――もつれた糸をほどく夢を見ていた。 目映さが瞼を透かして意識をくすぐる、その向こう側で、誰かが繰り返し己を呼んでいる声が聞こえる。寄せては返す波のようだ。なんだか懐かしい感覚だと思い、芥川は唸りながらも重い首をもたげた。 寝起きはよろしくないほうであると自負している。後を引くようなまどろみからどうにか目覚め瞼を開くと、自室の障子からは白んだ朝陽があふれ差しており、横になった芥川の全身を舞台俳優もかくやとばかりに照らしていた。 窓、障子、遮光カーテンという三重の帳を閉めて眠りについたのは確かだったので、この状況は誰かがカーテンを開けたということを示していた。朝が弱く容易に起きない芥川を起こしに来る者といえば大体決まっている。しかも否応なく日光を浴びせようというやり方に、すぐに親友の顔が浮かんだ。頭上から注ぐ容赦のない日差しに眉を寄せ、芥川は不機嫌を露わに溜息をついた。 「おい、なにも全開にしなくなっていいじゃないか。こう眩しいと頭に響くよ……」 体を反転させ、うつぶせて頭を緩く振る。長い髪が首や背中を滑り敷布団に広がった。脳は起きていても、体はなかなか言うことを聞かないものだ。血圧が低いのではないかと誰かに言われたことがあったが、転生したこの特殊な体にそのような数値が存在するのかは今でも知らない。 いつもならば、ここで菊池が仕方なさそうに笑って何か声をかけてくる。しかし今朝はそうではなかった。 「ですが龍之介君、朝食が冷めてしまいますよ?」 全身が数センチ浮いた気がした。 「っせ、先生?!」 飛び起きると、すっかり身支度を済ませた夏目が笑って正座をしていた。布団のすぐ脇である。芥川は眠気の吹き飛んだ頭でなんでどうして先生がここに、とんだ痴態を晒してしまった、それにしても正座などしてスーツの生地が伸びやしないだろうか、などと余計なことまで考え、赤くなったり青くなったりしながら慌てて着替えようと立ち上がった。正座をしたままの夏目が見上げてくる。 「おはよう龍之介君」 「おはようございます、夏目先生……」 間の抜けたような挨拶をし、少し和んでしまってからぶんと頭を振る。改めて見回したりしなくとも自分の部屋はずいぶんと野暮ったいことになっているのは分かり切っていたし、その上こんなだらしない姿を見られてしまった自己嫌悪と羞恥心で脳天から何かが飛び出しそうだった。 「すみません、てっきり寛かと思って失礼な口を利いてしまいました……その、すぐに着替えますので」 手で髪を乱雑にかき上げながら寝床を隅に押しやる。芥川が言い終わらないうちに外に出ていようと後ろを向きかけていた夏目は、振り返ると軽く頷きながら、 「いいんですよ、私が好きでしているんですから」 と言ってほほ笑み、部屋を出て行った。 がたん、と音を鳴らしてベルトを取り落とす。その後も幾度かそこらへんに足などをぶつけた。 (いったいどうしたんだ、今朝の先生は) たった一言でこうも動揺してしまうことが情けなくなったが、彼にあのように言ってもらえたのだから無理からぬことだとも思えた。最大限に手早く身支度をしている間ずっと、芥川の心音はうるさく胸を叩き続けていた。 急いで髪を結んで部屋を出ると、廊下で待っていた夏目が可笑しそうに目元を緩めて歩み寄って来た。 「そう急がなくてもよかったのですけどねえ」 「先生をお待たせしているのに、のんびり身支度などしていられませんから」 「言ったでしょう? 待ちたいから待っているんですよ」 伸びてきた手に髪を整えられ、またしても恐縮と嬉しさで自分がどういう顔をしているのか分からなくなった。 南東に面した廊下に溢れた目の眩むような明るさが、瞳孔の奥までつんと貫いてくる。そのほのかな痛みは、今が夢などではないことを証明していた。自室、しかも枕元まで夏目が起こしに来たことも、寝起きの髪をこういうふうに触れてもらったことも、記憶する限り今日まで一度もなかったはずだ。