陽炎のようにゆらめく暗い水が見える。漏れだす空気ももはや尽きたらしく、始めはあったはずのごぼごぼという嫌な響きや泡はいつの間にやらひとつもない。絡みつく布が手足の自由を奪い、もがく動きも緩慢に、つたなく、おぼろげになり、ゆらめく水に抱き寄せられるように彼の体は沈んでゆく。そうしてやがての一瞬に、とうとう力も使い果たされて、指先の白が絶望的な儚さで伸ばされて、もうそれきりだった。乱れた髪が闇に溶けた。どうしてこちらにその手を伸ばさないのか、そう憤る間もなく意識の浮上を感じて瞼を開ければ憎たらしいほど朗らかな朝陽が差しこんでいたので、思わず口元を歪めてそれを手で覆った。最悪な目覚めだ、内心でごちるとまた腹の奥がぐらぐら蠢く感覚に吐き気さえおぼえた。これで何度目だろう。そんなこと覚えているものか。 「ねえ、無理をしているだろう」 通話口で問いかけた声にはおよそ否定を許す色など含ませなかったはずなのに、それでもあちら側でどうやら苦笑したらしいミナキは聞き慣れた調子でそんなことはないと返してきた。舌打ちをしたくなったがどうにか耐えた。壁に預けている背中が、ざわざわ苛立ちに覆い尽くされたかんじがした。安否確認も兼ねて電話をしてすぐに出てくれたからまだいいが、これで留守電にでもなったらそろそろおかしくなっていたかもしれない。 ホウオウが降りてきて、ミナキがカントーに渡ってからあの夢を繰り返し見ている。初めの時はそれはもう慌ててポケギアに取りついたが、今となってはあれが現実を映したものでないことは分かっている。僕の夢にはしちめんどくさいオプションがついているのだ。しかしそれを実感させられるのはあいつが最初で最後にしてほしいと願いながら、かれこれひと月ほど寝不足な毎日を送っている。欠伸が出る。頭がふらふらする。そろそろやっぱりおかしくなる頃だろう。最近よく電話をくれるがそんなに心配することはないぞ、ミナキがいかにも元気そうに声をかけてくるので、あの夢を一部始終話して聞かせてやろうかとすぐそこまで出てきたがこれも耐えて飲み込んだ。さすがにまずい、特にあいつがまだ無意識ならばことさら伝えてはいけない。だが適当に相槌を打ってどうなるのだろう、また暫く経って同じような夢を見て、またミナキの声を聞いてを繰り返し、終わりまでそうやって待ち続けていたら僕のほうが駄目になってしまう。終わり、そう終わりが来るまであの夢はきっと続く。ミナキの深層にわだかまる絶望が僕に助けを求めてきている証し、ゆらめく暗い水の夢だ。 「お前のせいで眠れないんだ」 『ははは、なんだマツバ、どこでそんな台詞を覚えたんだ』 「ミナキ、今すぐ帰って来てくれないか」 ちょうどよく眠気が眼球の奥のほうから押し寄せてきたので、投げやりになりながら言ってしまった。帰ってというフレーズはおかしいと分かっているが本当はこれっぽっちもおかしくないと僕が思っていることも事実で、あいつが戻りたいと心のどこかで望んでいるのも此処に違いないと僕は思っている。カントーになんか行ったからおかしくなったのだ、生まれてからこのかたスイクンスイクン刷り込まれて育ったタマムシがあるカントー、あの少年が修行に出るとか言って意気揚々と向かったカントー、これまでスイクンの目撃例なんてなかったカントー、考えなくたって死地に足を踏み入れたに決まっているのに何ひとつ分からない口振りでミナキは笑っているからそれがおかしい。脳がこれ以上現実を受け入れないようにしているのかもしれないとひとつの可能性を打ち立てて、そうまでしてカントーを走り回っているミナキに寒気がした。暗い水にごぼごぼと放たれる気泡の音を聞いた気がした。頼むからもうあの子を追うな、それだけ言えたら気は済むのにあいつを壊したくなくて僕はとどめを刺せない。 「帰って来い、今すぐに」 たじろいだ息遣いだけを聞いて通話を切った。朝の静かな空気が耳についた。ずるずる壁沿いに座り込んで押し寄せる泥のような眠気と気分の悪さに引きずられながら、今日もしも挑戦者が来たら容赦はできないなと髪をぐしゃぐしゃ掻き上げて少しばかり目を閉じた。とうとう言ってしまったけれど、ここまでしたってどうせミナキは気づかない。僕を重度の心配性でミナキを好き過ぎる変わり者くらいにしか思わないだろう。だけどもうそれでもいいと思った。事実そうなのだし、あいつの無意識を捕まえることができた時点で僕の負けなのだ。帰って来い早く早く、帰ってきたら抱きしめて離さないまま思う存分眠ってやる。帰ってこなかったら今度こそ僕はおかしくなってしまうから、それだけはないようにとひたすら念じた。ミナキを壊したくはない、そう思えるうちにあいつに触れたい。 /ぼくは獣になり下がってしまいたいのに |