3


 メルジェリーナ港には穏やかな空気が流れている。
 地下鉄を降りて少し歩いたらすぐ港に出るのだが、普段はもっと活気があって騒々しいのに今日は静かなものだった。ナターレの時期は漁が無かったり朝のうちに引き上げてしまう船が多いからだ。海岸通りを歩いてゆくと、ずらりと並んだ漁船の舳先が遠くまで続いているのが見える。海は静かで波も小さい。風は無いものの、肌に触れる空気は冷たかった。フーゴはここへきて初めて持ってきたマフラーを首に巻くと、手にしたバッグの重みを確かめながら、辺りをぐるりと眺めてみた。
 夏よりも濃く落ち着いた青色のナポリ湾の上を、高くさっぱりとした水色の空が水平線まで包んでいる。午後の日差しが海沿いのビルやホテルなんかを照らしている。海岸通りには水揚げされた魚や貝を売っている露店がぽつりぽつりと出ているけれども、この時間ではもう碌なものは残っていないようだった。
「でさァ、結局それって何なんだろうな?」
 野良猫をかまって後ろのほうでしゃがんでいたナランチャが、小走りに追いかけてきてフーゴの持っているボストンバッグを覗き見るように腰をかがめた。ひょいとそれを持ち上げながら一緒になって見つめてみる。頑丈だがメーカーも分からないような使い古されたバッグだ。
「さあね」
 肩をすくめたフーゴがどこかにぶつけないように気を払いつつ腕を下げると、ナランチャはすぐに飽きたふうに体を伸ばして先へと歩いて行った。進行方向に露店が出ているから、売れ具合でも見に行ったのだろう。
 ナランチャの頭上では、エアロ・スミスが旋回するように飛んでいる。メルジェリーナに着いてから常に追跡者が居ないかどうか探知し続けているのだ。バララバラララと小さなプロペラ音が寒空に響いている。この音が無ければ本当に静かな海岸だろうけれども、このくらいが二人にはちょうど良かった。
 フーゴはプロペラ機の軌道を眺めてから、もう一度視線だけをバッグに戻してみた。
(……「何」って訊かれれば、答えは分かり切ってるんだけど)
 十分ばかり前のことだ。ネアポリス中央駅のコインロッカーから持ち出してきたボストンバッグをメルジェリーナまで持ってきたところで、二人は人気のない高架下へ行きその中身を覗き込んでみたのだ。すると薄闇の中からいくつかの瞳に見つめられ、ぎくりとした。中身は麻薬でも死体でもなかった。予想が外れたことで気が抜けたと同時に、得体の知れない気味の悪さが鳩尾のあたりにじわりと広がった。
 詰められていたのは、テラコッタ製の上等なプレゼーピオだった。数は三つ。それなりの大きさがある。酒に酔っているらしく赤ら顔をしてワインのボトルを抱えている若い男と、田舎っぽいエプロンと頭巾のどこにでもいそうな婦人、それから恰幅が良く値段の張りそうなスーツを纏っている壮年の男という、上等な割にはパッとしない素材ばかりだった。色合いもプレゼーピオ通りに並んでいたような自然かつ鮮やかな目を惹くたぐいのものではなく、あまりにリアリティを追求しすぎて地味で面白みの無くなってしまったという印象を受けた。
 だからナランチャだって、この中身がプレゼーピオだということは当然知っている。先程の問いかけは、どうしてこんなモノをわざわざ俺達が始末しなきゃあいけないんだ?という意味だろう。
 フーゴもそれについてはずっと考えていた。中にヤバい金か麻薬の類が入っているんじゃないかとか、実はこう見えてひどく値が張るのかもしれないとか、この人形自体が実は何らかの武器であるとか。けれどもそれでは始末する必要性が無いようにも思われるが、末端のガキどもになど真実は知らされないことを前提に考えれば何だって有り得る話なのだ。本当は始末なんかしないのかもしれない。漁師に扮した誰かによってどこかへ運ばれていくのかもしれない。そこから先はもう、自分達の及び知るところではないのだ。仕事はただ淡々とこなせばいい。変に勘ぐったり首を突っ込めば碌なことにはならない。
しかし。そんな思考を前にして、フーゴはあのチャイルドブルーの瞳を思い出している。あんた達なら中身を見てもいいと言ったエリック親父の、見透かすような静謐な眼差し。穏やかで朗らかな人柄との、その緩急。
 そもそも何故あんなことを言ったのだろうか?
『いいかフーゴ、必要以上にあれこれと詮索しようとするなよ』
 螺旋状に連なってゆきそうだった思考の渦に、泡のように浮かんできた声があった。
 はたと考えるのをやめる。
 あれはブチャラティの言葉だ。彼は日頃からそう言い聞かせては、危険から部下を守ろうとしているようだった。ギャングの世界には知らなくても良いことが沢山ある。好奇心で首を突っ込もうとしないように。命令だけを忠実に守るように。フーゴが仲間になった頃もだが、ナランチャが加入してからはほとんど仕事のたびにいつも、ブチャラティはそういった事項を染み込ませるように口にしていた。
(……ブチャラティならこの人形を見て、何て言うだろうな)
 息を吐き出すと、微かに白い色がついていた。
 ウミネコがニャアニャアという鳴き声をあげている。フーゴはそれを見やりながら、何か吹っ切れたような気分になって歩く速度を上げた。上司についてひとしきり思いを馳せてからはもう、ボストンバッグの中身について考えようとしなかった。
 海へ伸びる桟橋を渡っていくと、停泊している漁船にはぽつりぽつりと漁師たちの影が見えた。露店で魚介類を売っていた者が後片付けをしているらしい。クリスマス・イヴは昼過ぎには帰って家族と過ごす場合が多いから、彼らは仕事熱心な漁師か、あるいは何らかの事情がある者達なのだろう。――たとえば今のフーゴとナランチャのような。
 すれ違いざまに不思議そうに挨拶をされて、曖昧に笑いながら誤魔化す。
 フーゴは、あまり漁師という存在について良い印象を持ったことがない。祖父も父も第一次産業を軽蔑に近い目で見ていたし、ネアポリスといっても内陸側で育ったので、海や漁業を身近に感じることも少なかった。それから小学校で社会科見学の特に訪れたサンタルチア港で見たウミネコが、近くで見ると思ったよりもずっと気持ち悪い顔をしていて、しかも凶暴に観光客の食べ物なんかを狙っていることを知って軽いショックを受けたということもある。漁師というより港自体を敬遠していたのだろう。
 ただそれも、ブチャラティと出会う前までのことだ。彼は組織に入るよりも以前のことは多く語らないけれども、時折り漁師だった父についてであるとか、部屋に飾られている網についてであるとか、父の手伝いをしていた頃の思い出なんかを話してくれることがあった。彼は人に説明するのが上手い。大学の教授なんかよりずっとだ。聞いているとまるで実際に自分が当事者になったかのように、リアルに情景や音、感触なんかが浮かんだ。そうやって折に触れて話を聞いているうちに、漁師という存在に知らず知らず親しみめいたものを覚えるようになっていった。

