試験管の中で揺すられて小さなたくさんの気泡を生み出した水をじっと見つめる男の横顔は、ガラスの中の液体のそのずっと先を透かしているようでどこか意識の行方がぼやけている気がした。本当は水なんか見ていないのかもしれなかった。そんなん揺すったかて変わらんよ、手元を除きこんで声をかければ顔色も移さずにこちらを視線だけで見上げ、分かっているさと興を醒ましたようにコルクで栓をする。そしてまた試験管を取り出す。かれこれこんなことをどれくらい続けているのか考えたりはしないけれども、持っていてくれと言って寄越された手袋がずいぶん掌に馴染んでいるから推して知るべしというところだろうか。ちゃぷん、水音が聞こえる。後ろ姿をぼんやり眺めているとマントが地面にくっついてしまっているので汚れやしないかと気にかかったが、また喋りかけてすげなくされても面白くないので黙っておく。そんな格好しとるほうが悪いんや。自分のいつだってラフな格好を少しは見習うべきだと思いながら上空を見上げれば、ポッポの群れが山の方へ飛んでいくのどかな景色に気が緩みに緩んで大きな欠伸が出た。いたって平和だ、今日はカップルもトレーナーも見当たらない。逆にそれだからこいつはこんなに熱心に水の調査なんぞしているわけだが。
「君のところに通常時の水質調査結果があったな」
「んー多分タマムシやね」
「移したのか?」
「やって、わいの専門とちゃうし」
大学の環境なんちゃらの研究室にあるんやないかなあ。まだぼんやり空を眺めたまま答えると、あからさまにつまらなそうな声でそうかと呟いてミナキは立ち上がった。両手には試験管。そんなに集めてどないするん、とは訊くだけ野暮というものだ。スイクンがあれだけ長く居座ったのは此処が初めてだというから、それなりに水質に変化が見られるという可能性は大いにある。自分としてはスイクンそのものに興味があったのでハナダの岬に来ていたのだと知った時には己のタイミングの悪さを恨んだが、どうせミナキが居たのでははしゃぐにはしゃげなかっただろうし居なくて正解だったかもしれないと後から思った。強がってはいるがミナキだってしんどいだろう。こうやって何かやっていないとおかしくなりそうになる、そういう気持ちは分からないではない。研究に失敗したり行き詰ったりした時にはとにかく何かに手をつけていないと頭がパンクしそうになるのだ。動いていないとどろどろ足元から溶けていく気がする。お前なんか居なくてもいいと誰かに言われるような気がして、それが怖いのだ。畑違いとはいえ研究者だから少なからずのシンパシーはある、だからこんなに大人しくミナキに付き合ってやっているというというわけだった。心とかそういうものに淡白な自覚はあるので、同情ではない、と思っている。
「しゃーないなあ、一緒にタマムシ行ったるわ」
「いや別に、」
「しっかしお前さんも難儀やで、一生いっこ追いかけるなんてわいには出来ん」
「……マサキ?」
手袋を返してくれと差し出された色白の指先からひょいと逃げて笑って見せると、怪訝な顔をしてしかしそれ以上追うこともせずにミナキは試験管を仕舞い始めた。なんやつまらん、口を尖らせて手袋をポケットに突っ込む。昔からこいつはわいのことをすぐにほっぽり出すところがあるからそこはいかんと思う。分かっているんだろうか、これでもちっとはお前のことを心配してやってるということを。「なあすぐに行くやろ」「そうだな、もうハナダに用はない」「なんや冷たいなあ」自分で尋ねておいて歯に衣着せぬ返事に苦笑すると、荷造りを終えたらしいミナキが立ち上がってぱんぱんとマントを手で払った。やっぱり汚れたんだろうか、まあ別にいいか。
ほなじいちゃんに挨拶だけしてくるわー、言い終える前に背を向けた自分に手を上げて見送るミナキはえらくまともな様子で笑っていたから、それがまたつまらないと思った。今のあいつは賑やかな場所に居ないとどうにかなってしまうかもしれない。考えるだけで別段口にするつもりもないこの可能性はきっと当たっているだろうし、とりあえずどこかに腰を落ち着けるまで構ってやらなあかんなあとひとりごちて落ち着きなく小屋の扉を開いた。



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