(幼少エンジュ/『きせきのありか』より)




遡ること数年、まだ正式にエンジュジムリーダーに就任する前。当時マツバは次期ジムリーダーとしての修行を続けており、日夜を問わずゴーストタイプを伴って鈴の塔へと通う毎日を過ごしていた。寺院での修行をひとしきり終えたマツバにとって、次の段階である塔での修行が、容易には越えられない壁として大きく立ちはだかっていた。夜更けに灯りを持たず塔に入り、後の自らの切り札となるポケモン――今のゲンガーであり当時はゴーストであるが、その一体だけをパートナーにして塔の最上階まで上り、また夜明けまでに戻ってこなければならない。それがマツバに与えられた試練であったけれども、当時まだ少年の域を超えないマツバにとって、この修行はそう簡単に成し遂げられることではなかった。鈴の塔の構造は幾度も進むうちに覚えてしまったが、野生ポケモンと戦ううちに道を外れてしまったり、ゴーストが傷ついてやむなく塔を降りることも多かった。一度越えてしまうと後戻り出来ない仕掛けが施してある塔の内部において、灯りを持たずに歩くのは闇に慣れたマツバにとっても困難に違いはなかった。

その夜もまた、マツバとゴーストは塔の中程で蓄積されたダメージにそれ以上登ることを断念し、とっぷりと日の暮れた空の下で肩を落としていた。木の根元に座り、ゴーストにポフィンとオレンの実を食べさせる。過ごし慣れた場所、だがこの夜はひとつだけ、異なることがあった。
「まったく、無茶をしすぎだぜ」
「いてて……もっと優しく巻いてくれよ」
「さてね、私は君と違って鳥目なんだ」
「嘘ばっかり」
ゴーストを構うほうの手とは反対側の手、その平にこしらえた擦り傷に、ぐるぐると包帯を巻く少年。どこか怒っているように眉をつり上げているが、実際そこまで気を害している訳ではないことはマツバには分かっていた。ミナキというこの少年は派手な紫色のタキシードのような服を着て蝶ネクタイをし、白いマントをつけていつでも颯爽とエンジュにやってくる。ひざ丈のスラックスからすらりと伸びた脚は白いソックスとやはり白い高級そうな靴に纏われていて、およそエンジュの街並みには馴染まない格好だった。しかし本人は気にするでもなく平気で焼けた塔に入っていくのだから、奇妙なものだと思う。見慣れたマツバでも久しぶりに目にすれば思わず見つめてしまって、そのたびに怪訝そうに首を傾げられるのだ。何より彼にその奇抜な格好が不思議と似合っているから、余計に困ってしまうのだった。