――ブチャラティの口から紡がれると、どんな些細なことでも夏の潮騒のように輝いて価値のあるものに聞こえる。そんなふうに感じるようになったのは、比較的最近のことだ。
 よくある厳格な上下関係における傾倒だとか盲信だとか、そんな烈しい感覚ではない。例えば朝寝坊をしたと言って本気でショックを受けていたり、街中で泣いている子どもをあやそうとしていたり、デザートにリンゴが入っていると知って冷や汗を垂らしながら険しい顔をしていたり、そうったむしろ彼にも人間らしいところがあるのだという親近感のような感情が、自分の場合は根っこにあるのだろうと思っている。
 ほとんど拾われるような格好で部下になった自分がこんな風に評するのはおこがましいのかもしれないが、彼はこちらが心配になるほどに甘くなることがある。いかにもギャング然としているくせに、不意に掛け値なしの行動をとって周りを驚かせることがあるのだ。
 僕がしっかりしていなきゃあ、とフーゴが気を引き締めるようになったのも、ブチャラティの人間らしさ、情を目にするようになってからだった。
 仕事について余計な詮索をするなと冷めた口ぶりで言うくせに、自分はどんな小さなことでも気を配り隈なく目を光らせていて、例えば無関係の人間が犠牲になったりだとか、子供が関わっていたりした時には独断で密かに彼らが苦しまないよう行動しているのをフーゴは知っている。ナランチャだって知っているだろう。あれでいて勘が鋭いし、ブチャラティのことをよく見ているから。何より彼を救ったのはブチャラティだ。フーゴは単にきっかけを作ったに過ぎない。
 それに彼は街の住民のためには労を惜しまないので皆に慕われ可愛がられているし、日頃の何気ない行動が巡り巡って仕事に繋がることだってままある。そんなどれもこれもを大抵は無自覚に行っているから、時たまフーゴは途方に暮れることがある。なんて人なんだろう、としみじみ思う。熱くなりやすいと自らを評しているけれど、その根底には曲がらない芯のようなものがあるのだろう。本人には存在を認識されていない芯が。
 ブチャラティの裏のない真っ直ぐな態度、軽薄な振る舞いをしても殺しきれない情の厚さが、たった一年と少ししか傍に居なかったフーゴの中ににもしんしんと浸透してきては、がらんどうだったそこに何かを宿している。そう自覚するたびに、フーゴは自分の中にも芯のようなものが形作られているのを感じていた。ブチャラティの傍に居ると、喉から腹にかけて伸びている芯が熱くなるような、むず痒いような震えるような、奇妙な心地がするのだ。その変容が何なのかは分からないけれども、ブチャラティがもたらしたのだということだけははっきりしていた。

「おうい!」
 視線を上げると、一番向こうの漁船の甲板で手を振っている男が居た。見知った顔だ。以前ブチャラティの紹介で会ったことがある。正式にパッショーネに属しているわけではないが協力体制にある人間というのはネアポリス中にかなりの数がおり、彼もまたその一人なのだ。曾爺さんの代からずっと漁師をやってきた家系だという。
 彼の漁船には、ちょこんと可愛らしいリースが飾られていた。ところどころいびつで、何やら手作りらしい鈴の形をした飾りもくっついている。彼の子どもが作ったものなのだろうと思われた。
 日に焼けた顔で笑いながら降りてきた漁師の男は、「ナターレなのに大変だね」と大らかそうに言うとフーゴが受け取ったボストンバッグをひょいと受け取り、まるでサッカーボールみたいに右手に乗せて軽く上下させた。中に大きめのテラコッタ製品が三つ入っているなんて思えない軽やかさだった。「ちょっと、」もう少し丁寧に扱えよ!と口走りそうになって前のめりになる。せっかくここまでヒビを入れたり割ったりしないように気をつけて運んで来たっていうのに、ここで壊されでもしたら台無しだ。
 けれども彼の左手に握られている物を見た瞬間、フーゴはこれから行われることに大体見当がついて途端に気が削がれ、もうどうでもよくなってしまった。ナランチャを盗み見ると、まだ気づいていないようだ。我知らず肩の力が抜けていた。
「……それ、どうするんです?」
「ん? ああ、滅多打ちにしてから海に沈めろって話だぜ」
 思わず上空を仰いでしまった。
「割っちまうのかよ! おっさん、それって何なワケ?」
「さてなぁ。俺はこれしか頼まれてねぇから」
 ナランチャが指さしたボストンバッグをおどけるように持ち上げると、男は左手に握っていたハンマーをこれまた軽やかにくるくると回した。フーゴは黙ってナランチャの腕を掴み、それじゃあ僕らはこれで、とできる限り気楽に見えるように笑った。男もおうと応えて笑う。こぼれた白い歯が、太陽光を受けてきらりと輝いた。
 想像していたよりもずっとあっけなかった。
 きっと中身は詳しく知らされていないのだろうし、中身を見ていいとも言われていないのだろう。この男にとっては本当に些細な頼まれごとでしかないのだ。フーゴは彼の様子からそう判断し、ここへ来る間ずっと抱いていた疑問を口にすることはしなかった。自分がどう思うにせよ、これで受け渡しは無事終了したのだから。
「良いナターレをな!」
 闊達な声に見送られて桟橋を後にする。
 手を振りながら背を向ける時、かすかに苦悶の声を聞いたような気がした。







