真夏の陰影の濃い木漏れ日が、黒ずくめの男の後ろ姿をいくらか柔らかげに彩っている。山中に建てられた寺の周辺にはほとんど民家もなく、視界を閉める木々のそこかしこから脳を揺さぶるようなしつこさで蝉のシュワシュワという鳴き声が響いてひどく鬱陶しかった。自らの羽音さえ今は消えてくれたらと思うのだが、両手で襟首を掴んでぶら下げるかたちで運んでいる少年がいっこう目を覚まさないために羽ばたきを弱めることは許されなかった。いくら餓鬼とはいえ気を完全に失っている人ひとり持ち上げるというのはなかなかに骨が折れるのだ、こんなにプリチーな姿の私になんという重労働をさせているのか分かっているのか鬼畜野郎!ギチリと歯噛みをするとその拍子にバランスが崩れて少年の首が締まったらしく、ぐえっと生理的に声を出した。足を止めないままにアクタベがちらと振り返る。慌てて相好を整えて素知らぬ顔をして見せれば、ベルゼブブと光太郎を交互に見てから眉根ひとつ動かさずにまた前を向いてしまった。息をつく。内心どれだけ暴言を吐こうとも、表に出したら痛い目を見るのは十中八九どころではなく確実にこちらだ。
しかしこの少年、これだけ乱雑に運んでいるというのに目を覚まさないとは、流石はアクタベ氏に一杯喰わせただけのことはあると些かずれた感心さえ湧いてきた。事務所に連れ帰ると言った際には我が耳を疑ったものだ、子どもを好意で預かるなどおよそ氏の性格からは考えつかない。だがよくよく考えれば悪魔使いであるのだし、後々役に立つと踏んでのことなのだろう。当の悪魔グシオンはといえば契約者の幸福な記憶を腹いっぱいに食して呑気に寝ていやがるのだが、尻尾を無造作にアクタベに掴まれてぶらんぶらんと振り子のように揺れているさまを見ればそちらには苛立ちも起こらなかった。似た者同士というやつだろうか、まあ、阿呆面ですしね。
「アクタベ氏、分かっていたのですか」
「何の話だ」
「その猿が食すであろう記憶に、彼女の醜態も含まれるということを」
革靴が石を踏む硬い音が一寸緩まった気がしたが、すぐに鼻で笑う息遣いが聞こえたために意識はそちらへ持っていかれる。速度は落ちなかった。少年はまだ全身をだらんと弛緩させて、ベルゼブブの手によって吊り下げられている。グシオンが食べた記憶は幸福なものであると氏は言ったが、その大半を占める叔母に関して、最も新しい記憶は少年にとって絶大なショックに他ならなかったはずだ。それでも一人の人間についてまるごと忘れるということは、彼女が昨晩見せた本性さえ根こそぎ光太郎の中から剥ぎ取ってイケニエにしてしまうということで、結果的にはプラスマイナスゼロということになるのだろうと少年のつむじを眺めながら考える。信じていた者に裏切られる心痛は感覚としては分からないが、それによって壊れた人間をあまた見てきたベルゼブブには、ことの顛末が少年にとってまったくの災難だとは思えなかった。
「知るか、何を食おうとこいつの勝手だ」
ぶらん、吊り上げてきた鮎を持ち上げる程度の気軽さで猿を揺らしてアクタベは常のごとく低い声で返してきた。それだけだった。左様ですかと気のない声を出して頷くと、ベルゼブブはゆっくりと彼に並ぶ位置まで飛んでそうっと横顔を窺ってみた。やはり影の深く降りたいつも通りの凶悪面がするどい眼光を放っていたので、また気取られないように斜め後ろにつく。今しがたの言葉は本心であろう。質問の仕方を間違えたなと嘴を歪めてみたところで、もうこれ以上会話を展開させるのは望ましくなかった。
