※「社長と秘書のそれから」の続編です。
※執筆時点では啓介が既婚か未婚かわかりませんでした。本作は未婚もしくはバツあり設定になります。
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「−−そういえば社長、午前中にWEB制作会社の新しい担当者が来社予定ですけど、各部門のチーフもお呼びしますか?もしそうなら念の為プロジェクターのある会議室に変更しようかと思いまして」
私の問いに、社長は答えない。
「社長?」
「それやめろ。始業前だろ」
社長は冷ややかな声で言って、愛車をオフィスビルの地下駐車場へと走らせた。
数日前に社長と付き合い出して以来、私は彼の愛車で出社している。今まで通り電車で通勤すると申し出たが、受け入れては貰えなかった。
「もう会社に着いてますよ」
「まだオフィスじゃない」
「……でしたら、また後で聞きます」
社長はオフィスの外で仕事の話をすることを嫌う。しかし社長秘書としてのキャリアは、彼の恋人である期間よりもうんと長い。恋人である以前に私の雇用主である社長を前に、オンオフの切り替えを行うことは決して容易ではない。
エントランスフロアに繋がる階段の前で社長は愛車を停車させた。他の社員に見られないよう、社長とは時間差をつけて出社している。
「名前」
私が車を降りる直前、彼はいつも私の手を引いてキスをしてくれる。このキス以後終業まで、彼は私を「秘書」として扱う。
「今日はコーヒー濃い目で頼む。眠すぎて頭回んねぇ」
「わかりました。では、お先に失礼します」
小さく頭を下げて、私は社長の愛車を降りた。月極契約している駐車場に彼の黄色いスポーツカーが停まるのを見届けて、私は階段を登った。
*
エントランスフロアのエレベーター乗り場はいつも以上に混雑していた。一度エレベーターを見送り次の便の到着を待っていると、誰かが私の背中を叩いた。
「名前ちゃん」
私の隣に並んだのは三浦主任だった。先日社長が内線電話で食事をキャンセルして以来、主任と顔を合わせるのはこれが初めてだった。
「おはようございます。先日はすみませんでした」
「しょうがないよ。社長直々に言われたら俺も文句言えないし……社長に振り回されて、名前ちゃんも大変だね」
「そうですかね?大変と思ったことは無いですけど」
「社長は女の子には優しいから。俺達野郎には結構厳しいんだよあの人」
確かに、社長が女性社員にきつく当たっている姿は見たことがないかもしれない。女性社員に優しく接する社長の姿は見たくないと思ってしまう、自分自身に嫌気がさす。
「そんなことより。仕切り直して、今日の夜とかどう?」
主任は白い歯を見せて笑った。その眩しい笑顔を直視していられず、私は咄嗟に彼から視線を逸らした。
「えっと……そのことなんですけど、」
「今日は都合悪い?」
「そういうわけじゃ……」
「いつがいい?俺はいつでも大丈夫だよ」
断る以外の選択肢は残されていないが、適切な断り文句がすぐには浮かばない。私が言葉を濁していると、主任は突然、声を張り上げた。
「あ、社長!おはようございます!」
私はどきりとした。主任と話しているところを、社長に見られたくなかった。
「三浦。悪いけどこいつに急ぎの用があるから−−行くぞ」
エレベーターの扉が丁度開いた、まさにその時、社長は私の手を握ってエレベーターに乗り込んだ。次々と押し寄せてくる人の波に追いやられ、私達はエレベーターの隅で身体をぴたりと寄せ合った。
同じエレベーターに乗っている主任が、遠慮がちに私達を……繋がれた手を見ている。
「社長、見られてますよ」
「見せつけてんだよ」
声を潜めることなく言った社長は、私の手をぎゅっと握り締めた。彼からは逃げられない。
我が社のフロアに着いても、社長が私の手を離すことはなかった。彼に手を引かれ、私達は足早に社長室へと向かった。すれ違う社員達の好奇の眼差しを全身で受け止めながら。
社長室のドアが閉まると、彼はドアに手を突いて私を追い詰めた。
「なに仲良さそうにしてんだよ」
ドアと社長に挟まれ身動きが取れない。彼の顔が、目と鼻の先に迫ってくる。彼の瞳を見ることが出来ず、私は視線を足元に落とした。
「また飯に誘われてたのか?」
「……はい。ですが、声を掛けてきたのは主任からです」
「断ったのか?」
「いえ。断る前に社長がいらしたので」
社長は私の顎を持ち上げた。私達の視線が交わる。それは彼の機嫌が悪い時の、冷淡な眼差しだった。
「名前。俺は今、俺の女と話してんだ。秘書と話してるわけじゃねぇ」
「でも、もうオフィスに−−」
私の言葉は社長の唇に吸い込まれた。息が出来ないほど荒々しいキスだった。唇が離れてもなお刺さるような視線を浴び、私は蛇に睨まれた蛙となった。
「今日の全体朝礼でお前のこと話すから」
「え?」
「別にいいだろ。どうせ何人かには見られてんだし、これからはオープンな関係にする」
「社長、それは流石に……」
「いい加減にしろ。俺を怒らせたいのか?」
「……もう怒ってますよね」
社長は私の元を離れ、応接ソファに座り、ポケットから取り出したタバコに火を点けた。社長室は禁煙というわけではないが、社員とコミュニケーションを取る機会を設けるべく、彼はいつも喫煙所を利用していた。喫煙所までタバコを我慢が出来ないほど、彼は怒っているのだ。
「啓介さん、ごめんなさい」
如何なる理由であろうとも、好きな人を怒らせてしまうのは心苦しい。