 4


「え〜っ! お前って留学なんか目指してんの?」
「まあな、昔からアメリカに行きたくってさ」
「不良はもうソツギョウしたのかよ」
「あ、あいつとはもうつるんでねーんだよ……それよりもお前、本当にギャングになったのか? マジで?」
 赤毛の少年は鼻白むような様子を見せながらも、小声でそう言ってまずナランチャに、それからフーゴにどこか熱のこもった眼差しを送ってきた。「だからそう言ってんだろ」と不満げな表情をしたナランチャの隣で、フーゴはただ黙って肩をすくめて暗い窓外に目をそらした。地下鉄の中で外を見ることほど意味のない行為も無いが、気を紛らわせるには多少は役に立つ。じろじろと見てくる視線は正直言ってうっとうしい。この年頃ってのはどいつもこいつもギャングだとか不良に憧れるんだろうか、とぼんやり考えたが、同年代なんて久しくナランチャくらいとしかマトモな交流を持っていないからフーゴには分からなかった。
 彼は、ナランチャの友達だという。地下鉄に乗っていて偶然見かけたナランチャに、向こうから声をかけてきたのだ。ナターレだけどあまり家に居たくないと話す彼は、フーゴから見るとずいぶん真っ当なありふれた少年に見えた。ギャングからすればほとんどの子どもは真っ当だが、それだけではなくてもっと綺麗な意味合いを含んでいる。きっと夕食までにはむずついた顔をしながらも家に帰って、家族とディナーを食べてプレゼントを交換し、夜にはミサに行ったりするのだろう。普段は素直でない息子に対して困惑気味の両親も、今日だけは無条件に優しく愛情深く接してくれるのだろう。そしてそんな彼らに対して息子もはにかみながらぎこちなく甘えてみたりするのだ。――というような想像をしてみたところで、自分はなんて絵に描いたような家族像しか持っていないんだ、とフーゴは笑いだしたい気分になった。
「でも良かったよ、お前また学校来なくなったからさァ……心配してたんだぜ」
「お前が? ふぅ〜ん……」
「いやホントだって! 前はあいつに言われて声掛けられなかったけど」
 疑うようにニヤニヤと顔を突き出したナランチャに、身振りを大きくしながら少年が弁解している。どうやら聞いている限りだと、一度この二人の友情は壊れるか何かしたらしい。それを少年は後悔していて、ナランチャのほうも何だかんだまんざらでもないらしい。少年に伝わっているのかは知らないが、ナランチャの横顔を見ていれば一目瞭然だ。濃い色の大きな虹彩が、からかう振りをしていてもしっかり少年を映しているのが分かる。声をかけられた時点でもう嬉しそうだったのが、ますます外側に滲み出ているようだった。
 地下鉄のゴトンゴトンうるさい走行音を聞きながら二人を眺めているうちに、少年とナランチャの間にくっきりとした隔たりが見えるようにフーゴには思われた。同じものが自分と少年の間にもあり、そして隔たりは自分とナランチャとの間にもあるのだが、自分とナランチャの間にあるものは、ひとつめの隔たりとは別のものだ。つまりフーゴとナランチャをひとくくりにするものと、少年とナランチャをひとくくりにするものとがある。初めのうちは少年とナランチャを隔てるところが透明な壁のように光を弾いているような気がしていたのだが、今ではフーゴと彼ら二人の間にもきらり、きらりと見えない光が反射して隔たりを主張している。
 次第に打ち解けてきた様子であれこれと話題を投げかける少年に、ナランチャは何の憂いもなさそうに頷いて見せ、かつて自分を虐げていたらしい少年にどこまでも対等な、自信に満ちた風貌で言葉を返している。フーゴはそのさまに安堵したような、落胆したような微妙な感慨をおぼえた。そして今だ、と思った。
「ナランチャ、きみ行ってきたら」
「ええ?」
 地下鉄がゆっくりと速度を緩めだした。
「せっかく会ったんだろ、飯でも食べてきなよ」
「えっいいよ、だってフーゴと「いいから行けって」
 これを逃したらもうないかもしれないぞ、と耳打ちするとさらにフーゴは続けた。
「あとは僕一人でやっておきますから。それから、今夜は家に帰るんですよ」
「はァ?!」
 当然のごとく不服そうな顔をされた。
 地下鉄の速度はさらに緩やかになって、慣性で乗客たちの体が傾く。それでも客たちは次の駅で降りるためにどんどん立ち上がり始めている。
 ドアに手を当ててバランスを取りながら、ナランチャは訝しみを込めた反抗的な視線を向けてきたけれども、フーゴがいやに真剣な目つきをしているので気圧されたらしい。いつものようにぎゃんぎゃんと不服をぶつけてはこなかった。代わりに表情を困惑の色に染め始めた彼に、フーゴはできるだけ優しく聞こえるように気を付けつつ、
「ブチャラティからの伝言なんです」
と付け加えた。するとナランチャは一度大きく双眸を見開いてから、ついに唇を尖らせたまましゅんとうなだれて黙ってしまった。
 やっぱりブチャラティの名前は効くな、と少し感心する。とはいえこれは紛れもなく本当のことだ。ナランチャに伝えてくれと、朝のうちに頼まれていたのだ。クリスマスくらいは家に帰れ、と他ならぬブチャラティに言われてしまってはナランチャも嫌だとは言えないだろう。
 中央駅で言いそびれていた言葉をようやく伝えることができた解放感と、居心地の悪さがせめぎあっている。食事はまた今度行きましょう、と言って顔を覗き込むようにすると、ナランチャはいきなりぎゅ、とフーゴの鼻をつまんでから眉をひそめ、だけど歯を見せるように笑った。
「……分かったよ! だけどフーゴは、」
 未だに拗ねたような声がそこまで言ったところで、地下鉄が完全に停車した。ブレーキ音が響く。
「いいね、絶対に帰るんですよ!」
 びしりと指をナランチャの前に突き出すと、フーゴは勢いよく振り返ってプラットホームへと走り出した。観光客と地元の人間がごちゃごちゃに混じり合った人波が勝手に体を押し流していく。後ろに着いてきていやしないかと振り返ろうにも、立ち止まることも容易ではなくて結局そのまま駅を出てしまった。
 ナランチャはどうやら地下鉄を降りなかったらしい。今度こそほっと息をつくと、ぐっと背伸びしてから駅前広場を見回す。陽が傾いてきたために若干色調を落とした旧市街の街並みが広がっている。サンロレンツォ教会の時計塔には濃い陰影が落ちている。立ち止まるフーゴの脇を通り過ぎる大勢の通行人のざわめきが耳の中で飽和し、不思議な熱気を生み出していた。昼頃に来た時より人影はまばらになっているが、客足はまだまだ盛んなようだった。
 内ポケットの鍵はしっかり仕舞われている。これをエリック爺さんに返せば、今日の仕事は終了と言っていい。本日数度目の人ごみへと踏み入れるために気合いを入れつつ、フーゴはプレゼーピオ通りの細くちかちかした路地へと爪先を向けた。ずらりと並ぶテラコッタ人形の、鮮やかな色彩が近付いてくる。
 ふと、ナランチャが別れ際に言いかけた言葉が気にかかった。何が言いたかったのかは大体分かっている。お前はどうすんの、ということだろう。
(どうすんだろう、僕は)
 一人でクリスマス・イヴを過ごすことには大して抵抗が無い。むしろ皆でわいわいというのは昔から少し苦手だったから、心のどこかではほっとしている部分もある。だがもし一人でなかったら、どうするのだろう。つまりアパルトマンに電話か何かが入って、ナターレを一緒に迎えようということになったら。それはないと思いつつも、全く可能性がないわけではないとフーゴは思っていた。早めに帰る、と彼は言っていたのだから。

