの。その時に渡されたのが、その五万円。これで俺のことは忘れてくれ!だって」
「……酷えな」
「でしょ?口止め料のつもりだったのかもしれないけど、なんかもう、怒る気力も失せちゃって……で、その後自棄酒して、啓介くんに迷惑をかけたってわけ」
バス停でガラの悪い男達に絡まれていた事は、後に啓介から聞いた。偶然通りかかっただけの、それも自分より年下の男に間一髪のところを救われたのだ。
「だから、そのお金貰って欲しいんだよね。自分で使うとお金で彼氏を諦めたみたいでなんか嫌だし」
「……事情は分かった。あんたは気の毒だと思うけど、女から金を貰うわけにはいかねぇよ」
「いいじゃん。臨時ボーナスだと思えば」
「金には困ってねぇよ」
「あれ、大学生じゃないの?」
「いや。今はバイトしかしてない」
杏奈は何とか啓介を説得しようと試みたが、彼は頑なに首を横に振り続けた。もし自分が彼の年齢だったら、こんな風に五万円を差し出されたら喜んで受け取るだろうに――派手な見た目に反し、目の前の青年は思いの外しっかりしていて、且つ相当頑固なのだろう。杏奈は少し考えて、ある提案を持ち掛けた。
「じゃあさ、付き合ってよ」
その言葉に、啓介は目を丸くした。
「冗談だろ。そもそも俺、女は今いらねぇし」
「いや、そういう付き合うじゃなくて。五万円あるでしょ?一回一万のガソリン代として、この前と今日で二万。残り三回、暇な時にお酒飲むの付き合って。そういうバイトだと思って、ね」
「暇な時って……俺はそんなに暇じゃねぇよ」
「私もそんなに暇じゃないから安心して。どうしても誰かに話を聞いて欲しい時にしか誘わないから。ね、いいでしょ」
杏奈は今、話し相手を欲していた。啓介はまさに適役であった。
一連の出来事を友人達に話せば、「後輩に恋人を略奪された哀れな女」として慰められるだろう。適当な男を宛てがわれるかもしれない。しかし、杏奈はそんな惨めな扱いを受けたくはなかった。哀れな女であることに変わりないが、これ以上情けない思いはしたくない。それならば失恋を笑い話にして、早く忘れ去りたいと杏奈は思った。恋人の事はまだ忘れていないが、彼はもう、杏奈のものではないのだから。
杏奈の押しに負けた啓介は「勝手にしろ」と呟いて、大きな口で焼き鳥を頬張った。
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