寝苦しさに首を捻ると、ずるりと額から何かが滑り落ちて首筋のあたりで止まったのが感触で分かった。冷たくもなく温かくもないその湿った感触に眉を潜めたものの、目蓋が鉛のように重くどうしても持ち上がらない。それどころか指一本まともに動かせず、低い自らの唸り声だけが喉からすり抜けてはるか上のほうでぐらぐらと響いた。金縛りとも違う。これは、浅い眠りに浮かんでいる時の感覚とどこか似ている。
「おやおや……また落としたのか」
呆れたような息遣いを伴って眉間にふわふわと降ってきた声、その持ち主はどうやら今しがた額から落ちたものを嘆いているようで、首元からずるずると湿った肌触りを取り除くと、何やらガサガサと枕元で音を立て始めた。いくらか意識のはっきりとした芥辺は次第に眉根を解いたが、その代わり自由の利くようになってきた左手を緩慢に持ち上げる。手の平がひどく汗ばんでいることにも気がついたものの、そんなことは意に留めることではなかった。聞きとれるかどうか微妙なラインでぶつぶつと文句を垂れているらしい枕元のそれを、閉じた瞼の中からぎろりと見やる。すると目には見えるはずもない視線を器用に感じ取ったらしく、小さな悲鳴が聞こえ、次いで恐る恐るという風に芥辺の名をそれ独特の呼び方で呟いた。返事の代わりに布団から手を引き出して、声の主をむんずと掴む。ピギャア!喉を潰された鳥そのものの鳴き声があがった。それと同時にどさりと頭に何かが落ちてきて、硬さと冷たさに図らずしも完全に目を覚ました芥辺が顔をしかめながら目を開ける、とそこには、自らに首元を掴まれてじたばたと暴れながら喚いているペンギンもとい蝿と、奴の手から落ちてきたと思しき氷嚢がちょうど視界を半分ずつ占領していた。
「……いてェ」
「あ、貴方がいきなり掴むからいけないのでしょうっ!?」
「馬鹿が……内側のほうだ」
ぽい、と投げ捨てるように離すと、慌てて体勢を立て直したベルゼブブは羽を操って芥辺の隣に戻り、自分で氷嚢の位置を調節している彼を恨めしそうに見下ろした。しかしその口から比較的沈んだトーンで紡がれた台詞にぱちりと丸い瞳をしばたかせ、ああ、と納得したように瞼を少し下ろすと相好を和らげた。いつも通りの表情に戻ったともいえる。だってアナタ風邪でずっと魘されていたんですから、あちこち痛くて当たり前でしょう。相手が弱っているのを良いことに常よりも皮肉めいた声色で告げてみれば、案の定その目だけで射殺されそうな鋭さにすぐさま取り繕って笑みをのぞかせるベルゼブブ。そのあぶら汗が見えそうな腹の立つ顔に口元を歪めつつ、改めて芥辺はぐるりと自身が置かれている状況を見回して、そういや朝から熱が出ていたのだと思い出した。ほとんどモノトーンで構成されているこの部屋で、ベルゼブブの色合いだけが異色に浮かび上がっている。それにしても貴方も風邪をひくんですねえ、などとひとり言のように喋っていたベルゼブブは、芥辺の視線にハッとしてすぐに話題を差し出してきた。
「さくまさんとアザゼルくんは買い出しですよ……私は貴方の様子を見ているようにと頼まれたのです、さくまさんからね」
てめえどうして此処に居るんだ、というような問いをあらかじめ予想していたらしく彼女の名を強調して話すベルゼブブに、無言の一瞥をくれてから芥辺は視線を上向けた。室内はカーテンが引かれ電気は点いていなかったが、外からの明かりが漏れ入ってきているのが見える。「何時だ」「もうすぐ3時になります」頬を引きつらせ、深く息を吐きだした。今日の予定は丸潰れが確定した。想像以上に自分が眠っていたのだと知り、何もかもが鬱陶しくなる。気だるさに目を瞑ってみたものの、またすぐにあの心地の悪いまどろみに沈みそうだったのでのろのろと再び開いた。まだ眠っていたほうがよろしいのでは。そうさして気にもかけていないような悠長な声でベルゼブブが窺ってきたが、寸毫目を合わせたばかりでそれには答えないまま、芥辺はおもむろに口を開いた。
「何か言っていたか」
「は、アクタベ氏がですか…いいえ、ただ魘されていたようですが」
「どんな夢を見ていたか分かるか」
「……分かるわけがないでしょう」
「お前だ」
「はあ?」
「お前が死ぬところを見ていた」
ぴしりと眠たげな相貌が引きつる。勿体ぶってそれか、と細められた眼差しが言葉なしに呟いた。よくもまあそんなことを本人に言いますねえ、と無い肩を竦めるような仕草で笑ったベルゼブブは、しかしそれ以上皮肉も言えずに芥辺と視線を合わせることになった。こんな状態でも影が落ちたままの彼の面立ちは、いつになく何も感じさせない奇妙さでじっとベルゼブブを見ていた。息が詰まりそうになるのを抑え、どうしたのです、と自然潜まってしまった声色で問いかける。そんなふうに見られる謂れはないと、じりり後ずさろうとした時だった。
「……え」
煙があがり、払いのけようとかぶりを振ったベルゼブブの目に飛び込んできたのは、黒衣に包まれた自らの長い腕だった。訳が分からずにしばらく瞬きを繰り返したが、原因など他にないと遅れてひらめき、そしてつぶさに目を向ける。ついに体力の限界が来たかと微かな期待を抱いたものの、相も変わらず鋭い眼差しはそのまま注がれていたために歪なまま顔は固まってしまい、訝しみは増すばかりであった。
呆けたベルゼブブに手を翳していた芥辺の指先がそのまま伸び、色素の薄い頬と髪に触れる。常とはまるで異なる熱い体温にぞくりと肌が粟立った。アクタベ氏、まるで意が読めないとばかりに力なく呼ばれた名前にくつりと彼は薄暗く笑ってから、ぐいとベルゼブブの髪を引いて頭を小脇に抱えるようにすると、そのままベルゼブブの顔をベッドに埋めた。いわゆる寝ずの看病スタイルにされたベルゼブブは、わけも分からないまま床に座り込んでシーツから顔を横向けてどうにか窒息を回避し、顔が見えなくなった芥辺の不可解な行動に疑問符を飛ばした。髪と額の境目辺りを熱い指が撫でたので、また小さく息を飲む。変温動物と似たようなつくりをしているベルゼブブにとって、体温の上がっている芥辺の肌は触れるだけでおかしな感覚を与えるようだった。
「いいか、魘されていたらすぐに起こせ」
「あ、アクタベ氏……?」
首に腕を回して抱えるようにしたまま瞼を閉じてしまったらしい芥辺に、絶望的な気分でベルゼブブは眉を下げた。掛け布団を握って揺すってみるが、早々に眠りについてしまったのか、もう反応を見せもしない。さっきは調子をくれるために眠ったらどうかなんて言ってしまったが、こんな体勢のままとは聞いていないぞ!ベッドに顔半分をうずめたまま内心悪態をつき、それでも芥辺を起こさないよう大人しく口を噤む。起こしてしまえば鉄槌は免れないであろうから、それはまず避けるべきことだった。いかんとも惨めである。
それにしてもあのときの目は、何を言わんとしていたのか。じっとしていると伝わってくる芥辺のどくりどくりという心音を聞きながら考えてみたが、ベルゼブブにはついに分からなかった。別の意味で居た堪れなくなってくる。どんな夢であったのか、可能ならばあとで訊いてみようと思った。




/ゆめもまぼろしの類い