「そんなことだから、スイクンに逃げられるんじゃないのか」

階段を下りる足音が止まった。ふたりで透明な鈴を戻しに来た帰り道。まだ憤りと昂りを沈めきれないらしく笑顔も言葉もろくにないミナキに業を煮やし、内側で少しずつ膨らんでいた言葉をついほんの弾みで音にしてしまい、マツバ自身やってしまったと思って身を固くした。二人分の足音が消えて、鈴の塔の空気はしんとかすかないびつさを残したきり流れようとはしない。選ばれた者、乃至は許されたものしか立ち入ることのできない此処でちょうどそれに該当する二人が、同じように立ち尽くして階段の数段上と下で同じ方向を向いている。いつでもきっちりと撫でつけられた飴色の後ろ髪がほんの僅かに乱れていることに気がついて、マツバは息さえ殺しながら先刻の騒ぎを思い出した。人が変わったように誰の話も聞かず語調を荒げるさまを見るのはなにも初めてではなかったが、あそこまで間近で一緒にスイクンと対峙したことは今までになかった。そこで目の当たりにしてしまったミナキの中での絶対的な優先順位には正直腹が立ったし、さらに悪びれた様子もなくこうして一緒に鈴を戻しに来ていることにもじわじわと苛立ちが増していたのだった。しかしそれも今さらだったし、お互い譲れないものがあるのは仕方のないことだと、出会った頃から分かっていた筈だ。こんな風に顔の見えないのをいいことに、相手がもっとも傷つくようなことを言うのは違っているのに。マツバはじっと立ち止まったまま動く気配を見せない後姿から目を逸らし、静まりかえった塔内部の装飾にうろうろと視線を移しながら、改めて自分の口を呪った。
しばらくそうやっておかしな沈黙を育てていたものの、このままではいけないと思いきって階段を一歩降りるとやけに大きく木材が軋んでぎくりとした。マントに覆われた肩に手を伸ばしかけてすぐに引っ込め、ミナキ、と我ながら気まずそうな声で呼びかける。わずかに肩が揺れた。すまなかった、悪いことを言った。そう謝ってしまおうと思ったのにたじろいでしまう。ゆっくり振り返るミナキの睫毛が見えたからだ。ミナキの伏せられた睫毛なんか今まで気にしたことがあっただろうかと考えてみて、今は階段のせいでこちらが見下ろすかたちになっているせいだと気がついた。常とは異なる視点、それに口を噤んでいたせいでミナキが完全に向き直ってしまい、マツバは喉元まで来ていた台詞を見失ってしまった。マツバの首あたりで視線を止めたきり見上げてこないミナキは、眉根を寄せて何かを思いつめたような顔をしていた。
「……ミナ、」
「すまない。気を悪くさせたな」
マツバが呼び終えるより早く、被せるようにそう言ってミナキは顔をふいと逸らした。俯いているせいで、目はほとんど閉じているようにしか見えない。自分が言おうと思っていた言葉を言われてしまったためにまたしても固まることになったマツバは、いや、とかろうじて首を振ったもののそれより先は出てこなかった。確かに自分はミナキを傷つけるようなことを言ってしまったが、こちらが傷ついたのもまた本当のことだった。だがそれについて、ミナキが素直に詫びを述べるのは殊勝なことだった。こうして目を伏せるのも。数歩の段差のせいで図らずしも視線が重ならないまま、これでは一方的にミナキを責めているようだとマツバは焦れた。謝ってほしかったわけじゃあない、分かってる、ただ、
「……君に呆れられようとも、私はスイクンを追うだけだ」
弾かれたように、足が動いていた。翻った白いマントが離れてゆく前に、マツバはミナキの腕を掴んだ。駈け下りた段差。ほんの一段までに縮まった距離は、二人の目線の高さをほとんど同じにした。言い捨てて逃げようとしていたらしいミナキが今度は真っ直ぐに見つめてきたので、マツバは内心ほっとしながらミナキを見つめ返した。先程よりも眉根は開いているものの、強張った表情でこちらの言葉を待っているように見える。翡翠がかすかに揺れている。あの邂逅がミナキに与えたのは、相当大きな波だったのだ。寄せ波と引き波の幅に揺さぶられて、そこであんな言葉をかければこの男もこんな顔をするのだと、マツバは顔には出さないまま密かな喜びを感じていた。今しがたの言葉、ああは口にしながらも、ミナキは僕がそれに頷くことを恐れていた。それだから逃げようとした。スイクンの他には何も見えず、天秤にかけようともしないミナキが。
「っ、マツバ?」
腕から手を離し、ミナキの両目を手の平で覆って塞ぐ。後ずさろうとするのを逆の手でそれとなく阻止しながら、マツバはここでようやっと薄く笑みを浮かべた。戸惑いを露わにする眉が見える。怯えまではいかないが、それに近いものをこいつも持っていたのだということがやけに嬉しかった。それが自分との繋がりに対するものならばなおのことだ。心にもないことは言わないほうがいい、今度は口を滑らせないように内心でひとりごちて、マツバはミナキの目を覆っている自らの手の甲、ちょうど目蓋がある位置に唇と言葉をのせた。
「また来いよ、ミナキ」







/うそつきのまぶた