そこにはただ、見果てぬ地平だけがあった。

 始まりはずいぶんと煩雑としていたように思う。それでいて己の周りには、寂しい感覚めいたものが常につきまとっていた。
焼け落ちた家屋、色褪せた雑踏、学び舎、汽笛を鳴らす蒸気機関車、きらめく潮騒の海、なにもかも懸隔たる異国、およそ数知れぬほどに移り住んだ居宅のおりおりの窓辺、そこに集う若者たち、おぼろな輪郭を宿す家族、それから生涯の友人たち――
長い長い道のりをゆくあいだ、常に見えているのは広くあてどもない草原のような風景であり、まどらかに横たわる地平線であり、不思議に美しいオーロラを揺らめかせた空と星々であった。それらの中に現れては過ぎ去る往年の光景、懐かしい人々を見送っては、またひとり静かに歩いていく。あまりにも長く感ぜられるその道行きの中では、ひとたび浮かび上がってはすぐに遠ざかってゆく景色や人影はまるで夏の日の陽炎であった。音も手触りもにおいも感情も、すべては生々しく蘇る。だからこそもう永遠に交わることの叶わないそれらを見送ることは、ひたすらに胸のうちを寂漠とさせるのだった。
 どれくらい歩いた頃だったか、もう誰も何も現れなくなって久しくなったとぼんやり思っていたところに、ぽつりぽつりと人影が見え始めた。自分のすぐ近くに佇む者もいれば、ずいぶん遠くで幾人かが談笑しているような姿も見えた。面識のない人物もいたが知った顔ぶれもちらほらとあり、おやあそこの彼とは会ったことがある、あちらの彼は旧来の友であった、などと嬉しいような奇妙な心地になっていると、やがてひとりの男の後姿が見えてきた。その為人を示すごとく、糊を張ったように正された背中だった。初めはそれが誰であるのか分からなかったが、彼がこちらを振り返ろうとして、はっと気が付いた。

 嗚呼、あの人は――

 浮遊感に意識がゆらいだ。
 まばたきをすると、顔にかかっていた影がすっと遠ざかった気配がした。白いカーテン越しに振ってくる光がいささか眩しいものの、すぐに目は慣れ、ゆっくりと視線を巡らせる。もう何度も覚えのある光景。補修室のベッドで目を覚ましたのだと悟った。
「漱石殿」
 伺うような呼びかけに首を巡らせる。
「……森さん」
 やや掠れてしまったが、そう答えると傍らにいた軍医は目に見えてほっとした顔をした。自らの腕から伸びている点滴の先で、やや青みがかった洋墨がひとしずく落ちるのを視界の端で捉えながら、また心配をかけてしまったと夏目は表情を曇らせた。曇らせながらも、森の様子につられるように薄くほほ笑んだ。
彼はしっかりと白衣に腕を通している。
「もう大丈夫か」
「ええ、私はまた喪失を?」
「そうだな。今回は大分酷かった。だが俺のことが分かるならもう心配いらないだろう……よかった」
 手袋を外した手のひらが遠慮がちに夏目の額から頬にかけてを撫で、静かに離れていった。それを内心で寂しく思いながら、長いまばたきをするふりをして目を瞑る。喪失中のことはよく覚えていなかった。いつもというわけではないが、喪失すると記憶がおぼろに飛んでしまっていることが夏目にはたびたびあった。
「すみません」
「謝らなくていい。喪失は誰にでも起こることだ」
 医者らしい口調だった。その言葉には二重の意味で説得力があり、夏目は苦笑するように顔をほころばせる。
森も以前は喪失中に不安定な様子を見せ、夏目を心配させることが何度もあったのだ。今では落ち着いているようだったが、また何かのきっかけで不調を起こす可能性はある。侵蝕の深さによってさまざまな異変をきたすことは、転生体である文士たちにとって宿命と言ってよい。
 夏目の脈を取ったり侵蝕からの回復具合を調べていた森は、しばらくして夏目の手をとって握り、「これならばあと一時間も休めば全快するだろう」と安堵したふうに微笑した。ありがとうございます、と返しつつ、膝をついて手を握られている今の格好が気恥ずかしくなり、夏目は途端に赤面して目をそらした。本人は無自覚かもしれないが、森の表情には彼の素の温かさ、優しさがありありと滲んでいた。
 懇ろになってからこれまで、恋仲として一通りのことは済ませたように思う。しかし夏目にとって森とこのように触れ合うというのは、いつまで経っても心音をうるさくさせる一因となりえた。それは夏目が彼をひとりの人間として、また文人として慕い畏敬を抱いているためでもあったし、同様に森もまた夏目に対して敬意と尊重の念をもって接し続けているためでもある。決して息詰まる関係ではなく、そういったありかたが互いに心地よかった。改めて尋ねたことはないが、それは確かだった。
 若者のように熱く求めあうことは少ないが、夏目はこの関係に満足している。次の桜が見られるかも分からないし、絶筆のおそれも付きまとっている、先の見えない不安はあれども、それはここに転生した者すべてが持つ定めであると享受していた。
ただ、森に関しては気がかりもあった。この一抹のひっかかりというものは、夏目にとってもまた負い目が無いわけではない事柄であるから本人に伝えたことはないのだったが。
(これは単なるわがままだ、私の)
 森は、夏目に対する自らの情のたぐいを言葉にすることが極端に少なかった。生まれた時代も手伝っているのであろうし、立場を考えてのことでもあるのだろう。態度に現れることは多かったため夏目も初めは気にすることもなかったが、この時代に毒されたとでも言おうか、女々しくなったのか、ふとした瞬間に言葉が欲しくなるのだ。そうかといって、ねだるような真似や、自分から臆面もなく愛情を伝えるようなことはできなかった。相手が外ならぬ森鴎外であるという事実を除いても、彼よりも年嵩の外見である自分が幼稚な駄々めいたことを言うのは憚られた。
 夏目は森の後頭部に流した髪を整えるように撫でてから、
「林太郎先生、ありがとうございました」
 と改めて礼を述べほほ笑んだ。森ははにかむように目を細めた。その表情に愛おしさを覚え、また同時に、私はなんて業突く張りなのであろうかと切ないような滑稽なような心地になった。


