「僕なら、そんなのは辛すぎる」 追いかけているだけで幸せだと言った私に眠たそうな顔をしてそう笑ったマツバが、ポケットに手を突っこんだままゆっくりと視線を上げた。夕陽がじかに落ちてくる焼けた塔であってもその最下層は覗きこまずとも分かるほどに薄暗く、一階部分の此処の空気はちょうど赤々とした光とほの暗さの混じり合う、不思議な色合いを帯びていた。時々ジムを閉めてから調査に同行することのあるマツバは、大抵私が歩き回ってあれこれとメモに書きつけたり木材のかけらを採集するのを座って眺めているだけで、特に何をするわけでもない。一応この街の文化財だからね、と暗に監視しているのだというようなことをほのめかして笑うのでそれに私も笑って返すのみだったが、その淡白さが我々には似合っていたのだと、今ならば思える。 他愛ない話から始まったはずなのに、やはり気が付けばスイクンについて熱弁をふるっていて、まあそれはいつものことだった。しかしマツバが「辛くはないのか」と珍しく真面目な表情で尋ねてくるから、そんなことはない、スイクンを追いかけているだけでも私は幸せなのだと答えた。紛れもない本心だったし、今までずっとそうしてきたのだから私にとってそれが自然なことだった。しかしマツバは私の返答に頷くでもなく、少しばかり首を竦めてさきの台詞を告げたのだ。僕ならそんなのは辛すぎる、逃げられると分かっているのに追いかけ続けるなんて、辛すぎる。それは確かに苦しさを伴った響きであったのに、至っていつも通りのほほ笑みで言うものだから返事に詰まった。屋根が抜けていびつな形で浮かんでいる焼けた塔の上空はそこだけ切り取ったように橙色をしており、見上げるマツバの横顔も幾許かその色に染まっていた。 マツバは、よくこうして空を見上げている。張りついた笑みを崩すこともなくぼんやりとした様子で、また時折り真摯なまなざしで遠い空に視線を向けるマツバが何を考えているのか、分かるようでいて実のところは何ひとつ分からなかった。彼は私と違って待ち続けている男だったから、その行為には特別な意味があるようにも思われた。いつ空から舞い降りるとも知れない尊いものを待ち侘びて生きてきたマツバの心象を、一方ひたすらに北風を追いかけ続けている私が本当に理解することはひどく、難しいことなのだろう。置かれる立場が異なっていた、それだけのことが、こんなにも越えられない隔たりを生む。 (苦しい、) 手にしていた小型のノートを強く握り、気が付けばマツバから目を逸らしていた。塔の内部は刻々と光を奪われて、ひやりとした闇に飲まれつつあった。みぞおちのあたりが締まる思いがして、気取られないよう顔をしかめる。この苦しさとの付き合いがいつからだったのか、明確には覚えていない。ただマツバと私がいわゆるただの友人ではなくなってから、ことあるごとに締めつけられるような苦しさに襲われるようになった。おかしなことだと思う。 もっとフランクで親友の延長線上のような、穏やかで温かい関係になれると思っていた。相手が大切で大切で、一挙一動が気にかかって、自分だけのものになってほしいという願いは互いに同じだったはずなのに、ひとつ踏み入れた途端にあてどもない隔たりが立ちはだかって、それ以上心の中に入ってゆけない。マツバについて何かを知ろうとするたびに自分との差異を見出して、私は愕然とした。きっとマツバも同じだろう。今だって私の考えを辛いと言って、虚空に瞳を放ってしまった。それでもいつものように笑っているから、余計に辛かった。こういう時にただ黙っていることしかできない無能な自分が馬鹿らしく、また惨めで仕方なかった。マツバを好きで、大事に思っているというのに、私のために口を閉ざしたマツバにかける言葉が分からない。 (踏み込んではいけなかったのだろうか。別々の方向を見たまま隣り合っていれば、幸せだったのだろうか) 正面から見つめ合った途端にこんなにも辛くなるならば、いっそ友人のままのほうがよかったのかもしれない。 「……マツバ、もう私のことは気にしなくていい」 ぽつりと落ちた台詞に些かぎょっとした様子でこちらへ顔を向けたマツバは、私を見てあの穏やかな笑みを消した。