タマムシで何とかという偉い先生に師事しながら伝説ポケモンの研究をしているというミナキに、たびたびマツバは羨望にも似た気持ちを抱いていた。もっとずっと小さい頃に顔を合わせたときはまだ、お互い大人に手を引かれるだけの、自分では何もできないこどもであったというのに。今ではこうして修行に明け暮れる自分と、研究者としての道に立つミナキとでは天と地ほども違うように思われて歯痒かったのだ。友人として色々な場を共にして、たくさんの夢を語り合い、それでもミナキの持つ何か一直線なものが疎ましくて、マツバは時折りミナキを正面から見ていられなくなった。こうしてわざわざ修行に付き合ってくれているのにもまた、有り難くもどこかみじめな思いになる。ぎゅっと包帯の端が結ばれたのを見つめてから、マツバはそっとゴーストを撫でるふりをして視線を外した。
「ミナキ君さ、もういいから僕の家に居てくれよ」
「は?なんで」
「だって……僕また朝まで帰らないかもしれないし、ずっとここに居てもらうのは悪いだろ」
むっとした様子を隠しもせずに言葉尻を上げたミナキにとつとつとそう言うと、また怪我をしたらどうすんだと咎めるように尋ねられて一寸詰まり、そしたら帰るよと少し強めの口調で返した。口が上手いミナキ君にあまり喋らせてはいけないと思い、本当に大丈夫だからと畳みかけながら立ち上がる。ゴーストが心配そうに見つめてきたので笑ってやり、おい、と呼びかけてくるミナキに背を向けてマツバは再び塔に向かおうとした。何も言わせたくはなかったし、自分もあまり口を動かしていると、余計なことまで言ってしまいそうで嫌だった。ミナキは大事な友達だ、それだからいっときの汚い感情で彼を傷つけるようなことはしたくなかった。
じゃあね、
わざと突き離すように言って、足を踏み出した時だった。
「待ってくれっ……マツバ!」
「! ……ミナキく、」
後ろから腕を掴まれて、マツバはなかば自然の法則に従ってぐるりと体を半回転させた。間近で飴色の髪が揺れて、思わず息を飲む。腕をしっかりと握ってきたミナキの翡翠色のまなざしが、月明かりを受けて白みを帯び、つやりと光った。ついそれを綺麗だと思ってしまって目を見開いてから、どうやらミナキがやけに必死そうな様子でこちらを見つめてくることに気がついて口を引き結ぶ。どうしたんだ、ミナキ君。向き直って問いかけるマツバに、はっと決まりの悪そうな顔をしてミナキは腕から手を離した。左右にうろうろと揺れる双眸は、あまりミナキらしくないものだった。
「め、迷惑か」
「え……いや、そういうわけじゃないけど」
「ならここに居させてくれ!いいだろう?」
「どうして、そんなに僕が頼りなく見えるかい」
「違うんだ、……そう、どうせ待つなら、君の家よりここのほうがいいからな」
胡乱気な声を出したマツバに慌ててかぶりを振りながら、ミナキは言葉尻を小さくしてそう言った。最後は何となく拗ねたような響きすら含まれていて、またしてもマツバは眉根を開く。どうせ待つなら、そのあたかも当然の大前提であるようなフレーズがマツバにとってはイレギュラーだった。ミナキ君が僕を待っている? 今夜だけじゃなくて今までも、調査に来たといって僕の家に泊ったあの日もあの日も、いつも僕を待っていた?
「…笑うなよ、私はな…君のあのだだっ広い屋敷のだだっ広い部屋でひたすら玄関が開く音を気にしているというのがその、苦手でだな、」
「ふふ、」
「あっ、笑うなと言ったのに!」
「ははは……ごめん、なんだ君って優しいんだねえ」
月明かりでも分かるほどに頬を赤くして照れているミナキをやけに可愛いと感じてしまい、誤魔化すためにぽんぽんと肩を叩いた。友人と言っても、どこかお互いの共通の目的のためになるべくしてなったようなところがあると思っていたけれど、それは大きな間違いだったらしい。いつも何も知らないような顔をして朝ご飯を一緒に食べてくれるから、僕の修行については我関せずなのだと勝手に思っていたのだ。こちらだって焼けた塔に一緒に行くことは稀だったから、お互い様だと思っていた。だけど違ったのだ。ミナキ君は僕が居ない家の中で、ずっと僕が玄関を開けるのを待っていてくれたのだ。
「からかわないでくれ、」
「いやいや……ふふ、なんだかやる気が出てきたよ」
「なに、本当か!」
「うん……よし分かった、ミナキ君、じゃあここで待っていて」
ぽん、と仕切りのためにゆっくり肩に手を置くと、ミナキはほっとしたように笑って頷いた。いつもより子どもっぽく見える表情が可笑しくて、口の端が自然と上がる。誰かが自分を待っていてくれるというのは、こんなにも嬉しいことだっただろうか。それとも相手がミナキだから、特別なのだろうか。マツバには分からなかったが、胸の奥が先程までとは比べ物にならないほど軽く弾むようであるのは確かなことだった。

「あ、そうだ……」
「ん?」
「お守りだよ」

マツバが木の根元に置いてある鞄のところまで戻り、ごそごそと取り出して投げてきたものを受け取ってミナキは目をしばたかせた。それは何の変哲もないモンスターボールだった。
「昼間捕まえたんだ、ゴースだけど……君の手持ちじゃゴーストタイプには不利だからね」
にこりと笑ったマツバは、今度こそ踵を返して暗い塔へと向かってしまった。
その背中を呆けたように見送って、それからミナキはどうしたものかと手袋越しにボールを撫でる。カチリ、一度ボタンを押せば手の平サイズにまで大きくなり、もう一度押せば赤い光線とともにガス状ポケモンが姿を現した。闇夜よりもさらに暗い色を溜めこんで、ふわふわとミナキの前に浮かんでにやりと笑う。はは、と乾いた笑いをこぼしてそれと目を合わせたまま、一体私に使いこなせるのだろうかと頬を引きつらせた。とりあえず、よろしく頼むよ。握手もできない彼に中途半端に手を差し出してしまいのろのろと引っ込めながら告げてみれば、ゴスゴース、と答えるように赤い口が笑った。
のちにそのゴースはミナキのパートナーとして各地を旅することになるのだが、これはずっと後の話。