 真夜中である。
 一通りの仕事がようやっと終わり、森は肩にかけていた白衣を畳んで椅子の背にかけると、医務室の南にある窓を開けて空を見上げた。昼間晴れていた空には今でも雲の影すらなく、冬の星座を散りばめた夜空にのぼってゆく自らの白い息は視界によく映えた。これから真冬に向けて、空気はようようと澄んでゆく。
 新鮮な風を胸に満たしながら、昼間の夏目の様子について思い起こす。夏目はこれまでも喪失するとふらふらとどこかへ行こうとすることがあったのだが、今回は森が目を離している隙に建物外にまで出てしまい、あろうことか庭の池の中に入ろうとしていたのだ。慌てて連れ戻したものの、もし遅れていたらと思うとぞっとする。おそらくは著作に由来する行動であった。転生体に通常の生命と同じ死が訪れるのかは定かでないけれども、夏目にそのような行為をさせてしまうということは医者として、また森個人として許せなかった。ゆえに森は、これから夏目が喪失した際には可能な限り調速機を使うよう心に決めたのだった。
 喪失時の夏目の様子は、これまでもずっと気にかかっていた。意識が朦朧とする、普段とは別人のようになる、悲観的な心境に陥るといった症状は他の文士にも見られたが、夏目はこの範囲には収まらない独特の言動をすることがしばしばあった。
(俺はどこまでも森林太郎、森鴎外だ。しかしあの人は……)
 喪失した際の夏目を初めて目の当たりにした時、すぐにこれは夏目自身の意思とは異なる力が働いた結果なのだろうと分かった。苦しげに吐き出される言葉のひとつひとつは、森ならずとも帝國図書館に居る者であれば多くがよく知るものであったからだ。彼の有名な著作の台詞を、喪失した夏目は口にしているのだった。喪失中の行動も、その理屈にかなっていた。
 侵蝕のあるなしに関わらず、日頃からどこかあやういところのある夏目を森は気づかわしく観察していた。懐が広く面倒見の良い一方で、決定的なところでは他者を寄せ付けない部分が彼にはあった。それは森であっても例外ではないのではないかと思っている。森は生前の彼を良く知っているわけではないが、著書はくまなく読み彼については常に意識を向けていた。そうした上で思うのは、彼のあやうさとは著書が魂の深くまで根差しているのが一因となって生じているのではないかということであった。
(あれほどまでに己の著作に飲まれる者は、少ない)
 ずいぶんと冷えてしまった室内の空気にはたと気がつき、森は肩を縮ませながら手早く窓を閉めた。濃臙脂の遮光カーテンを引く、その刹那に暗い窓に映った己の顔がなにかこちらを責め立てているように感じ、すぐにきびすを返し窓から離れた。
『覚悟なら、ないこともないのですが』
 ――あなたの覚悟とはなんだ。
 元となった台詞にはいくつかの解釈が存在するが、あまり気持ちのよい場面で使われてはいない。夏目がその台詞を口にした登場人物と同じ心情であるわけではないだろう、かといって、何の意味もなく出てきた著作からの引用とも考えられない。何かしら夏目本人とのシンパシーがあるために出てきたものと捉えるのが妥当ではないかと、かねてより森は考えていた。
しかし肝心の夏目の心情は、いくら思案を重ねたところで分からないままであった。