 ナランチャへの伝言を預かったのは今朝がた、ミラノの母親に会いに行くブチャラティを見送るために事務所を出ようとした時のことだった。開いた瞬間、ひくりと頬が引きつってしまったのを覚えている。そういうことはアンタが言ったほうがいいですよ、喉元まで出かかっていたその台詞を飲み込んでフーゴがわかりましたと頷くと、苦笑しながら上司はドアノブを回した。
 玄関まででいいと言うブチャラティを無視して一緒に表へ出ると、夜明けの冷たい風が吹きつけて身を縮ませた。風は強いけれど東の空は明るいから、今日は良い天気になるだろうと知れた。路地から見える表通りの一角ではまだイルミネーションが光っている。バールの飾りつけだ。どうせ店主が消し忘れたのだろう。クリスマス・イヴだからいいじゃあないかなんて、あの店の親父が言いだしそうなことだ。
『なるべく早く帰る』
『いいですよそんなこと、気にしないで』
 慌てて見上げると、黒曜石のような瞳とかちあった。笑みを浮かべてはいるものの、ほぼ真顔に近いおもざしにどうしたらいいか分からず、自分も真顔のままブチャラティを見上げた。そうしていると彼は少しばかり眉尻を下げて、視線を爪先の向かう表通りへと移した。イルミネーションの人工的な目映さが、黒い瞳と髪に忙しなく映り込んでいる。しかしそれらを飲み込むように、彼の瞳はどこまでも深い色をしていた。
 フーゴは黙ってブチャラティを見上げたまま、数時間前のことを思い出し、ひとりでにくしゃりと顔をしかめた。