この男の真意など、我々に読み取れるはずもない、分かっているのに探りたくなるのは、彼がこういう人間らしさを滲ませる時だった。悪魔には決して見せないまっとうな人としての感情らしきもの、その片鱗でも垣間見るたびに胸の奥がざわつくのだ。人間離れした魔力にいつだって慄きみっともなく震えているというのに、いざ人間らしい行動を間の当たりにしてしまうとなにかつまらなさにも似た気分がわだかまる。果たしてこの少年に対する姿勢がその人間らしさに値するのかは定かでないものの、あの腐った年寄りどもに世話になるよりはよほどこのガキにとっては幸せなのかもしれないと、自分が確かに思っているのも事実だった。しかもなけなしの幸せだった記憶とおそらく人生最大のショックまで取り払われて、結構なことではないか。どうも自らの職能によって少年が良い方向に転がったようであまり面白くはないし、こんな労働までさせられて鬱憤も溜まっているし、何よりアクタベ氏がこのたび大して他人の人生をぶち壊していないことが苛立ちを呼んでいたが、それでもまあ、よかったではないか。と思わなければやっていられない。この場にさくまさんが居たなら阿呆面でよかったですねえと笑いそうで、脳裏に浮かんだ笑顔に舌打ちをしそうになりすんでで飲み込んだ。いらぬ誤解は生むまい。
「ベルゼブブ」
「はい?」
「途中でコンビニに寄らせるが、買うのは一つだけだぞ」
気づけば石段は終わっていた。蝉時雨も心なしか遠い。寺を出る前に呼んでおいたタクシーが既に待機しており、頃合いを見てドアを開けた。ひんやりとした冷気が外へ流れる。アクタベはベルゼブブのぽかんとした顔を一瞥したのち、その手からいつの間にか受け取っていた光太郎とグシオンを後部座席へ無造作に放り込んだ。気を失ったまま横たわる少年に運転手がぎょっとして何かを言おうとしたが、ああお気になさらずと人相の悪い黒ずくめの男に真顔で言われては黙るしかないようだった。
アクタベが顎で乗れと示したので、目をぱちくりとさせていたベルゼブブはハッとして後部の空いたスペースにちょこんと座る。ようやっと文字通り羽を休められたというのに、今しがた告げられた言葉のせいで気はそぞろになってしまっていた。一寸何を言われたのか分からなかった自分は相当暑さにやられていたのだろう。思えば事務所でもっさんの弔いと称してカレーを貪っていたところへ急に呼び出されたため、何やら感覚が鈍ってイケニエを貰いそびれていたことを失念していた。アクタベもまた想定外の召喚であったらしく、イケニエの用意が間に合わなかったようだ。よもや氏が私のために何かを購入するとはという妙な驚きに疲れが飛んだベルゼブブであったが、その思考そのものが悪魔使いに対するものとしてはおかしいのだと、違和感を抱く気力もまた残ってはいなかった。助手席に乗り込んだアクタベに何と返したものかとサイドミラー越しに様子を窺っていると、ばちりと鏡を介して視線が合ってしまい身が硬くなる。クーラーが効いている車内だというのに、どうしてだか体感温度が上がったような気がした。
「カ、カレーまんでなければ嫌ですよ私!」
正体の知れない動揺を振り切るように尊大めいて声をあげれば、カレー狂いがと一笑されて視線は外された。アクタベのひとり言に運転手が怪訝そうに尋ね返したが、それには反応せずアクタベはどこか窓のあちら側へと意識を向けてしまったようだった。後部座席で足をパタパタと揺らし、ベルゼブブはあのつまらないくせに気掛かりな感情が首をもたげるのを感じた。しかし今は苛立ちは伴わずに、ひたすら落ち着かないざわつきが内側で膨らんでゆくばかりであった。アクタベの人らしさ、おしなべて言うならば情と呼ぶことも出来るそれは垣間見えるたびにベルゼブブを面白くない気分にさせるものだったのだが、自分に向けられたことなど今までになかったために沸き起こっているこれは、喜びと称するのが最もふさわしいのではないか。ああ私も堕ちたものだと笑おうとして、それこそ悪魔らしからぬ呟きに他ならないと居た堪れないままにかぶりを振った。




/途方もない昼下がり