ミナキが目を覚ますとあたりはまだ真っ暗で、およそ朝には遠いようであったが浮かぶ月がいやに大きく、まなこの奥まで冴え冴えとして気味が悪いほどだった。布団から這い出ておや、といぶかしむ。もう一度空を見上げる。皓々と光を振りまいている月。だがおかしいな、と眉をひそめる。この部屋に障子などあっただろうか。
「ミナキ」
静寂にうずもれるようにして唐突に耳を打った声、ぞくりとして振り返ると寝巻を着たマツバが暗闇に浮かびあがっていた。柔らかい笑みを湛えた彼にいくらか安堵してああ、と呟いたミナキは何歩かそちらへ歩み寄ったが、やはりおかしいなと思って足を止めた。床に入る少し前まで一緒に居たというのに、最後に見たときよりも髪が短くなっている。さらには月明かりに照らされて猫目石のように光を帯びているその瞳の色が、むらさき色をしているのだ。
「マツバ?」
「今夜は月が綺麗だね」
その目と髪はどうしたんだと尋ねるには、あまりに相手が普通すぎて憚られた。その沈黙に流れ込むように、どこか嬉しそうなマツバの声があたかも耳元で告げられたのかというほどにクリアすぎる音色で届き、え、と喉からようやく声を出した時には、透けるような白い手がミナキの頬に触れていた。まつば、とくちびるの形のみで呼ぶとひどくゆるやかな速度で、それこそ注意していなければ分からないくらいのじれったさでマツバがほほえむ。それをただ目を離せずに見つめながら、ミナキは自らの心音がやたらと大きくなっていることに冷や汗を流した。弧を描きはじめた赤い口が、光源など関係なくのっぺりとした色を広げていく。紫の双眸が穏やかに細められていく。そのかんばせ、相好にわけもなくおそろしさを感じ、ミナキは叫びだしたくなったが喉の奥がひりついて声が出ない。金縛りにあったように体も動かず、頬に触れた手のなめらかな肌触りだけがいやに鮮明である。ニィ、と音がしそうな笑みができあがりつつある視界に、耳鳴りに近い警鐘が響いた。ちがう、マツバはこんな笑い方などするものか!おかしいおかしいこれはおかしい、夢だ夢だ夢だ、

夢だ、






「ミナキ!!」
息苦しさに溺れるままホワイトアウトした意識の端をすくい上げた、怒気を含んだ声に弾かれてまぶたを開ける。蛍光灯の人工的な光が飛び込んできて、まぶしさに数度瞬きを繰り返す。おぼつかない自分の呼吸音と、内側から胸を叩く心音がうるさい。いつの間に座り込んだのかおぼえがなかったが、ミナキは布団に膝をついてその背をマツバに支えられていた。全身に汗をかいていて心地が悪い。おもむろにマツバを見やればその髪も目も眠る前とひとつも変わっておらず、つり上がった眉や気遣わしげにミナキを呼ぶ声もあのえもいわれぬ気味悪さとは無縁のもので、視線を合わせたミナキに大丈夫か、と尋ねるさまにどっと力が抜けてうなだれるままにマツバの肩に頭を預ければ、おい、と慌てた声が聞こえた。ははっ、とようやく乾いた笑いをこぼしたミナキは、またずいぶんと意味の分からない夢を見たものだと思ってばからしくなってしまった。
「すまないマツバ、うなされていたかな…ちょっとおかしな夢を見て、」
「いいんだミナキ、何も言うな」
「え」
「僕のせいだ、今夜は満月だったのに」
相変わらず緊迫した声で喋りつづけるマツバに眉をひそめて顔を上げると、ミナキから視線を外してマツバは険しい表情であたりを探るように見ていた。背筋が冷たくなる。一体何がどうしたのだと尋ねるより先に、マツバが背に回した腕に力を込めた。ほぞを噛むように呟かれた今しがたの台詞にひどい既視観を感じてぐらりと眩暈をおぼえ、マツバ、と問いただすために名を呼べば、焦燥を滲ませた水色の瞳が揺れながらミナキを捉えた。
「ごめん……影が逃げた、」
捕まえるまで僕から離れるな、それから眠るな。いつになく強い口調で返答など待たずに告げたマツバは、言い終える前にふたたび視線をあちらこちらに飛ばしながら眉間の皺を深くした。状況に頭が追いつかない、意味がよく分からないとミナキもまた眉根を寄せたが、それからいくら見つめても視線が合うことはなかった。
しばらくののち、もうここには居ないと短く告げて立ち上がったマツバが「一緒に来てくれ」と言ったので頷いて立ち上がったが、マツバは手をしっかりと握って離さなかった。相当まずい事態なのだということだけぼんやりと分かってきて、黙ってついて行こうと歩き出し、そうして気なしに目線を下げてまたミナキは眩暈をおぼえた。繋がったふたりの手の影がそこには見えるはずなのに、半端に伸びたミナキの手の影から先、マツバの手の影が見当たらない。手どころか体の影もさっぱり見えない。ばっ、と目をむいてマツバ本人を見れば髪の先からつま先までしっかりと目の前にあり、繋がれた手には強い力と温度が籠っている。

ああこれが、と冷や汗とともに合点がいって、ミナキは言葉を失った。