 昨晩ブチャラティは、遅くまで事務所のリビングで何事かをしていた。調べごとでパソコンを使わなければならなかったフーゴはずっと仕事部屋に居て、トイレや休憩に出かける時なんかにリビングを覗いては、彼がまだそこに座って居眠りもしていないらしいことを確認しては、また仕事部屋に戻るというのを繰り返していた。
 半年ほど前まではフーゴもこの事務所で生活していたので、どことなく懐かしかった。アパルトマンで一人暮らしをしたいと願い出たのは自分だが(この事務所は二人暮らしには狭い)、ブチャラティの近くに居られることにはやはり安心感があった。それは彼が尊敬できる上司だという点と、自分がいざという時にはすぐ彼の力になれるという自負の点からの心持ちだった。こんな心境になるなんて、出会った頃には考えてもみなかった。
『コーヒーでも淹れましょうか』
 声をかけるとブチャラティはぴくりと肩を揺らし、ゆっくりと振り返った。その表情にフーゴは違和感を覚えた。どうしたんです、と反射的に尋ねてしまってから小さく後悔する。テーブルに置いてある、彼の体の陰にあったものが覗いて見えたのだ。
 ブチャラティは『いやコーヒーはいい』と首を振ると、代わりに手招きをしてフーゴを呼んだ。そうしてソファを指し、隣に座るよう促した。フーゴは気まずさを感じながら、口を噤んだまま腰を下ろした。革貼りの小さな摩擦音が、やけに耳の奥に残った。
 テーブルに小さなプレゼントの包みを置いて、ソファに腰かけたまま半身になって膝の上で両手を組み、そこに重心をかけて包みをじっと見つめていたり、ソファに深く沈み込んでぼんやりしているブチャラティを、長いことフーゴは見守っていた。背中をほとんど垂直にしたきりじっとしていたけれども、時間の流れはあまり感じなかった。ここに座るようにと言われたことに、なにやら使命感めいたものを感じていたのかもしれない。やがて深くゆっくりと息を吐き出したブチャラティが、視線をかたわらへと投げかけた。ずっと彼を見ていたフーゴはその眼差しを受け止めた。まなかいを若干不思議そうに固めていた彼は、しばらくしてふっと力を抜くように笑い、今度はもっと早めに深呼吸をすると髪をかき上げ、フーゴのほうへ腕を伸ばしてきた。
『ブチャラティ……?』
『少し俺に勇気をくれないか、フーゴ』
 吸い寄せられるように体を寄せると、肩に腕が回って引き寄せられる。あちらも幾分か体を寄せてきたようだった。ほとんど消えかかった香水のにおいがする。酒と煙草のにおいもだ。彼は今日どこで何をしていたのだろう、と虚を突かれた頭で思ったが、そんなことを考えようとする自分の脳みそが滑稽だった。彼の腕が触れているところが次第に熱くなっていくような気がした。
 自分の肩を抱いたきりまたじっと動かなくなったブチャラティを、フーゴは眉をひそめがちにしてそろそろと見上げた。こんなことで勇気が出るものだろうかと困惑する。年に一度だけ顔を合わせる母親のことでもの憂げになっているであろう彼に、一体どんな言葉をかけていいのか、フーゴにはまるで見当がつかなかった。何か気の利いたリアクションのひとつもできれば良いのにと思いながら、じっと息を潜めるようにしてブチャラティが目を伏せるのを見つめることしかできなかった。やがて彼のまつ毛が震えて瞳が開かれようとしているのを感じ、慌てて前を向いたけれども、きっと見ていたことは気づかれていただろう。目を細め、どことなく楽しげに笑ったブチャラティに肩をぽんぽんと叩かれて、フーゴは自分の唇が何故かひとりでにむずりと動くのを感じていた。

『行ってらっしゃい、気をつけて』
 翌朝、まだ薄暗い空を視界の端に入れながらそう言った時、どんな声色が出ているのか自分でもよく分からなかった。昨晩と同じ居たたまれなさと気恥ずかしさのようなものを、今また感じている。そう思った。
 がらんと広く見える表通りまで出ると、ブチャラティは立ち止まり振りかえった。そうして見送りの言葉をどう受け取ったのか、「頼んだぞ」と言って笑みを浮かべ、右手を伸ばして頭を撫でてくれた。頭のてっぺんではなく、やや耳寄りの辺りだった。体の中の、あの芯めいたものがざわつくのを感じた。
(こんなに優しい手をしておいて、アンタは自分がどういう眼をしているのか分かってないんだ)
 彼の黒々とした瞳に、そこに湛えられている重苦しさに、フーゴはどうしようもなくもどかしくなった。それから己の心に、名伏しがたい揺らぎが湧いてくるのを。
『きっと、大丈夫ですよ』
 未だにフーゴの髪を撫でるように触れていたブチャラティの手に自らの手を重ねて、ぽつりと呟いた。気づいたら口から零れていたと言ったほうがよい。何も考えない頭で、何も根拠のない言葉を口走ったことがフーゴ自身驚きだった。ぶちギレた時以外にこんなことをするのは稀だった。ブチャラティが驚いているような気配を感じ、思わずうつむく。何言ってんだ僕は、と焦りながらも謝るのもおかしい気がして、ただ黙るしかなかった。
『……ありがとう、フーゴ』
 少しして、額に布の感触を受けてはっと思考が戻ってきた。冷たいにおいが鼻腔に流れてくる。ブチャラティが頭に手を置いたまま距離を詰めて、自分を肩口に抱き寄せたのだ。そう気づいた時にはもう、彼は手をひらりと振りながら背を向けて歩き出してしまっていた。
 朝靄にシルエットが溶け込んでゆく。白んで明るくなってくる東の空に細長い棒のようになって遠ざかる背中を、フーゴは呆けたように見つめていた。唇が、むずむずとひとりでに動く。どういう感情がこの顔をさせているのか分からない。昨日もそうだった。礼を言われるようなことをしたのだろうかと、ひたすら自問する。昨晩のブチャラティのあの笑顔は何だったのだろう。深淵は見えないのに、それでも作り物ではないあの優しげな表情は何だったのだろう。あの顔を見ていると、フーゴは自分がとてつもなく異質な何かになってしまうような気がしていた。
 
 半日以上が経った今でも、別れ際のブチャラティを思い出すと心が落ち着かなくなる。いつもよりもトーンの低い声色と、抱き寄せられた時の感覚がそれを助長していた。もしも今夜彼に会うことになったら、僕はどうすればいいだろう――。考えるたぐいのことではないし、ただ普段通りにすればいいだけなのに、それでも考えずにはいられなかった。せめてブチャラティが少しでも明るい顔で帰ってきてくれることを願いながら、フーゴは華やかなプレゼーピオ通りを足早に進んだ。

