「ミナキ君」
 そこだけは七色の紙吹雪も届かずに、ただひたすらに暖色と青空のコントラストに守られて静謐としていた。いつもここへ来ると時間の感覚がなくなってしまう、ミナキは内心でごちてから、耳を打った声にひとつ深い息をついて足早に歩みを進めると、何をするでもなくそこに立っていた男の名を呼んだ。マツバ。すると金糸を揺らした彼は、ただ名前を呼び合っただけだというのにひどく楽しそうに頬を緩めた。ミナキが詰め寄る前にゆるく首を回して、もうそんな時間か、と呟く。なにを呑気なと言ってやりたいのに、むらさきの眼差しが真っ直ぐ自らの双眸を捉えるのでミナキは何も言えなくなってしまった。二人の間の微妙な空間を、ひらりと真っ赤な紅葉が音もなく流れ落ちた。それにわけもなくぎくりとして身を固くすると、ふふ、とゆるやかに笑ったマツバが袖を揺らす。式典のために深い桔梗色の水干を身にまとったマツバは、普段の彼とは異なったどこか尊い雰囲気を帯びている。
「似合わないだろう?僕の髪じゃ和装はだめだって言ったんだけどねえ」
「いや……そんなことはないぜ。なんというか、さまになっている」
「はは、惚れ直した?」
「……マツバ、それだけ余裕なら速く行け。皆待っているんだから」
「僕も待ってたんだよ、君のこと」
 ヘアバンドの代わりに小さな帽をのせたマツバの、少し長めの前髪が揺れた。いつもと違う格好でいつものように笑うマツバに倒錯的なものを感じて息を飲むと、広くゆったりとした袖口から伸びた腕がそっとミナキの頬に触れた。待ってたんだよ、君のこと。このところずっと忙しくて、話すなら今しかないと思ったからね。囁くように告げる言葉のひとつひとつが、特別なもののように思われてマツバから目が離せない。水干に触れるのは憚られたのでマツバの手の甲に手を重ねると、それを合図にしたように触れるだけの口づけを交わした。神聖であるこの小道でこんなことをしたのは初めてだと思い至った瞬間に、目の奥が熱くなる。意図したことではなかったはずなのに、これは何かの儀式であったのかもしれないと心音が速くなったときにはもう、柔らかな布の感触に抱きしめられていた。マツバの髪が肩口に埋められてくすぐったい。
「こら、皺になったらどうするんだ」
「どうでもいいよ……ねえ、ミナキ君」
 焼けた塔、なくなってしまったね。
 くぐもった声で顔の見えないまま呟かれたマツバの言葉は、笑っているようでひどく冷たい、残酷な響きを孕んでいた。ミナキの胸の奥がずきりと痛んで、まなこの奥の熱がひときわ膨れ上がった。思わず皺など気にできなくなってマツバの背に腕を回し、マツバと同じように彼の肩に額を押しつける。名前を呼んだのに、それがひどく掠れていて、もうこれが限界なのだと悟った。今しがたここでマツバと対面した時から自覚してしまっていた、あの苦しいような心持ちは他でもない、自らが半生を捧げてきたスイクンというポケモンが生まれた場所、幾度と知れずマツバとそこを訪れ、多くの夢を語り合った場所、あの焼けた塔が消えてしまったことへの、空虚とかなしみだったのだ。


「――すまない、マツバ」
 いつ堰を切っていたのか分からない、ただ気が付いたら目が溶けてなくなるのではないかというくらい熱いものに包まれていて、それが自らの涙だと分かった時には喉の奥がひきつって、うまく息が出来なかった。髪を梳くようにゆっくり後頭部を撫でるマツバの手、それから耳に流し込まれるいくらか掠れたマツバの声。大丈夫だよ、そう子どもをあやすのにも似た語調であまやかにミナキを包むすべてが紛れもないマツバのものであるのに、やはりいつものマツバとは違うように感じて、胸の奥まで熱く苦しい。抱きつかれることはあっても、自分が抱き縋って泣くなんて今までに数えるほどしかなかったから、一度溢れてしまうと感情の抑えがきかない。どうしたらいいのか分からない。
「君は、もっと早く泣いておくべきだったんだ…ごめんミナキ君、僕もやっぱりエンジュの人間だから……気づくのが遅れてしまった」
「違う、ちがうんだ…私もうれしい、んだぞマツバ……だが、」
「うん、そうだね……僕も、寂しいよ」
 声にならなくなったミナキの押し殺した嗚咽を肩に感じて、マツバは眉根を寄せて一度だけ涙を零した。あのエンジュにとっては負の遺産とも呼ぶべき焼けた塔が消えたことをここでこうして惜しみ、泣いている人がいることを、この街の人間は誰ひとり知らないまま今日という日を終えていく。それがひどく悔しくて、だけどこうやってミナキの憐憫を独占して受け止めていることに確かな歓喜も感じながら、マツバは震えるミナキの背を何度も撫でた。大丈夫だよ、再びそう囁いて片腕をほどき、ミナキの顎を抑えてぐいと顔を上げさせる。びくりとその行為に驚いたミナキは慌てて身を引こうとしたが、それを許さずにマツバは涙に濡れたミナキのぐしゃぐしゃの頬を舐めとって、あらゆる感情を折りこんだ笑みを湛えながら今度は深く、分かち合うように口づけた。