 季節は冬本番を迎えていた。
 窓外に広がる景色はすっかり緑の減ったものさみしい風情になっていたが、常緑の木々とそこに色づいた花の鮮やかさはひときわ目立ち、早咲きの水栓や椿などが吹き始めた寒風にさらされて清廉に花弁を広げるさまは美しかった。
 艶のある葉に目をやる。もうしばらくすれば南天の実も膨らむだろうか、と意識の隅で期待にも似た思いをめぐらせながら、森は向かいの席に座る男たちに視線を移した。
「あっ夏目、お前また俺の分まで食っただろ! ったく菓子のことになるとどうしてそうがめついんだか」
「がめついとは失礼だね……正岡はさっき僕の蜜柑をばくばく食べていたんだからいいじゃないか、お相子だよ」
「お前が食わないと思ってだなあ」
 食堂のテーブルを挟んで向かいに座る二人のやりとりは、まるで年若い学生のようだった。実際それくらいの気安さでいるのだろう。正岡はおおよそ誰に対しても気さくで親しげに接するが、夏目にはいっとう遠慮なく素の顔を見せている。夏目のほうはさらに顕著だった。普段の紳士然とした丁寧な口調も崩れ、どこか気負っているふうなたたずまいも影を忍ばせ、親友である正岡には気兼ねなく軽快な態度を見せていることは、誰から見ても分かりやすかった。
 こうした二人の様子を眺めているのが、森は好きだった。
「森さんも言ってやってくださいよ、俺はべーすぼーるや走り込みで体を動かしていますけど、こいつは明らかに運動不足なのに食い過ぎじゃないですかね?」
「ちょ、ちょっと正岡、森さんを味方につけようとしないでくれないか」
 それに潜書中はしっかり働いているじゃないか、と焦った顔で正岡の口を塞ごうとしている夏目がちらちらと自分のほうを見てくるので、森は思わず噴き出した。「一緒にジョギングでもしたらどうだね」と冗談交じりに言ってやると、分かりやすく顔を引きつらせている。こんなに寒いのに走るなんてとんでもない、と顔中で訴えてくる夏目をよそに、それはいいと乗り気になっている正岡の元気な笑い声が昼下がりの食堂に響いた。
 三人の予定が合うとこうして食堂に集まって茶を飲むようになってから、もうずいぶんと経つ。饅頭や汁粉、季節の果物、その他にも誰かが買ってきた菓子を皆で食べるのも楽しみのひとつだった。何気ない日常の出来事、正岡を中心とした俳句談義や文学についての闊達な論議、またこの時代の目新しい文芸などさまざまなものについて、ときに熱くときに愉快に言葉を交わすのは誰にとっても有意義なもので、多忙な森もできる限り時間を作るように努めるようになっていた。
 しかし今日は、幾ばくか興じきれないわけがあった。もうすぐ夏目の忌日がやってくるのだ。忌日が近付くと、大抵の文士は調子が崩れやすくなる。生前の死を魂が覚えているのだろう。
 こうして楽しげに歓談している夏目であっても、日頃と比べればどこか陰りがあるように映る。ゆえに森は常にも増して、注意深く彼を見ているよう心がけていた。これは医師としてよりも個人として――情を通わせる者としての行動であった。
「おや、君たちもお茶ですか」
 その夏目の声に顔を上げると、芥川、菊池、堀がこちらへ歩いてくるのが見えた。遠慮がちに様子を窺っていたようだったが、声をかけてもらえたことで安堵したのか皆の歩調が速くなった。
「すみません、先生方のお邪魔をしてしまって」
「構いませんよ。むしろちょうど良かった、正岡と森さんにひどい仕打ちを受けそうになっていたのです」
「……ええと、」
 困惑したように視線を向けてくる芥川に、森は肩を竦めて苦笑してやる。「あーこいつの言うことは気にしなくていいぞ」と手をひらひら振る正岡の声に続いて「冗談ですよ」と夏目が笑い、ようやく若者たちも顔に笑みを浮かべた。
「先生、この次にお部屋に伺う時にたっちゃ……堀君も一緒に連れていきたいのです」
「ええ、もちろん歓迎しますよ。いらっしゃい」
 にこにこと頷く夏目に、堀はぱっと目を輝かせてありがとうございますと頭を下げた。彼は芥川に師事していたから、その芥川が慕う夏目の開く集まりにも関心があるのだろう。別段夏目が人を集めようとしているわけではないらしいが、こうやって次第に人が増えてゆくあたりに彼の人望が表れている。
「あの、もしよろしければ、お二人にもお話をお聞きしてみたいのですが……」
 不意に視線を向けられ、一寸黙ってまばたきをする。
「へえ、俺たちも誘ってくれるのか」
 正岡が嬉しげに言うと、恐縮したふうに手のひらを見せて「誘うなんて」と芥川は眉を下げた。その後を引き継ぐように、菊池が笑みを浮かべて前へ出た。気安そうな、人好きのする顔をしている。芥川とは逆の気質を持った男だ。
「俺たちはお二方とはあまりお話したことがないですから、ぜひ色々お聞かせいただけないかって前から思っていたんですよ」
「いやぁでもなあ、木曜会の邪魔はできんよ。俺の会みたいになったら夏目に何て言われるかわかったもんじゃない」
「大した自信だねえ……まあいいじゃないか、たまには来てくれよ。龍之介君たちもこう言っているのですし」
 半分呆れたような顔をしてから、夏目は教師らしい面差しになって促した。芥川たちの希望を叶えてやりたい気持ちもあろうし、彼自身が正岡に来てもらいたい思いもあるのだろう。「それじゃあ大いに語らせてもらうぞ!」と歯を見せて笑う正岡に、嬉しそうに頷いている。森としても正岡の弁説を聞くのは好きであったから、素直にこれは良い機会を得たと目元を緩ませた。
「森さんも、ぜひ」
 緩やかに移ろった夏目の眼差しを受け、森はふっと短く息をついた。見る者が見れば微笑ともとれる仕草だった。貴方は断らないでしょうという信頼めいた感情を夏目の瞳から感じ取り、愉快な心地になったのだ。
「では菓子でも持っていくとしようか」
 答えると、若い三人はほっとしたように顔をほころばせた。
 次の集まりについて日取りなどを確認すると、芥川たちは潜書があるからと言って食堂を後にした。
彼らを見送ってから「楽しみですね」とにこやかにしている夏目の様子を見て、森は内心で胸を撫でおろしていた。気鬱になりがちな今の夏目にとって、そして森にとってみても、今日の約束は喜ばしいものに違いなかった。