 エリック親父の店までたどり着くと、相変わらずちょっとした人だかりができていた。ちょうど皆が一斉に拍手を始めたところで、その誰もが感心したふうに瞳を輝かせている様子から察するに、プレゼーピオが出来上がったか何かしたタイミングだったのだろう。まさか昼間に来た時からずっと居るわけじゃあないだろうな、とフーゴは鼻白んだ。
 一度目に来た時と違って今度は急いで会う必要もなかったので、人だかりの外でしばらく待とうかと考えていると、どういうわけか親父と目が合ってしまい、ぎくりとして姿勢を正した。数メートルは離れているし、大小さまざまの背中にたびたび遮られているのに、彼はずっとフーゴの目から視線をずらすことがない。その瞳だけで柔らかい笑みを浮かべているのが分かった。次第に散ってゆく人々にぶつかったり押しやられたり文句を言われたりと周囲は賑やかだったが、フーゴはしばらくその場でただ突っ立っていた。
 やがて人波が去ってからエリック親父の元へ近づいてゆくと、腕に抱いたプレゼーピオを撫でながら彼は立ち上がってにこりと笑った。
「あれは、人間だったんでしょう」
 開口一番に確かめるようそう問えば、一寸虚を突かれたように澄んだ瞳を丸くして、しかし親父は先程よりも相好を緩めるだけで何も答えない。フーゴは彼の双眸からプレゼーピオにちらと目線をずらし、寸分薄気味悪さを覚えた。それは聖母マリアだった。テラコッタのつやつやとした慈しみ深いまなこが、きょとりと動いたような気がした。
「安心しな、売り物にしたりはせんよ」
 ぎくりとして彼の顔を見つめる。
「どうして分かったね?」
「……もしかしたらと思っただけです。あれはプレゼーピオにされた人間で、何かの事情で消さなければならなかったんじゃないかと。粉々にして海に捨てれば、証拠は残りませんから」
「なるほどなるほど」
「……」
「あっちの子は気づいたかね?」
「いえ、多分まったく」
「はっは、じゃあ内緒にしておくこった。いいね?」
 フーゴは眉をひそめながら、小さく諾を示した。言われなくともそうするつもりだった。
 エリック氏はフーゴの問いと推察について、何ら返答らしき言葉を寄越すことはなかった。フーゴは彼の反応からみて概ね間違ってはいないのだろうと判断した。ふたりの周りには不思議と人の流れも少なく、しばらくの間妙にのったりとした時間が流れた。片手でとんとんと腰を叩きつつ空を見上げていたエリック氏の面差しは、フーゴがこれ以上言い募ってこないことを確認したのか頷くようにして歯を見せて笑い、それから腰を叩いていた手をフーゴへ伸ばしてきた。はっとしてコインロッカーの鍵を出して渡す。
「確かに」
 今度はしっかりと頷いてそれをズボンのポケットに仕舞い込み、彼は布の上からぽんぽんとポケットを叩いて見せた。かすかに金属の音がした。
「ブチャラティは昔、ここへ金の工面をしてほしいといって来たことがあってな」
「えっ」
「だが金は用意してやれんかった。……ワシとの取引はできないと断ったからね」
「取引って……もしかして」
 ごとり、と重みのある音とともにマリア人形が陳列棚に置かれた。フーゴは吸い寄せられるようにそれを凝視した。ボストンバッグの中で目が合った、あの地味なプレゼーピオが脳裏に浮かんだ。
「ワシはただの金貸しだよ。カタギは相手にしないがね。……もし一番大事な人と引き換えにしてもいいくらい金に困ったら、ワシのところへ来るといい」
 チャイルドブルーの老練な瞳が、フーゴを優しく見つめている。そこに移ったシルエットがふと自分ではない誰かであるような気がして、首筋にじわりと冷や汗が浮かぶのを感じた。その自分に似て非なる誰かに、心の深淵をくまなく見られている心地がした。反射的に目を瞑りながら黙って頭を下げると、フーゴは逃げるように身をひるがえしてその場を後にした。


 西日が街を影絵のように塗り潰している。
(この街には、本当に何だってある)
 ギャングもあんなふうに街の風景にうまく溶け込みながら、ネアポリス中に存在しているのだ。そこかしこで売られている庶民のプレゼーピオの中にだって、ギャングがうじゃうじゃ混じっているに違いない。
 彼はパッショーネの幹部だろう、とフーゴは直感的に確信した。口振りからして、スタンド能力で相手の一番大事な人間をプレゼーピオに変えるのだろう。それと引き換えに金を貸すのだ。金を返せなかった場合どうなるのか、フーゴはつい先刻メルジェリーナ港で目の当たりにしたということだろう。
(あの爺さんにはきっと、僕の一番大事な人とやらが見えていたんだ)
 見透かすような眼差しを思い出す。おそらく、ブチャラティなのだろうな。と当然のごとく思う。今の自分にとって、大事な人と呼べる相手は彼の他にはいないのだ。
 ブチャラティの一番大事な人とやらは、やはり父親だったのだろうか。彼がエリック氏を訪ねたのがまだ組織に入って間もない頃であったのだとすれば、十中八九そうなのだろう。ならば本末転倒な話だ。父親を守るために組織に入ったブチャラティに、金のために父親を差し出せという条件はあまりにも無意味だ。即座に踵を返してこの街を去ってゆく、まだ幼さの残るブチャラティの後姿が目に見えるようだった。
(……じゃあ、今は)
 ふと意識がそこで引っかかって、動かなくなる。 
 父親が居なくなった今、ブチャラティにとって最も大事な人とは誰なのだろうか。自分は彼にとって、一体どれほどの価値のある存在なのだろうか。そんなことを考えてしまう自分に疑問符と、わずかの嫌気が浮かんだ。