というのに、彼がいかにも自然な様子であることが芥川を堪らない心地にさせるのだった。 窓から差し込んだ朝陽が夏目の髪をきらめかせている。 視界の端で揺れる、細長く節のある綺麗な指。それに触れたかったが、ここでは叶わないと緩く身じろぎをした。 焼き鮭の香ばしい匂いが、食堂の外まで漂っている。 午前九時を過ぎた食堂はすみずみまで明るい陽射しがいっぱいに当たり、ステンドグラスのランプシェードが外からの光を透かして淡く色とりどりに輝いている。出入口を過ぎると、食欲をそそる香りやそこかしこで立ちのぼる湯気、がやがやと他愛のない話に花を咲かせる文士達の声が一気に押し寄せ、活気が肌から染み入るようだった。 「よお、これから朝飯か?」 「うん。君はもう行くのかい」 「良い天気だからな! お前らも今度付き合えよ」 すれ違いざま、夏目の友人である正岡が声をかけてきた。彼は朝が早いためもう朝餉を終えたらしい、バットを担いでいるところからしてこれから外にでも行くのだろう。さり気なく自分も頭数に入れられたことに芥川が「え」と声をあげた時には、すでに彼の後姿は食堂から消えようとしていた。それを見送りながら「朝から元気だね」と呆れ気味に、しかし楽しそうに夏目は笑った。 空いている席を探して歩いている間に、宮沢、新見、三好、佐藤、小林、室生、小泉などと挨拶を交わした。皆よくこの時間帯に見かける顔ぶれだ。朝が遅いというよりは、他の者と長く話していたり、食事を比較的ゆっくり摂る者達なのだろう。食にさしたる思い入れのない芥川でも、彼らが美味しそうに朝食を口に運んでいる様子を見ているのは好きだった。佐藤と小林の朝とは思えぬ食べっぷりには、やや引いてしまう部分も無くはなかったが。 そうしてのんびり眺めていると、皆の服装が薄着になっていることに気がついた。冬の終わりが近づいてきたもののまだ寒く、三寒四温を絵に描いたような気候が続いているが、確実に暖かくはなってきているのだろう。日影に残っていた雪もあらかた解け、近頃は風が強く吹く日が増えた。春の嵐も間もないかもしれない。 芥川が恋慕をこじらせ、ひた隠しにしたあまりに一騒動起こり、夏目がその想いを受け入れてからもうすぐ季節が一巡する。すなわち恋仲と言える関係となってからもう一年経つというのに、芥川には仰いでやまなかった師が自分と恋仲になってくれたことが、まだ信じられない時があった。ほとんど毎日顔を合わせていてもそうなのだから、今朝のように夏目のほうから恋仲らしきことをしてくれたものならどうにも心がふわふわとして、頬が緩みそうになるのも止むかたないように思われた。 (転生してみるものだなあ) まさしく事実は小説よりも奇なり。自分が言うとなかなかに説得力があるのではないだろうか。 やがて食堂の中ほどに空いたテーブルが見つかり、二人でそこに着いた。味噌汁がすきっ腹にじんと広がった。 「朝は洋食派だったのですが、和食もいいですね」 「はい。ここの食事は不思議と箸が進みます」 ほんのりとくゆる湯気のあちらで、夏目がもぐもぐと口髭を動かしている。彼は生前から細いわりによく食べる人ではあったのだが、転生してからはより食生活を充実させているように見えた。甘いものを食べている時の嬉々とした姿には劣るものの、生前胃を病んでいた反動か、食事の際の彼はいつでも幸せそうに眼を細めている。 「夏目先生、おはようございます」 「ああ志賀君、おはよう」 はたと目線を上げると、奥のほうから歩いてきた志賀がテーブル脇で立ち止まった。のんびりと頷き笑う夏目に、武者小路と有島も続いて挨拶をしている。白樺派はちょうど朝餉を終えたところなのだろう。白い上着が眩しい。 「お、龍。何かいいことでもあったのか?」 顔を見るなり、志賀は少し珍しそうにまばたきをして笑った。