「付き合ったばかりですし、まだ慣れなくて……怒らせるつもりはなかったんです。ごめんなさい」
社長は煙を吐き出しながら、ソファをとんとんと叩いた。こっちへ来いという合図だろう。促されるがまま、私は彼の隣に座った。
「俺も悪かった。ただ、俺の前ではもっと彼女らしくして欲しいんだ」
「彼女らしい……って、例えばどんな風ですか?」
「そうだな……」
テーブルに置いてあった灰皿でタバコの火を消すと、社長は私の太腿を枕にして、私に背を向ける形でソファに横になった。彼の長い脚はくの字に折り曲げられ、革靴は肘置きの上で交差している。
「こういうのとか」
背広に皺が付いてしまうとか、セットされた髪が乱れてしまうとか、社長を拒む言い訳はいくらでも思い浮かんだ。けれども彼のこんな姿を目の当たりににて、それを撥ね付けることができる者などきっといない。
「啓介さん、ずるいです」
「何でだよ」
「だって……こんなこと会社でされたら仕事になりません」
私は社長のこめかみの辺りから顎にかけて、指先でなぞった。少し脂っぽく湿った肌。薄いシワが刻まれた目元。短く整えられた顎髭。中年男性の証であるそれらとは対照的に、子供のように嫉妬をしたり、怒ったり、甘えたりする。そんな彼が愛おしくて堪らなくなった。
「若い女を振り向かせるには涙ぐましい努力が必要だって……昔、今の俺ぐらいの歳の人に言われたことがあって」
彼は目を閉じて、寝言のように静かに言う。
「苦労して若い女を落とせた時の嬉しさは若い頃には味わうことができない喜びだってその人言っててさ。何言ってんだオッサン、ってその時は思ったけど……今なら何となくその気持ちがわかる気がするんだ」
「でも、私はずっと啓介さんが好きでしたから、そんなに苦労はされていないんじゃ……」
「そうかもしれねぇけど、この歳で好きな女を自分のものにできるってやっぱり嬉しいんだ。名前を見てると、俺も老けたなってしみじみ思うよ」
社長は瞼を開けて、今度は仰向けになった。普段から椅子に座る社長の隣に立つことはあっても、寝そべる彼を見下ろすことなどない。躊躇うことなく無防備な姿を晒す彼はあまりにも可愛らしくて、胸が熱くなった。社長の好きなところがまた一つ増えてしまった。
「俺と付き合ったこと、後悔はさせねぇからな。大切にする」
社長の手が私の襟首に伸びてくる。私は上半身を屈めて、社長は少し頭を浮かせて、私達はキスをした。彼の舌はタバコの味だった。子供のように甘えておきながらも、彼はやはり大人の男性なのだ。
「名前、コーヒー飲みたい」
「そろそろ時間なので、朝礼後でもいいですか?」
「もうそんな時間か?」
「はい。後五分です」
社長は息を吐いて、身体を起こした。
「啓介さん、朝礼で私達のこと話すんですか?」
「嫌か?社長の嫁が経理やってる、みたいな会社なんていくらでもあるだろ」
「私は奥さんではありませんし、その……仕事がやり辛くなるのは嫌です」
「安心しろ。お前は俺が守ってやるから。何かあったらすぐ言えよ」
社長は私の頭を撫でると、デスクへと向かった。
「先に行っててくれ。すぐ追う」
「はい」
「それと、今日は求人サイトの奴らと金の話するだけだから、俺がここで対応する。会議室はキャンセルしといてくれ」
「かしこまりました」
ドアノブを握った時、社長が私の名を呼んだ。
「朝礼、出たくなかったら来なくていいぞ。俺達のこと話すし」
「……はい」
「お前が好きだから、他の奴に取られたくないだけなんだ。わかってくれ」
私は一礼して社長室を出た。ドアを閉めて彼が視界から居なくなると、そのドアに持たれ掛かって溜息を吐いた。私達のことを公にされるのは恥ずかしい。社長と秘書の私的な関係を良く思わない声も上がるだろうし、業務に支障を来たすに決まっているが、仕方ない。私も社長を、誰にも取られたくないのだから。
大切にする、と言ってくれた社長を私は信じている。だからご自身の言葉には責任を持って、これからもずっと貴方の傍に居させてくださいね。社長。
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「いやぁー、ドラマかと思いましたよ。社長」
「何ニヤニヤしてんだ。気持ち悪いぞ」
「今朝のことはお前達の想像通りだから、俺達のことはそっとしておいてくれ!でしたっけ」
「……だから、そっとしておいてくれって言ってんだよ」
「そうは仰いましたけど、名前ちゃんは勿論、俺まで質問責めのターゲットにされてて困っちゃいますよ」
「質問責め?あいつ、俺には何も言って来ないけど……大丈夫なのか……」
「俺の心配はしてくれないんですね」
「お前は自分で何とかしろ。名前は俺が、」
「名前、かぁ」
「何だよ」
「ついに我が社のマドンナ名前ちゃんも、社長のものになったんですね」
「マドンナ?」
「知らなかったんですか?モーターショーの時からファクトリーでは話題でしたし、今もかなり人気あるんですよ」
「そうだったのか……気を抜けねぇな」
「社長の女に手を出そうなんて誰も思いませんし、安心してください」
「安心、か……なぁ賢太。お前の方は早くプロジェクト成功させて、俺を安心させてくれ。期待してるぞ」
「今日はちょっと優しいですね、社長……嬉しいです……」
>>2019 つづく
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