それを視界の隅に入れるだけで目線を合わせることはぜずに、もうほとんど陽の落ちた名前の分からない色をした空を見上げてマツバの真似をしてみたが、やはり何も感じるところはなかった。分かろうとするから辛い、分からないからさらに辛い。私はどこまでも身勝手に走り回ることしか出来ない人間なのだから、誰かを心の底から理解することなど出来ないのかもしれない。だからマツバも、私を分かろうとして辛い思いはしなくてもいいのだ。 「ミナキ君?……もしかして僕のこと、嫌いになった?」 「そうじゃない、ただ…私はこういう性だからな、追いかけることしか知らない…追いかけている相手の気持ちを分かろうとしても、分からない」 「…………、」 「君は逃げてくれていい…私を見なくてもいい、傍に居てくれれば…愛していられる」 喋りながら、なんと自分勝手な言い分だろうと自らを嗤ってやりたい気分になった。握りこんだノートがぎしりといやな音を立てて歪んだ。馬鹿げている、こんなことを言う日が来るのなら気易く恋人になどなるべきではなかった。私はマツバの優しさにつけこんだのだ。マツバが私の想いに応えてくれることが嬉しくて、想いを返してくれることが嬉しくて、愛していればそれでいいと思った。愛そうとしてくれるマツバのことなど、考えたことがなかった。 「嫌だよ」 「マツバ……」 「ミナキ君は勝手だね」 「ああ、だからもう」 言い切る前に肩を掴んだ力が、有無を言わさず私の体の向きを変えた。薄闇に浮かんだマツバの双眸が真っ直ぐ頭の奥までを貫いたような気がして、一寸目を瞑った。対峙してしまったらいけないと思っていたのに、こんなに呆気なく距離は詰まる。外套の上から肩を掴む手にぐっと力が籠り、それが今しがたのマツバの言葉を煽って私の自嘲を増幅させた。勝手だ、本当に私は勝手だ。君のことなど何も考えていなかった。だからもう君も私のことなど、 「逃げないでくれよ、ミナキ君」 「……な、ん」 「僕に逃げろだって…?違うだろ、逃げようとしてるのは君のほうだ。僕は逃げられるのは辛いんだ……さっき言っただろう」 おそらく抱きすくめるために伸ばされたもう片方の手を避け、肩の手も振り切って、私は反射的にマツバに背を向けた。もうほとんど闇に飲まれた塔の内部においても、マツバならばこのみっともない顔を捉えてしまうような確信があった。そしてまた、マツバがほほ笑みを取り戻している確信もあった。私の息は細かくあがり、喉元までせり上がった心音にぐらりと眩暈さえしていた。 よもやもう一度マツバを苦しめようとしていたことになど露ほども気づかずに、私は彼から逃げようとしていたというのか。逃がすつもりで、逃げようとしていた。それがマツバを苦しめることになるなら、私は逃げるわけにはいかない。だが、どうすればいい、傍に居ても離れようとしてもマツバを苦しめることになるなら私はどうすればいい。 「逃げなくていい、逃げないでくれ……ごめん、もっと上手く伝えられるようになるから」 頭の中が白くなった私の背中に温もりと言葉がうずまって、それがすぐに全身を巡った。息が詰まった。後ろから私を抱きしめたマツバの声は聞いたこともないほどに余裕がなく、切ない響きを宿していた。さきほどのように振りほどくことはもう出来ず、身を固くしたままひどく時間をかけて首を回す。暗い視界にマツバの金糸が映る頃には、張り裂けそうな苦しみよりもこうしてマツバの傍に居たい願望が勝っていることに気がついて、私はまた自分の浅ましさに瞠目してかぶりを振った。マツバにこうまでさせなければ分からないなんて、どこまで私はバカなのだろう。この苦しさが教えていたというのに。今さらただの友人になんて、戻れるわけもなかったというのに。 「マツバ……ごめんな」 「ミナキ君、もう」 「逃げないよ、すまなかった……私は本当に勝手だ」 肩口に額を押しつけていたマツバが窺うように顔を見せてこちらに鼻先を寄せたので、後ろから抱きしめられたままの恰好で首をめいっぱい捻ってそこに口づけた。ミナキくん、と嬉しそうに、どこか幼なびた声色で私を呼ぶ声が愛おしくてたまらない。今だってまだ胸の奥は苦しいのに、それでも離れたいなんて微塵も思わなかった。ひとつ分かったのだ、遅すぎると自らを罵りながらも破顔するに余りある、いっとう大切なことだった。 |