おはようと言われるとばかり思っていたらそう訊かれ、芥川は内心ぎょっとしながら「いえ、」と曖昧に答えた。志賀はふうんと首をかしげてちらと夏目を見てから、思うところのあるような笑みを浮かべていた。 (あの人にはいつも敵わないな……) 志賀達が行ってしまってからしばらく、夏目の顔を見ることが憚られて鮭の骨を取ることに集中した。 午前の潜書に向かう文士達が慌ただしく支度を始める一方で、手の空いている面々はのんびりと雑談や文学議論に興じたりしている。毎日のように繰り返されている光景だ。雑然としているようで不思議に調和のとれた居心地の良い空気が、食堂全体を包んでいるようだった。 芥川は、この時間に食堂や談話室でぼんやりするのが好きだった。自身がこうした暮らしの中にゆるやかに組み込まれていることをじんわりと享受していると、許されているのだと感じることができた。 この日は、かねてより休みを取っていた。夏目と二人で出かける約束をしていたのだ。概ね文士達の休暇の希望は通るようになっているのだが、件の白い本が見つかったり特別任務などが入ればそうもいかないため、今回何事も起こらなかったことに二人とも胸をなでおろした。 帝國図書館を出た頃にはもう昼近くになっており、外はずいぶんと暖かかった。薄曇りの歩きやすい日和だ。 目的は煙草と甘味を買いに行くことである。どこで情報を仕入れるのか、夏目は現代の甘味について非常に詳しかった。今日も、駅向こうまで話題のお菓子を買いに行きたいという夏目に、芥川が同行を申し出たのがそもそもの発端であった。彼はやや方向音痴の気があるため、一人で行かせるのは気がかりだったのだ。 「もう日差しは春のようですねえ」 帽子をつまんで眩しげに空を見上げる夏目に、ええと頷く。夏目は日頃着ているスーツの上に外套を羽織っていた。芥川は歩きやすさを考えて洋装で来ていたが、コートはいらないほどに暖かい陽気であった。 帝國図書館から駅前までは、路線バスで数十分の距離にある。今日は駅より一つ向こうの停留所で降りた。表通りということで人が多い。陽気も手伝っているのだろう。 景色は一様に明るかった。 市街地に立ち並ぶ煉瓦造りの十九世紀を思わせる建築には懐かしみを覚えるが、和洋折衷の独特の街並みは何度見ても不思議な感慨をもたらした。近代的な幾何学を思わせる建物の合間に古くからの日本の町屋が残っていたり、舗装された道路から少し脇道に入ると土と砂利の地面がそのままになっていたりする。大通りの歩車分離も芥川達にとっては物珍しかった。 アスファルトを鳴らす革靴の音、走り抜ける自動車の彩り、春先らしい少し霞んだ大気のほころんでいるさま、レストランから漂う香ばしい香りなど、懐かしさと新鮮さを抱き合わせながらゆっくりと景色は移ろう。 時の流れというものをいっとう強く感じるのは、こうした娑婆のなにげない営みの中である。まるで浦島太郎だ。道行く人々には想像もできないだろう、あそこの百貨店の角を杖をついてゆっくりと曲がってゆく老人よりも、この自分が遥かに年寄りであるということなど。 「当たり前と言えばそうなのでしょうが、煙草はずいぶん銘柄やデザインが変わりましたね。先生の吸っていた朝日もなくなってしまいましたし」 「ええ、この体になってからはそう煙草を吸いたいとも思わなくなりましたが……やはり寂しいものがありますね」 「空気が綺麗すぎるのも落ち着かないものです」 芥川は本心からそう言った。この時代はどこもかしこも禁煙分煙で肩身が狭い。昔はそのへんの道端で煙草を吹かしている者が多く居たが、今は歩き煙草も禁止されている場所があるというのだから驚いてしまった。本の中の世界のほうが自由に煙草を吸えるという点においては居心地が良い、などと思うこともしばしばあった。 弟子の嘆きが真剣味を帯びていることに気づいたのか、ははは、と可笑しそうに笑いながらも夏目は同情を込めて深く頷いてくれた。