 その数日後、夏目が行方不明になった。
 彼の著書への潜書中のことであった。
 侵蝕者と交戦しているうちに会派は互いに離れ離れになり、気がついた時には彼だけが姿を消していた。浄化され、崩壊した様相から元のありようへと回帰してゆく景色のどこを見回しても見つからない。書物の世界は広いとはいえ、構造上ひとつ時の流れを超えるには霧のような空間を潜り抜けなければならなかったし、より禍々しい侵蝕者が蔓延る深部へたった一人で進んで行けるほど彼は強くないはずなのだ。それにも拘らず、誰も夏目の行方を知らなかった。
 残された会派の面々は、来た道を引き返しながら夏目を探し回った。木々の生い茂る樹林や入り組んだ小路、がやがやと人でごった返す雑踏、並び立つ人家の中までも、立ち入れる場所はくまなく浚うようにして探した。しかし、やはり見つからなかった。
 幾度となく司書が帰還命令を出しても、反応すらない。
 これは異常事態だった。
 ――戻ってください。このまま探しても埒が明かない。
 その司書の呼びかけを聞き、夏目と共に潜書していた森は糸が切れたように片膝をついた。気づかぬうちに随分と疲労が溜まっていたようだった。会派の三人は一度図書館に戻り、全員の補修と回復が済むのを待って再び探しに潜ることにした。
「やはり、漱石殿は外すべきだったのではないか」
「こればかりは、潜書してみないことには分かりません。ご自分の著書に入っても影響を受けない方のほうが多いのですから。――ですが、夏目先生は少し、例外だったのかもしれません」
 ゆっくりと、言葉を選ぶように司書は答えた。その最後の一言に苦いものを飲み込んだような顔をした森は、頷くでもかぶりを振るでもなく小さく唸ると、調速機がきりきりと動くのをもどかしく見つめた。例外、という響きには心当たりが少なからずある。内臓が冷水に沈んでゆくようにひやりとしていた。
 二度目の潜書は同じ会派で行うことになった。夏目の代わりを任されたのは芥川であった。彼は師の行方が知れぬということでずいぶんと取り乱したが、落ち着いた今では真剣な面持ちで刀を握り、不穏な空気揺らめく有碍書のさなかへと降りて行った。
 侵された書物は、特有の淀んだ空気に満ちている。
 未だに浄化されきれずにいるため、先刻浄化したはずの領域にはもう侵蝕者たちが戻ってきている。緑豊かな田園や、そこからひとつ層を超えた活気ある都会の風景まで、どこを見てもいびつな文字の欠片、あるいは景色が消失したために生まれた空白が蔓延っており、浮遊した文字の成れの果ては虚空に舞い上がってはわんわんと羽虫のような不快な音を立てていた。
肌に纏わりつく陰鬱な気配は侵蝕者のものだ。
 夏目が姿を消した有碍書について、森は重苦しい心持ちで思案していた。非常に侵蝕度の深いあの本は、夏目よりも後世の文人であれば大抵は知っている、それほどに著名であり、夏目の代表作に必ず挙げられる小説が収められている。そして夏目が喪失時に口にする言葉は、この作品の台詞なのである。
(警戒してしかるべきだったのだ)
 自分の著書に潜る際には気を付けなければいけないと、誰もが重々承知していた。作品世界の構造を良く知るという意味では利点もあるが、場合によってはシンクロニシティが強すぎるゆえに侵蝕を受けやすくなるからだ。今の会派は森、正岡、芥川、小泉、控えに菊池と久米が待機している。おそらくはこの全員が、自著に潜って酷い目にあった経験があった。
「夏目先生! どこですか!」
「返事をしてくれ! 漱石殿!」
 二手に分かれて侵蝕者を浄化しながら、どこに居るとも知れない探し人の名を呼び続ける。
 しかしいくら声を張り上げようが、道行く者たちが迷惑そうに視線をよこしては通り過ぎてゆくだけだった。侵蝕者を認知することのできない作品世界の住人達にとって潜書した文士がどう見えているのか、普段はさほど考えたことがなかったけれども、今ばかりは彼らの余所余所しさに腹が立った。
(この世界を生み出したのは他でもない、彼であるというのに)