 5

 事務所の近くでバスを降りた時には、もう太陽はほとんど沈んでしまっていた。
 角をいくつか曲がり、だんだん細い道へ入ってゆく。普段自分が表通りと呼んでいる通りも、市街地から帰ってくるとずいぶん殺風景で味気なく感じられた。
 大通りの華やかさは届けども、それは暖かな夜を約束されたものでなければ、真夜中にオレンジの光が漏れる家の中を息を潜めて覗き込んでいるような浮ついたものでしかない。爪先立ちで覗き込んでは、そのたびに足元がぐらつき、それでもやめることができない。今夜のイルミネーションと街路の声は、そんなまぼろしのような魔力を持っている。
 自然と早まる足に任せて事務所へと向かっていると、路上駐車された車の群れのずっとあちらのほう、目的をもって瞳を輝かせながら歩く人々から外れるようにして、寒々しい格好をした子どもたちが数人群れになっているのが見えた。フーゴは立ち止まって目を凝らした。彼らの真ん中に居るのは、自分のよく知っている男だった。
「ブチャラティ?」
 子どもたちは彼を見つけて集まってきたのだ。
 どうして、と顔をしかめる。フーゴは縦列駐車の影に隠れるようにして近くまで寄ると、彼らの様子をしばらく眺めてみた。
 ブチャラティは子どもたちの頭を撫でたり声をかけてやったりしながら、大通りを指さして何事かを伝えていた。家に帰れないのなら教会へ行くといい、とでも教えてやっているのだろう。あのナランチャの友人のように燻りながらも家に帰る子どももいれば、それもできない子どもだってネアポリスにはたくさんいる。彼らもまたそんな存在なのだ。裏路地で怪しげな商売をしたり、靴磨きや窓拭きで生計を立てているような危なっかしくもたくましい子どもたち。
 教会に行きたくない子はもしかすると事務所に呼んだりするのではないか、と冷や冷やしていたが、どうやらそこまではしなかったらしい。口々に「良いナターレを!」と言いながら駆けていく子どもたちに手を振って、ブチャラティは彼らが大通りに出るまでずっと目を離さなかった。
 見られていることに気づいていたのだろう、少しして振り向くとすぐにフーゴのほうへ視線を寄越した彼にどう反応したらよいか分からず、フーゴは少したじろいでから走り寄った。
「どうしたんです、こんなに早いなんて」
 腕時計を確認する。今ネアポリスに居るということは、ミラノに居られたのは三時間くらいのものではないだろうか。リストランテで食事をすればそれで終わってしまうような短い時間だ。
「フーゴ、任務はどうだった?」
「問題ありません。ナランチャにも伝言しましたよ。家にちゃんと帰ってるかはまあ、知りませんけど」
「よし。ご苦労だった」
 満足そうに頷いたブチャラティに、いやそうじゃあなくて、とフーゴが切り返すよりも先に彼は歩き出してしまった。事務所の方角だ。フーゴは逡巡して突っ立っていたけれども、ちらと振り向いて「とりあえず帰るぞ」と笑みがちに言われては、黙ってついて行くしかなかった。