その横顔をそっと見つめているうちに頬が緩むのを感じ、芥川は視線を戻した。 その時、いきなり人波がどっと脇の通りから寄せた。 「う、わっ」 人波に押されてバランスを崩した夏目の体が倒れかけ、その肩を慌てて抱き支える。ちょうど彼が芥川の胸に飛び込むようなかたちになった。突然のことにぽかんとして芥川を見つめる夏目との距離の近さに、芥川もひととき思考が止まった。相変わらず細い、顔が小さい、息遣いを感じる、洋墨とヒナゲシのやわらかいにおいがする―― 「っ先生、大丈夫ですか」 我に返って声をかける。夏目の瞳がなんらかの意思を持って閃いた、が、その正体を掴むことはできなかった。 「すみません、龍之介君」 焦りを感じさせる声が聞こえた時にはもう、夏目の体はすり抜けるように離れていた。俯き、顔を逸らされたような気がして心配になり顔色を覗き込もうとしたものの、彼が歩き出してしまったためにそれは阻まれた。 「お怪我はありませんか」 「ええ。人込みというのはどうもいけませんね、いつまで経っても慣れませんよ、ええ本当に……」 早歩きで進む夏目を追いかける。いつもゆったりとした口調で話す彼にしては忙しない喋り方にはやはり不自然さを感じたが、先を行かれてしまい顔は見えなかった。 それからしばらく歩いたのだが、夏目の態度は何故かそっけないままであった。話しかけても会話が続かず、彼にしては珍しいことに視線も合わない。そのうえ距離が遠い気がする。目当ての甘味と煙草を無事に買ってからも、夏目の態度はほとんど変わらなかった。 「あの先生、なにか――」 「そろそろ帰りましょうか」 え、と目を見開く。 まだそう時間は経っていなかった。 約束はしていなかったが帰りに昼食を一緒にと考えていたのに、疲れさせてしまっただろうか、自分ばかり舞い上がりすぎてしまっただろうかと相好を曇らせ、問いの続きを口にしようとした。しかし夏目の横顔になにか有無を言わせぬ雰囲気を感じ取り、質問もせず慌てて 「分かりました」 と答えてしまった。芥川はそんな己を内心恨めしく思ったが、夏目はそこはかとなく安堵したように見えた。 「今日はどうもありがとう、龍之介君」 笑う夏目はいつもならば芥川を心穏やかにさせるが、今はどこか距離を感じさせた。何か得体のしれないものが自分と彼の狭間に横たわったような、心地の悪い感覚があった。それから図書館までは他愛のない話をしながら戻ったはずなのだが、よく覚えていなかった。 長い廊下を歩いている芥川の影が、壁との境目で屈折して縦に伸びている。常よりもだらしのない髪はところどころ跳ねたり、また結びそこなったまま無造作に垂らされて、歩くたびに小さく揺れている。沈んだ表情で幾度となく溜息をつく彼を、見る者が見れば気にかけて呼び止めたかもしれないが、西南に面したこの廊下は人影が少なく、この時もついぞ誰ともすれ違うことはなかった。 あの日から夏目は、何かにつけて違和感のない程度に距離を置いてくるようになっていた。館内ですれ違った時、食堂や談話室で居合わせた時、潜書で同じ会派を組むことになった時など、さりげなく二人きりにならないように行動しているようだった。あるいは偶然であったかもしれないが、少なくとも芥川にはそう感じられた。 避けられていると明確に言うのは憚られる。顔を合わせれば会話は普通にするし、自分を呼んでくれる声は相変わらず優しい。以前と変わりなく笑いかけてもくれる。師と弟子という間柄ならばなんら問題のない交流はできているが、しかしそれ以上がないのである。もちろんあの日以来、朝に起こしに来てくれることもなかった。 「邪魔するよ」 喫煙室の扉を開ける。猫背がちに椅子に腰かけていた菊池は友人の姿を見るや少々眉をひそめたが、すぐに平静の顔に戻っておうと片手を上げた。この時間帯ならば高確率で菊池が煙草を吸っていることを、芥川は知っていた。 「なんだ、何日も寝てないのか」 「いや。