 どれほど探し続けただろうか。
 また侵蝕と疲労で逃げ帰る羽目になるのかという、やりきれない思いが森の胸によぎった頃だった。
「――森先生! こちらです!」
 見つけたのは芥川だった。
 町の中心部からしばらく歩いた下町風の住宅街、その奥へ奥へと入り、細い小路を駆けてゆくと、書生風の格好をして歩いている男が二人歩いているのが見えた。
「漱石殿!」
 見覚えのある後姿に思わず声をかける。だが驚いたように振り返った顔は、森たちの知る夏目のものとは異なっていた。面影はあるが髭も皺もない若者で、面相も別人と入り混じっているような奇妙さを感じさせる。生前の夏目の顔が反映されているのかとも思ったが、少し遅れて走ってきた正岡が怪訝そうな反応をしているところからして、これも違うのだろう。
 しかし、魂の気配は確かに夏目のそれである。だからこそ芥川もこの青年が夏目であると確信できたのだ。
「お、おいお前、夏目だろう。どうしたんだよ!」
 正岡の問いかけに、青年はたじろいで後ずさった。
「私は■■■ですが、人違いでは」
 声は夏目のものに近い。ただ幾分か若いという程度だろうか。彼が名乗ったのは聞き覚えのない名前だった。
 訝しげにこちらを見てくる青年の瞳と、それ以上に警戒をあらわにしている傍らの男。今しがた聞いた名前には覚えがなかったが、彼らには心当たりがあった。二人の姿を寸刻黙って観察していた森は、やがてひとつの可能性にたどり着いた。
(漱石殿はこの小説に取り込まれたのではないか)
 うすら寒い心地になる。
 もとより忌日が近く不調であったところに、更に耗弱した魂と侵蝕された本が化学反応を起こしたのか、あるいはこの作品が彼にとってやはり特別な意味を持っているためなのか、理由は定かではないが、そう考えれば今の状況はある程度は理解できる。
 夏目は今、この小説の登場人物と同化しているのだ。
「おい!」
 正岡が焦れたように声をかけようとしたところで、また侵蝕者が現れた。和紙が燃えるように空間が黒ずみ、文字の集合体となり、やがてその文字も形を保てずに崩れてゆく。作品の住人たちは侵蝕者に気づくこともできず、その侵蝕の餌食になり跡形もなくなってゆく。幾度も見てきたとは言えども、決して慣れることのないおぞましい、そして憤りが湧き出る光景であった。
「皆、いくぞ!」
 否応なく武器を構えると、各々がわきまえたように攻撃を仕掛けだした。洋墨が飛び散り、侵蝕者の痛ましい叫びと断末魔が天空まで響き渡る。侵蝕によって分断されたあちら側で遠ざかる書生たちは、このことに気づかない。もう文士たちのことも認識できない距離に行ってしまったようだった。
 遠ざかりゆく背中を戦闘のはざまで垣間見ているうち、森は圧し潰されるような心地になった。
 ――彼とはもう、会えないのではないか。
 ヒュッと息を吸う音がした。
「お前! また俺と別れ別れになるつもりか!」
「! 正岡殿!」
 つぶさに身を翻すと、森は侵蝕者の群れのあちら側へ突っ込んで行きそうな正岡を引き戻し、抑えながら、槍で侵蝕者を薙ぎ続けた。「これ以上は無理デス、鞭も届きません!」小泉が風を切りながら苦しげに腕を振るいそう叫ぶのと、芥川が耗弱したのがほとんど同時であった。森はくっと歯噛みをすると一寸俯いたが、すぐに頤を上げ司書に撤退の合図を送った。
「すまない、必ず助けに戻る」
 その声が音を成していたのか、定かではない。
 自分よりも侵蝕の酷い芥川に肩を貸しながら、現実世界へと急速に浮上してゆく。皆ボロボロになっていた。
 酷く疲れていたが、それ以上に悔しかった。そうしてこんな時に、否こういう事態だからこそなのであろう、思い知ったのは夏目と正岡の絆の深さであった。森はあの時、正岡の勢いに押されて叫ぶことができなかった。我を忘れるほど悲痛になれる、彼らの友情を素直に羨ましいと思った。


 図書館に戻ってきた一同を覆ったのは、沈鬱な空気と泥のような眠りであった。押し込むように栄養を補給すると、まず芥川を、次いで正岡と小泉を寝台に入れてから森は自らの腕に点滴の針を刺した。司書は館長と話しをしてから来ると言っていたから、補修室には自分たちしか居ない。柱時計が時を刻む音の合間に正岡のうなされる声をかすかに聞きながら、寝台に腰かけて頭を垂れた。目を瞑れば意識を失いそうだった。
 夏目を置いてこなければならなかったやるせなさと苛立ちが、渦を巻いて己の中心で騒ぎ立てている。遠い昔に異国に置いてきた少女のことを思い出した。もう口にするまいと決めていた名前を唇に乗せていることにも気づかぬまま、森は静かに身を横たえ深い眠りに落ちていった。