「泣かせちまったんだ、母さんを」
 リビングにも入らずに、廊下の壁に軽く寄りかかってブチャラティはぽつりと言った。「え、」ドアの鍵を掛けていたフーゴは首だけで振り返ってその横顔を視界に捉え、一瞬反応に困った。それから弾かれるように彼のすぐ傍まで駆け寄って、つんのめるように停止した。ブチャラティは目を細めると、フーゴを見下ろしてすっと左手を持ち上げたものの、触れるでもなく、何をするでもなくそのままゆっくり下した。
「あの人が泣くとは思わなくてな、父さんのために……。もう過去として割り切っているとばかり思っていた」
 かたちの良い眉が幾ばくか歪んだ。
 彼の父親が息を引き取ってから、まだ二年も経っていない。フーゴを組織に引き入れた時点では、まだほんの数か月前まで彼の父親は病院で生命維持装置に繋がれていたのだと、のちに知った。
 ここから先は、つい昨夜に聞いた話だ。
 ブチャラティはずっと、母親には父親がそのような状態であることを告げていなかった。自分がギャング組織に入ったことも、何もうち明かしてはいなかった。母には平穏に幸せに生きてほしかったからだ。だから父が息を引き取った際、何からどのように告げるべきかを長いこと悩んでいた。年に一度、ナターレの時期にだけは母親と会っていたものの、去年は多忙もあってミラノへ行くことができなかった。ミラノとネアポリスは遠い。
 そうして時が過ぎてしまい、今年こそはと意を決して彼は今朝、ミラノへと向かった。ナターレのプレゼントと一緒に、母親にかつての夫の訃報を届けなければならなかった。だから昨夜、ブチャラティはプレゼントを見つめて物思いに沈んでいたのだ。
「……ブチャラティ」
 いましがたまで子どもたちを温かい目で見ていたのに、もうその両眼は自嘲めいた笑みのかたちに変わっている。しかし同時にどこか、拗ねたような、所在なさそうな様相も入り混じっているように見えた。フーゴは何を言ったらよいのか分からないまま、それでも彼のまなかいを目を凝らすように見ていた。どこともなくどこかを見つめずにはいられない心境というのは、少しだけ分かる気がした。
 ふとブチャラティがまぶたを閉じ、軽く首を振ってからコートの内ポケットを探った。そうして何か小さな包みを取り出すと、先程までの表情がまだ少し残っている笑顔でそれをフーゴに差し出してきた。フーゴはぽかんとして、ブチャラティの顔と包みとを交互にまじまじと見てしまった。
「すまん、あまり選んでいる時間が無くてな」
「これは……」
「なにってお前、プレゼントだ。ナターレだろう」
 Buon Natale.
 囁くような声に、喉元が熱くなった。
 持ち上げた両手にその包みが乗せられても、体の感覚が無くなったようになり感触も重みもよく分からない。急に息苦しくなった。沸騰した湯の底からめくるめく浮かび上がるあぶくが自分の中でも発生したような、そういった心象だ。
「こ、こんなモノ買ってる場合じゃ、なかったでしょう」 
「あぁいや、母さんとは食事をしてすぐに別れたから、時間はあったんだ」
「っ……」
 顔を見ていられなくなり、思わずうつむいた。
 包みを自分の胸に押し付ける。シルクを模した生地が、わずかな光を集めてほろりと輝いた。脳の片隅では、アパルトマンの自分の部屋にある、一か月も前から用意していたプレゼントの存在を思ったけれども、思考とはまるで異なる回路を伝って言葉は紡ぎだされた。
「もう、会わないつもりですか」
「……ああ」
 自分は何を言ってるんだろうか。
「名前」
「……なんだって?」
「あなたの名前……呼んでもらいましたか」
 ほんとうに何を言っているのだろう。
 うつむいたまま、声ばかりが止まらない。額のあたりにブチャラティの訝しげな視線を感じるのに、顔も上げない自分はひどく卑怯だと思った。
「ブチャラティ、呼んでもらいましたか、ブローノって……たくさん呼んでもらいましたか」
 ほとんど抑揚のない声は我ながら奇妙だった。
 ブチャラティが小さく息を飲んだ気がした。
 きっとこの人はもう母親と会わないのだろうと感じた時、思い起こされたのは祖母が死んだ日のことだ。家族の中で自分を唯一可愛がってくれていた祖母。もう彼女がしゃがれた優しい声で自分を呼ぶことはないと知った瞬間、すとんとどこかへ落ちたような気分になった。驚くほどに何も感じなかった。心の真ん中に在ったものの喪失を前にして、人とはこんなふうになるのかと初めて実感した。
「フーゴ」
 首の後ろに、ブチャラティの指が触れた。抱きしめたのと、抱きしめられたのと、どちらが先なのかは分からなかった。ほのかに女性の香水と、冬のにおいがする。コートの冷たさに飲まれながら、自分よりずっと広い背に回した腕に、力を込めた。
「すみません」
「どうして謝るんだ?」
 耳元で聞こえた声にゆるゆると首を振り、フーゴはほとんど真顔のまま、眉根を寄せてから目をきつく瞑った。ブチャラティの長い指が、自分の髪を丁寧に梳いているのが感触で分かった。フーゴの困惑を分かっていて、それをかきまぜることなく静かに抱き込んでくれているのだろう。
 抱きしめたいのはこっちなんだ、と唇を引き結んで顔を上げる。黒々とした瞳がすぐ上にあった。彼もまたどこかしら戸惑ったような、はにかみがちの、この言い方を許されるならば、子どもっぽい顔をしていた。思ったよりも余裕のある顔をしていないことに、瞠目する。そうしてフーゴは、息も吸わずに喋りだしていた。
「っあなたに、プレゼントがあるんです」
「ほう、そいつは楽しみだ」
「あと、パネットーネもありますよ。時計屋の旦那さんが持ってきてくれたんです」
「ああ」
「近いうちにナランチャと、リストランテに行きましょう。あいつ行きたい店があるらしくて」
「そうか」
 ブチャラティはフーゴを腕に抱いたまま、ひとつひとつ頷いて返事を寄越した。今ここで話す必要のまったく無いことまで次々に口をついたが、何故かこうしなければいけないような衝動に駆られていた。こうしてこの人と、他愛もない話をしなければならないと感じていた。
 しばらくしてフーゴが喋るのをやめると、ブチャラティの黒々とした瞳は何かを言いたげにじっとフーゴを見つめていたが、ついに何も言葉を紡ぐことなく、小さく息を吐き出しながら自然な流れで視線を窓際へと移した。
 その視線を追う。
 閉じたブラインドの向こうには、色のまだらになった茶色の壁があり、そこをずっと伝っていくと表通りに出て、イルミネーションがきらきらしく明滅している。家々のドアにはリースが飾られ、温かい室内ではナターレの夕食を囲む家族が楽しげに笑いあっている。そういう光景がまなうらに浮かんでは消えた。
 クリスマス・イヴを普段を何の変わりもない、薄暗くて寒い事務所でブチャラティと過ごしているという現実が、ものがなしく嬉しかった。切り立った崖の上に居るような、よんどころない高揚が胸の奥にあった。本当に、ふたりきりだと思った。
「ここにお前が居てよかった、フーゴ」
「僕も、僕だって……ブチャラティ……」
 温かい抱擁とふやけるような追想に浸りながら、フーゴはくしゃりと笑みになりきらない笑みで頷いた。頬がひとりでにほころび、唇がむずむずと震えていた。そうしながらも、わずかに眉間に皺を残していた。それは下手くそで不格好な、だが真実の笑顔だった。
 唇の端にキスをする。一度離れてから、もう一度確かめるように口づけると、互いの息遣いが混じる気配に背筋がぞくりとした。ブチャラティの澄んだ黒曜石のような瞳に、自分が写っているのが見えた。
 ココアでも淹れましょうか。しばしののちに背伸びをしたまま呟くと、そうだな、とくつくつ笑って、ブチャラティはフーゴを腕からそっと放した。

 遠くで教会の鐘が鳴っている。
 ナターレが幕を開けようとしていた。













Natale con i tuoi e Pasqua con chi vuoi.
(クリスマスは家族と、復活祭はお好きな人と)
                 /イタリアの諺