……寛にちょっと意見を聞きたいんだ」 夏目先生のことなんだけど、と言いながら煙草に火をつける。菊池はすぐに何かを勘づいたらしく、身を乗り出すと、そういうたぐいの相談をしてくるとは思わなかったというような驚きと好奇心を露わにした。彼には、芥川と夏目の間柄に関して大抵のことは伝えてある。 「へぇ、お前さんでも色恋で悩むのか」 芥川はふっと自嘲がちに笑った。色恋という言葉の美しさが体の芯に沁みた。 のろのろと煙を飲み、先日の夏目と出かけた時の出来事を話してから、ひとつ大きく煙を吐き出す。女相手ならばやりようはあるが相手が男でしかも師でもあるというのは初めてで加減が分からない、先生に嫌われたくはない、時が経つほどどうすればよいか分からなくなってきた、とわだかまっていた心情を吐露してゆく。菊池は初めこそ惚気を聞くような顔つきで耳を傾けていたが、次第に難しい顔になり、何とも形容しがたい唸り声を漏らして背もたれに身を預けた。しばらくは思案気に目を瞑っていたものの、いつしか諦めたかのように天井を見上げていた。 「やっぱり嫌われたんだろうか」 うなだれる芥川の長髪が床に流れた。 「おいおい、そう落ち込むなよ。聞いた限りじゃあお前が何かしたわけではないと思うぜ……まぁなんだ、神経質になっているだけかもしれないぞ。様子を見たらどうだ」 「気のせいだって?」 「いや、そうは言わないが」 菊池が苦笑がちに煙を吐いた。芥川は笑いもせずに視線を落とすと、低く沈むような溜息をついた。 神経質、という言葉に心当たりが無いわけではない。 ひと月ほど前にかつての親友である久米が転生したことで、芥川は少なからず不安になっていたのだ。まだ木曜会の先輩方が来ていないだけよいのかもしれないが、今まで夏目の弟子といえば芥川という構図ができあがっていただけに、久米の転生はその経緯も相俟って芥川に複雑な感情を抱かせていた。焦っているのかもしれない。久米が来たことで、思い出さざるを得ないのだ。夏目漱石という人間が、いかに多くから慕われていたかという事実を。 寛、と小さく呼びかけた。芥川の姿は、室内にくまなく満ちる紫煙によって半分隠されてしまっていた。 「人の欲とは果てしないものだね……昔は一緒にいられるだけでこの上なく幸せだったのに、今ではもう、それ以上がないと生きていけないようだ」 また別の日のことである。 芥川は談話室のテラスへと向かっていた。このところ、仕事のない時間は煙草を吹かしながらぼんやりとすることが増えていた。ちょうど誰もいない談話室をつっきって裏庭に面したテラスに歩を進めると、小さく誰かの話し声が聞こえてきた。そっと顔をのぞかせてみたところ、先客の室生と萩原が白い椅子に腰かけて煙草を吹かしているところであった。少年の見た目で煙を嗜む二人は、ずいぶんとアンバランスで絶妙な色気じみたものを感じさせた。 「あれ、芥川君?」 ふ、と萩原が視線をこちらへ向けた。 「やあ。僕もいいかな」 今来たばかりを装って扉を開き、懐から煙草を取り出す。ああ、と迎えるように立ち上がった室生が柔らかい笑みを浮かべたのが、なにやら嬉しかった。 近所の野良猫や今作っている詩について、白秋について、また外出先での出来事など、尽きせぬ話を始めてしまえば二人は相変わらず普段通りの様子で、先ほど遠目に見ていた時に感じたアンニュイな雰囲気はもうどこかへ消えてしまっていた。少年らしい笑い声に芥川は何故かほっとしながら、彼らの話に相槌を打っていた。 さらさらと肌触りの良い風が吹いている。少し冷たいが、肺に入れればすぐに温まってしまう。 「最近元気ないよな、どうしたんだ?」 話しに一区切りがついた時、そう声をかけてきた室生に対して、初め芥川は曖昧な返事をしていた。この二人には夏目との関係をはっきりと知らせてはいなかったからだ。しかし何かと人を良く見ている彼らのことだから、大まかなところは察しているのだろうという気もしていた。