 夜が明けると、体の疲れは嘘のように消えていた。あれほど満身創痍であったにも関わらず傷はひとつも残らず、髪や衣服に至るまで全てが修復された己の姿を鏡に映すたび、これは生身ではない創造物であるのだと実感する。補修の後はいつもそのような複雑な心持ちになるのだが、急を要する今のような事態には錬成体は実に便利なものだと思った。
 陽が鋭角に差し込む広い廊下を進んでゆく。
帝國図書館全体が、常とは異なる緊迫した空気を孕んでいるように感じられた。転生した文士が著書に取り込まれるというのは初めての事例であったし、それがかの夏目漱石だというから誰しも動揺しているのだろう。
 司書は帰還した森の報告を聞いた時、「あの本を守ろうとする夏目先生の意思かもしれません」と眉を寄せて述べた。それは決して的外れな推察ではないように思える。いつかこういうことが起こるかもしれないと、森は胸のどこかで危惧していたのだ。
 夏目の声が脳裏に浮かぶ。常とは異なる多を拒絶するような声で、彼が喪失のさなかに口にする覚悟とは一体何なのか、今でも解らないままだった。
「すまない、待たせてしまったかな」
「ううん。ごんとお話ししてたから平気だよ」
「それはよかった」
 膝を折り、少年と目線を合わせる。医務室の前で壁に背を預けて立っていた新見は、森に声をかけられると大きな目をくるりと向けて笑った。狐のぬいぐるみが彼の手によってぴこぴこと可愛らしく動いている。その仕草にほほ笑ましくなり、森は強張っていた表情がいくらか和らぐのを自覚した。
 新見に話を聞きたいと頼んだのは数時間前、朝食を終えたほんのわずかな空き時間だった。
 あの子は図書館に居る文士の中でも著作の影響を強く受けている部類であるように見える、特に侵蝕を受けた際に見せる言動は夏目のそれとどこか似通っている――そう思い当たった時、どうしてか分からないが彼と話をしなければならないと思ったのだ。
 新見はもう夏目の一件については司書から聞かされていたし、森の顔を見てすぐになにごとか悟ったのか、不思議そうなそぶりも見せずにいいよと頷いてくれた。空色の瞳は普段のいたずら好きな子どものそれでありながらも、森の心情を見透かしているかのようにどこまでも澄んでいた。
「どんな、心地なのだろうか。君も喪失時に著作の台詞を口にしていたことがあったので、尋ねてみたかったんだ。答えにくいならば言わなくていい、ただもしかすると夏目殿を救い出す手掛かりになるかもしれない。教えてくれないか?」
 森が言葉を選びながら訪ねると、新見は首をこてんと横に傾けてしばらく考えているようだった。危惧したような拒絶はされずに済んだと、まずは安堵する。
「うーん、よくわからないけど……」
 一度口をつぐんでまた思案し、ゆっくりと確かめるように彼は唇を開いた。穏やかな目元がふっと細められ、恐ろしいほどに透き通るまなこが光を湛えてきらきらと瞬いた。
「真っ暗な世界で、僕の中で誰かが泣いているの。それが分かるとね……とっても悲しくて、さびしくて、」
 はっと目を見開くと、森は新見の顔を凝視した。
「いとおしい気持ちになるんだよ」



 *



 ひたすらに終わらぬ時を繰り返している。
 気がついた時にはもう、夏目は夏目漱石という男ではなくなっていた。見知らぬ名前の、見知らぬ、けれどもかすかに己の面影もある奇妙な顔の大学生として、明治の世を生きていた。
 戦闘中に他の皆とはぐれた後の記憶は曖昧だった。これは侵蝕者の仕業であるのか、あるいは自分が錬成された存在であるために偶然起きた事態であるのかは判然としなかった。ひとつはっきりとしていたのは、自分がもはや夏目漱石としてものを言ったり動いたりすることはできない状況に置かれているということであった。学生――この小説の語り手の一人である青年、その精神の中に眠るように沈んでいる夏目の意識は時おり覚醒することはあるが、体は少しも言うことを聞かなかった。
 青年が友人や下宿の母娘などと過ごしてゆく日常を、ただただその目を、耳を、肌を通してなぞってゆくことしかできない。それは夏目にとってひどくもどかしかった。正岡や森たちはどうしているだろうか、帝國図書館に早く戻らなければならない、という思いばかりが募ってゆく。そうしてその一方で、この世界を生み出したのは私であるのだという生々しい違和感を、覚醒中は常に感じていなければならなかった。
「あなた、顔色が悪いですよ。どうかなさったの」
 ある日の夕餉の最中、そう言って下宿の婦人が声をかけてきた。青年がはっとして周囲を見回すのを内側から見ていた夏目は、共に下宿している友人や下宿の娘がこちらを見ている、そのまなざしのあまりに有機物めいていることに途方に暮れそうになった。嗚呼こんなにも彼らは生きているのだと、わけもなく叫びだしたい衝動にかられた。しかしやはり夏目の意志はひとかけらも青年の体を動かすことはなく、ただ少し恐縮したような声で「なんでもありません」と喉の奥から若い声が吐き出される振動を、感じ取ることしかできなかった。
 そうした日々の中でも、夏目には己を見失わないたづきがあった。町中や大学の構内、なにげない風景の中で不意に侵蝕者が蠢くのである。看板や街路樹、名もなき通行人、家々の戸など、奴らが通った後は虫食いに遭ったように侵蝕され崩れ落ち、酷い場合には消失してしまっている。そのことに、小説の登場人物たちは気づかない。明らかな異常がすぐ脇にあっても、知覚することができないのだ。夏目だけがただひとり、青年の目や肌を通して侵蝕者とその被害を知ることができる。皮肉にもそれこそが、己が異質であることを夏目に知らしめていた。
 この世界で幾度の夜を越したのか、もう覚えていない。相変わらず眠りと覚醒を不定期に繰り返している夏目の意識は、時の流れというものをうまく掴めなくなっていた。
 青年の中で共に過ごしているうち、次第に夏目の胸には、登場人物たちに対して申し訳ないような気持ちが生じ始めていた。
己の著作を己と同軸に生きる存在として捉えたことは、これまでになかった。己の体験を小説に落とし込むことはあってもだ。しかし今は、まぎれもなく自分は彼らと同じ時空を生きているのだと認識してしまっている。その自覚の上に立った時、もしかするとこの小説は無くなったほうがよいのではないか、そのほうが彼らのためなのではないかという思いが胸によぎるのだ。
この小説は決して滑稽愉快な結末を迎えはしない。登場人物は誰しもが悲痛と挫折を経験し、鋭く容赦のない人間世界の深淵へと突き進んでゆく。青年は友人を裏切ってしまい、その後悔を抱えて生き、やがてその生にも耐えられなくなる。
 作家のエゴによって苦悩を強いられる登場人物たちへの憐憫を、夏目は確かに感じていた。生前この作品を生み出した時期の己を述懐するのは意味のないことであるが、もし今からでもこの本の結末を変えられるのならば自分はどうするのだろうかと、考えずにはいられなかった。
 正岡のことを思い出す。芥川のことを思い出す。森のことを思い出す。転生して出会った者たちの顔が次々に蘇った。浮かぶ彼らの面影に懐かしさと泣きたいような息苦しさを魂で感じながら、もし青年の意識の一端でも動かすことが叶うのならば、決して友を裏切らずにいたいとそれだけを強く念じた。

