身支度をしていると、伸ばしたきり右手が何かに引っかかったように動かなくなってしまった。ん、と眉をわずかばかり寄せて羽織りかけていたマントを仕方なく左手に戻して右を見やれば、私の手首を掴んだマツバが視線も合わせずに「おはよう」と気のない声で告げてきた。いつからそこに居たのか知らないが、やることも言うこともずれている。というか今起きたのだろうか、ジムリーダーというのは随分ルーズでも務まるのだから実力重視というのも考えものだ。いまだに寝ぐせを残したままヘアバンドでとりあえず髪をまとめたといった具合のマツバについてあれこれ短い間に考えながら、ああおはよう、と律義に返してやる。しかしなおもこちらを見ようとしないマツバは、それまでじっと見ていた私の手首をいきなり自分の鼻先に寄せた。ダイレクトに感じる息遣いにぎょっとして引き戻そうとするも、なかなかどうして力が強く、逆に私がマツバに近づく羽目になってしまった。いったい君は何をしてるんだ、寝ぼけてるのか。やむをえずマントを畳に落として左手で髪を引っぱってやりながら尋ねると、マツバはようやく顔をしかめ、痛いなあと機嫌悪げにその手を払ってきた。今朝初めて交わった視線はすぐに途切れた。何故私がこうも意味不明な扱いを受けなければならないのか、流石にむっとして強く右手を引き寄せ、少し手首から遠のいたマツバの鼻先に詰め寄って眉をつり上げて見せる。マツバはマツバで未だにむすっとしたような顔をしていたが、私が文句を言う前に今度はあろうことか首に顔を埋めてきた。突然のことに声が出る。マツバの髪が耳にあたってくすぐったい。
折角整えたシャツの襟を乱すように鼻先を押しつけてくるマツバをもう完全に寝ぼけているものと断定し、やめろこら離れろと服の背中部分の生地を引っぱった。傍から見ればどんな睦み合いかと思われるかもしれないが、寝ぼけたマツバを相手にするのは骨が折れるのだ。劣情などとは無縁であるし、また本人にもそんなつもりはないことを私はよく知っている。ああこのままマツバの出勤時間が遅れたらイタコさん達が呼びに来るなんてことになり兼ねない、すると私も小言を免れないだろう、勘弁だ。そんなことを些かうんざりしながら考えていると、不意に「ミナキ、」とくぐもった声が聞こえた。見れば至近距離でじっとこちらを見ているマツバの水色の瞳。な、なんだ。動揺などしていないというふうに見つめ返す。
「香水変えただろ」
「は?」
「僕は前のほうがよかった」
言うなり手首を解放したマツバは何事もなかったように私から離れ、あーお腹すいたねえと呟いて畳に落ちていたマントを拾い上げ、動きの止まっていた私に無造作に差し出してきた。再び目が合う。単調な声とは裏腹にまだどこか不機嫌を滲ませているマツバに軽く噴き出して、私はマントを受け取った。なんだよ、と拗ねたようにどこか明後日の方向を向いてしまったマツバがどうやら寝ぼけていたわけではないと分かったので、これまでの行為の意味も知れてみぞおちの辺りがむず痒くなる。生憎とあれは切らしてしまったから、今度タマムシに戻る時に買っておくよ。笑みを隠せないままマツバの今さら照れているらしい子どもっぽい相貌に返答してやれば、一寸こちらに視線をくれてから踵を返し、マツバは部屋を出て居間へと向かってしまった。そう思ったところへ私の意志など歯牙にかけない捨て台詞が転がってきて、また笑う。決定事項として別れを告げられてしまった哀れな香りにはすまないが、もうこれをつけるわけにはいかなくなってしまった。




/染まってあげよう