杏奈の大口顧客である地元企業の社長は、先日発売されたモータースポーツ関連情報誌のとあるページを、得意げに杏奈へ差し出した。

「ちょうど、うちのロゴが目立つようなカットだろう?」
「本当ですね」
「いやぁ、いいよ。高橋君。腕はもちろんだけど、なかなか男前だし。結構人気出てきてるみたいだよ」

 それは、注目の若手レーサーを連載形式で特集するページだった。ページの約半分を占める写真には、スポンサーのステッカーがいくつも貼られているレーシングカーと、その車に持たれ掛かるようにしてポーズを決める青年が写っている。「ストリートが育てた若きカリスマ」というキャッチフレーズと共に紹介されているそのレーサーは、高橋啓介。杏奈は紙面の中の啓介を、指先でそっと撫でた。

「今年は大した額出してないけど、来年はもう少し予算取ろうかと思ってるんだ」
「いいですね。ついでに弊社へのご予算も増やしていただけると、私としてはとても嬉しいですけど」
「相変わらず君は上手いねぇ。考えておくよ」

 「地元出身の若者を応援したい」という社長に、プロレーサーとしてサーキットデビューを果たしたばかりだった「高橋啓介」の名を教えたのは杏奈だった。社長はすぐに啓介のファンになり、杏奈の知らぬ間に、啓介が所属するレーシングチームのスポンサーになっていた。

「そういえばこの前高橋君と会った時に君の名前を出してみたけど、いまいちピンと来てなかったみたいだよ」
「そうですか。多分……彼、私の苗字は知らないと思います」

 一年ほど前にサービスエリアで偶然鉢合わせたきり、杏奈は啓介と会うことも、連絡を取ることもなかった。彼が好きだったからこそ、彼への気持ちを思い出さぬようにしていたのだ。とは言いつつもプロジェクトDのホームページやモータースポーツ関連情報誌を時折チェックして、彼のことは陰ながら応援していた。

「君、下の名前は何だっけ?」
「杏奈です」
「覚えとくよ。折角なら、君も高橋君に会っていけばいいのに」

 この後、啓介とチームスタッフが、社長の元へ挨拶に来るのだという。
 機会があれば啓介に会いたいと、杏奈はいつも思っていた。プロレーサーになるという夢を叶えた啓介に、一言「おめでとう」と言いたかった。しかし、いざその機会が目の前に迫ると、杏奈は気後れをしてしまった。もしかしたら、啓介は自分のことを忘れているかもしれない。たとえ忘れられていたとしても、その事実を知りたくなかったのだ。

「今日は会議があるんです。すみません」
「そうか。じゃあ、僕からよろしく伝えておくよ」
「ありがとうございます」

 社長室を後にして、エレベーターから降りた杏奈の視界に、受付スタッフと話す二人の男性の姿が飛び込んできた。一人はスーツ姿の中年男性、もう一人はジャケットを羽織った背の高い青年だった。二人の顔を見ることはできなかったが、杏奈は瞬時に、この青年が啓介であると悟った。
 杏奈はエレベーターに向かって来る二人とすれ違った。声を掛けることはできなかった。受付スタッフに挨拶をし、エントランスを出る直前にエレベーターを振り返ると、ちょうど扉が閉まるところだった。
 啓介と目が合った気がした。それはほんの一瞬の出来事だった。気のせいだった、とは思いたくなかった。杏奈が瞬きをすると、扉は既に閉まっていた。


*


「杏奈さん、今日、飲みに行きません?」

 定時を過ぎた頃、部下が杏奈のデスクへとやって来た。以前プロジェクトDの話題で盛り上がって以来、彼とは酒飲み仲間になっていた。

「んー、どうしよっかなぁ」

 杏奈は少しだけ、心にある期待を抱いていた。社長から自分の名を聞いた啓介から、もしかしたら連絡があるかもしれないと。

「華金ですよ?お客さんに美味しい焼肉屋教えてもらったので、行ってみましょうよ」
「私と行きたいのか、私のお財布と行きたいのか、どっち?」
「どっちもですね」

 歯を見せて笑う部下に、杏奈は思い直した。来るはずのない連絡を待ち続けるよりも、部下と楽しく酒を飲むほうがよっぽどいい。

「メールだけ今日中に片付けたいけど、待てる?」
「あざーっす!待ちます!」

 杏奈は視線をパソコンのディスプレイへ移し、溜まったメールの返信を進めた。

 メールの返信も残り一件というところで、杏奈の携帯が鳴った。杏奈は息を呑んで、ディスプレイを確認した。すぐに彼女の心は弾んだ。ディスプレイに表示された名は「高橋啓介」だった。
 杏奈は応答ボタンを押した。少しでも冷静さを保とうと、ビジネスライクな声で社名と苗字を名乗った。

「……杏奈だろ?」

 昔と何も変わらない啓介の声に、杏奈は安堵した。

「久しぶり。どうしたの?」
「さっきすれ違っただろ?」
「そうだよ。社長から聞いたの?」
「それもあるけど、今回はすぐわかったぜ。スーツ着てたし。水臭いな、声ぐらい掛けろよ」
「めちゃくちゃ急いでたの。しょうがないでしょ」

 杏奈は咄嗟に嘘を吐いた。

「まだ仕事中か?」
「うん。もうすぐ終わるけど」
「なぁ、時間あるか?飲みに行こうぜ」
「今から?」

 杏奈がそう言った時、少し離れたデスクから部下が彼女の様子を伺っていた。彼女は椅子を回転させて、部下に背を向けた。

「今から。兄貴と飯食う約束してたんだけど、急に来れなくなっちまって。もし暇なら久しぶりに飲もうぜ」

 杏奈の答えは決まっていた。悩む必要などなかった。ただ、部下にどんな言い訳をしようか――そんなことを考えながら、彼女は言った。

「五分で仕事片付けるから、ちょっと待ってて」









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