 大学の帰りに侵蝕者が現れた時、夏目の意識が浮上していたのはほんの偶然であった。やはり彼らの姿は夏目にしか見えていなかった。友人は近くに居ない。分かっているのは、下宿には婦人とその娘が居るはずであるということだった。
この場所から下宿へはそう遠くない。
 侵蝕者に気づけない青年の肉体の中でひたすらに逃げろ逃げろと声なき声をあげるしかできない夏目の周囲で、風景や人々が次から次へと侵蝕され始めた。耳を塞ぎたくなる叫びをあげ、異形どもは黒い魔手を伸ばしている。町屋が物質のかたちを保てずに文字となり、それがざらざらと崩れていびつな破片になってゆく。すぐ近くを歩いていた少女は不調の獣が噛り付いた瞬間にもう黒く塗り潰され、弾けて、現れた無数の黒い文字の群れは風に乗って空へと巻き上げられてしまった。
おぞましさに吐き気がぐっとこみ上げた。
「やめろ! やめてくれ!」
 絞り出すような声がほとばしった。それが果たして本当に青年の喉を通して発せられた声であったのか、夏目の意識のみが聞いた自らの叫びであったのか、定かではない。

 ドスッ

 重い音が耳介を揺らした。青年の体では音のしたほうへ振り向くことはできなかったが、感覚的にそれが何の音であるのかは分かった。
「先生! 夏目先生っ! 今助けます!」
 藍の長髪が流水のように空を舞っている。普段のそれとは似ても似つかない、必死な芥川の声だった。侵蝕者を斬り伏してゆく姿は美しく、彼の文学に対する誠実なありかたが現れている。彼が真っ先に斬り込んできたということが、意外であり嬉しかった。そうだ私は君たちとの約束を反故にしたままだったね、と思い出した瞬間、パキン、と何かが弾けたように感じた。
「夏目! まだお前とべーすぼーるしてないんだからな! そんな所で寝てるなよ!」
「そうデスよ、ワタシの怪談も聞いてもらわねばデス!」
 遠距離から攻撃を仕掛けてきたのだろう、正岡と小泉の声が震える大気を伝って届いた。銃声が侵蝕者の影を散らし、鞭がそれを払い消す。喉元が熱くなる。応えたい、叫びたい、走り出して共に戦いたいという衝動が魂の中心から閃光のごとく放たれる。
 パキン、とまたひとつ弾けた。
 その時、青年の四肢から青白い光が煌々と溢れ出てくるのを夏目は見た。びくん、と腕が痙攣する。もしやと思い動かしてみると、夏目自身の意思で体を動かすことができた。弾かれたように顔を上げる。屋根の上で銃弾を放っていた正岡と目が合い、気がつくと駆け出していた。
「正岡! 僕だ!」
「ようやくお目覚めか!」
 嬉しそうに目を輝かせつつ、正岡は鋭く視線を移して銃撃を食らわせ続けている。夏目は眼前に現れた侵蝕者に行く手を阻まれ、それ以上正岡たちに近づくことができなくなった。巨大な侵蝕者のあちら側から「先生はそこに居てください!」と芥川が叫ぶ声が聞こえる。夏目は歯噛みしながら数歩後ずさると、未だに主人公の青年のままである自らの両手を見つめた。
「どうして元に戻らない……っ」
 その手のひらに、不意にどす黒い影が落ちた。
 いけないと思った瞬間にはもう、刃を振り上げて引きつった悲鳴を上げる侵蝕者が頭上に迫っていた。
「動くな!」
 咄嗟に逃げようと揺れた体が、びしりと固まる。怒気を含んだよく通る声がすぐそばで聞こえた。
 眼前に白い背が降り立った。
「あ、」
 その刹那になにごとかが脳裏にひらめいたように感じたが、つんざく苦悶の叫びと衝撃波が起こり、すぐに忘れてしまった。
 次にまばたきをした時には、槍の刃が深々と胸に刺さった侵蝕者がのたうち、断末魔の咆哮をあげて霧散してゆくのが見えた。洋墨が雨のように地面に流れ、侵蝕者を組成していた歯車が支えを失ってばらばらとその中に落ちる。やがて上空に巻き上げられていた文字が下りてくると、青い光となって消滅していた作品世界を修復していった。今の巨大な敵が侵蝕の根となっていたのだと、ここで夏目は気がついた。
「漱石殿、終わったぞ」
