「神ってのはどういう奴だ」

夕暮れ時のざわめきにも溶け込まず低く届いたその声に、意図せずベルゼブブの背筋はひやりとした。独白めいたトーンで発せられたもののかろうじて疑問形であったので、隣に並んで飛びながら顔色を窺う。芥辺はこちらなど見もせずに、何を考えているか知れない双眸でがやがやとした商店街の人込みを眺めているようだった。足取りは比較的穏やかである。ホシにベルゼブブの能力を使い、洗いざらい喋らせるだけの簡単な仕事を終えた帰り道のことだった。そろりと嘴を開いたものの、さきの問いかけを内心で反芻してみるだに答えようがなく、再び口を閉ざしてしばらくベルゼブブは黙ったまま飛ぶ。この男は何故悪魔である私にそんな質問をするのか、目を細めてそう息をついた。まったく見当がつかないというたぐいの鼻白みではない。答えようはある、だが悪魔である自らが神についてなど語るのは、それだけで胸糞が悪いというものだった。
「おい」
「……聞こえておりますよ」
苛立ちを隠さず促してくる芥辺の声に、条件反射でびくついてしまうのが情けない。所詮意味のない抵抗、とすら評することのできない沈黙であった。半目のまま芥辺にちらと視線をやってから彼に倣ってぼんやりと前方を見やれば、行き交う人間どもは実にめまぐるしく表情を変えながらそれぞれの家路であったり職場であったり、何らかの目的へ向けて足早に歩いている。その誰もが腹の内に秘めた薄汚いものを抱えて、それを上手く隠したつもりで笑い合っているのだった。
「裏がなく斑がなく、純粋な子どものようだと聞きますが」
「つまらん、そんなことを知りたいわけじゃねえんだよ」
「では――魔界も人間界も箱庭のように眺めているゲス野郎、と言えば満足でしょう」
人波がいっそう賑やかになり、向かってくる学生の集団を避けるために芥辺の側へと寄るとその瞬間だけ一寸目が合って、すぐに逸れた。彼は何も言わなかったが、どうやら意に沿った言葉を与えられたようだと密かに安堵する。悪魔使いにとってみれば神は敵以外の何物でもない、こういった答えを初めから求めていたのだろうにわざわざ自分に言わせるのだから、実に性格が悪い。まあ今に始まったことではないからもう憤慨する気も起きなかった。
「アクタベ氏、確かに我々の祖先は堕天した身ですけどねえ……代が変わればそんなことはもう、関係ないのですよ」
「ふん……そんなことは分かってる」
「残念でしたねえ、悪魔に記憶の引継ぎがなくて」
「…あったところで消してやるから安心しろ」
「記憶を消すって貴方、それこそ悪魔の所業ではないかね……」
もう興味など微塵もないとばかりに会話を打ち切った芥辺をたじたじとして眺め、この男の腹の内が分かる日など一生来ないように思われて重い息をついた。肩越しに見えるのは人間だけを入れ替えたあてどもない人波と、グラデーションを描く都会の空と、そこに影を落とすカラスの群れ。どこまでも脆弱で優柔不断でぬるま湯のような曖昧さでできているこの人間界が、ベルゼブブは決して嫌いではなかった。天使と悪魔をこの世界で放し飼いにしながらにやにやと笑っている神を思えば虫唾も走るが、少なくともこの男の元に居る限りはそういった、姿の見えない茫洋とした力を意識から外すには事欠かないのだろうと、根拠もなく息を延べた。
ワタクシに神の記憶がなくて、嬉しかったのではないですか。尋ねたらすぐさま拳が撥ねそうでとても口に出せない呟きを飲み込んで、それでもベルゼブブはまんざらではない心持ちで僅かに微笑みながら目をそらした。事務所はもう、すぐそこまで迫っていた。
「全知全能の神よりも、貴方のほうがよほど恐ろしいですとも」