 視界に白衣がたなびいた。洋墨で汚れてはいるが、その白さは浄化されゆく世界でことさらに眩しく見える。「貴方がこの本を護ってくれたのですね」と未だに青年のままの声で言うと、森は眉根を寄せて困ったように笑った。そうしてかぶりを振ると、
「貴方がずっと護っていたのではないか」
 そういらえて夏目の肩に触れた。
「いいえ、私は何もできませんでした……それどころか、この世界はなくなってしまったほうがよいとさえ思ったのです」
「本当にそうならば、もうこの本は侵蝕されつくしていただろう。貴方が居たから今まで持ち堪えたのだ」
「そう、ですか」
 胸のつかえが下りたような気がした。彼がこう言ってくれるのならばという安心感が体中を満たしていた。夏目が首肯してもなお強く肩を掴む森の手のひらは、驚くほどに熱い。ほんとうに生きている温度だった。真摯に見つめてくる眼差しが嬉しく、また気恥ずかしく、夏目はいたたまれずに視線を逸らそうとした。
「俺は貴方を愛している」
 は、という空気音が鳴った。息を吸ったのか吐いたのか分からなかった。それと同時に青年の体からこぼれ出ていた光が文字の渦となり、体中を包んでゆく。躍る文字たちは朝陽に照らされた遠浅の海のように涼やかにきらめいた。
 目を見開く。まっすぐに森を見つめる夏目の視界も、やがて白い光に満たされていった。
「貴方も、貴方の生み出したものも全て」
 弾けるように光が舞い、収束し、一気に拡散した。キィン、となにか金属が砕けるような音が中空から響いたような気がした。眩しさに瞑っていた瞼を開くと、もう夏目はあの青年の器ではなく、転生体としての夏目漱石としてそこに立っていた。
「ようやく会えたな」
 元に戻った夏目をほんの数えるほどの間きつく抱きしめてから、森はすぐに身を離すと、我に返ったように顔を背けた。今さら照れでもしているのかと可笑しさに口角が緩む。
「すまない」
「何がです」
「公衆の面前だった」
 ついに夏目は噴き出した。そうして涙が一筋こぼれた。確かにここはもう、修復された人通りの多い往来だ。通行人は奇妙な目で見ているかもしれない。だがそんなことはもう、今の夏目にはさしたる問題ではなかった。切ないような、笑ってしまいたいような心地になるほどに、些末なことになってしまったのだ。
 ここは書物の中に過ぎない。どんなに生々しい息吹を宿していようとも、決して枠線を超えることはできない、自由意思を持つことのない世界だ。
 それゆえに、この手で守ってゆかなければならない。
 賑やかに行き交う人々の中に、夏目は見覚えのある人影を見た。二人の学生が並んでこちらへ歩いてくる。あの青年と友人であった。夏目や森のことをどう認識しているのか、意にも留めない様子で通り過ぎようとしていた。
「……これからこの世界で君たちに起こることについて、僕は、責任を持たなければいけないね」
 すれ違いざま、青年がふっとこちらを見たように感じた。
「私は夏目漱石。――君たちの生みの親」
 もう決して君たちを否定するようなことはすまい。覚悟はできているんだ、今度こそ。胸中でそう告げると、夏目は青年たちから視線を外した。森は穏やかな顔で彼らを見送っている。この人がこんなにも優しげに彼らを見つめてくれることが、夏目にはずいぶん果報であるように感じた。
 ふと気がつくと、少し離れたところで様子を見ていたらしい正岡たちがそろそろ帰るぞというように手を振っているのが見えた。夏目はようやっと羞恥心が湧き、誤魔化すように咳ばらいをすると、森と距離を空けながら彼らのもとへと歩きだした。

(――あ)

 脳裏に浮かんだ光景がある。
 どこまでも続く広野に、不思議に輝くオーロラ、名も知らぬあまたの星々。そこで己のかたわらに立つ男の、穏やかなまなじり。彼の正体にたどり着いた時、どうしようもなく喉元が熱くなった。
 ――貴方の隣に立てることを光栄に思う。
 星満ちる空のもと、あてどもない道を並び立つ人のいる心強さを、きっと彼もまた知っている。