芥川のおそらく不健康を絵に描いたようなありようを心配そうに見つめている二人の瞳を見ていると、それは間違いではないのだろう。芥川はなにか懐かしい心地になって、次第につらつらと心境を吐露していた。 「……」 「うーん……難しいところだけど、」 ひとしきり聞き終えると、室生は困ったように眉を寄せ、しばらく思案気にしてから軽く芥川の肩を叩いた。 「俺は、あまり思い詰めなくてもいいと思うぞ」 「そうかな、寛にもそう言われたよ。こういうことはいくら考えても考え過ぎるということはないと思うけど……」 目を伏せてもの憂げに呟く。 ぼんやりしているようで真面目な芥川の性格をよく知っている室生は、やれやれという様子で眉を下げつつ軽く笑むと、穏やかに息をついた。煙草の灰を落とす。 「きっと夏目先生はお前に……いや、」 言い留まり、形容しがたい表情を浮かべた室生は右手を腰に当てて肩の力を抜いた。そのどこか老成された眼差しはすっと自然な仕草で芥川から逸れ、少し遠くの植え込みのあたりを眺めているように見えた。それをじっと窺っていた萩原の猫のように澄んだ瞳が一瞬きらりと芥川を映し、またすぐに室生へと戻っていったのが分かった。 「龍がすこし羨ましいよ」 しみじみ噛みしめるように呟くと、それきり室生は何も言わずに吸いさしの煙草を唇にあてた。え、と声を漏らした芥川は言葉の続きが無いらしいことを知り、しばらくどういうことだろうかと悩んだ。そうしているうちに、以前ここに転生して日が浅い頃、彼が何かの折に語ってくれた内容を思い出したのだった。 ――夏目は懐に入れてくれる人であるが、北原は背中を追わせる人であるという話だ。 自分達の師に対するその見解の差には、詩人と小説家という絶対的な質の違いのようなものが関係しているのだろう。詩人はその人が詩人であろうとする時には、畢竟どこまでいってもひとりなのだ。それでこそ峻烈で珠のような作品が生まれるのだろうと、その時室生は言っていた。 芥川は黙って瞼をつむり、彼らの放つ弾丸を想起する。戦場の最も遠くから前線へと鉛を撃ち込む、あの鋭さ。肉薄を是とする刃とは異なる疾走感と閃き。 「……北原先生と犀星達のそういう在り方も、僕は羨ましいな。信頼があってこそじゃないか」 そう芥川がいらえると、室生は意図が通じたことを喜ぶようににこり、と人好きのする笑みを浮かべた。 「まあ、信頼にもいろいろあるってことさ」 彼の声色や表情のひとつひとつからは、面倒見の良さがにじみ出ていた。また懐かしくなる。室生は何ら打開策らしきものを提示したわけではないのに、芥川の胸中は幾ばくかであっても重苦しさが払われた心地がするのだった。 「話なら俺も朔もいつでも聞くからさ、あまり一人で悩むんじゃないぞ。な、朔」 「そうだね。君は、思い詰めるところがあるから」 「うん、ありがとう」 芥川は頷いて見せ、はにかみがちにほほ笑んだ。彼らのこういう寄り添うような優しさは心地良かった。 テラスに居るあいだじゅう、萩原はほとんど黙って二人の会話を聞いていたが、別れ際に芥川に寄って来ると、眉をやや八の字にして心配そうな、何かを訴えるような面持ちでじっと見上げてきた。その澄んだ濃青の瞳には、彼特有の強い光が宿っているように見えた。芥川はこの男と初めて会った日のことを思い出し、またしても懐かしさに見舞われ、にわかに思い出話などをしてみたくなった。 無理しないでね、と囁いた後でぽつりと萩原は言った。 「君は先生を愛して、幸せではないの」 「まさか、」 瞠目してかぶりを振った。氷水を注ぎ込まれたように、胸の深奥までがひやりとした。萩原が今そんな問いかけをしてくることの意味を考えかけて、やめた。 「愛させてもらえなくなるのが、怖いんだ」 それを聞くと、萩原は眉を下げたまま小さく頷いたきり口を噤んで、ずっと不思議そうな顔をしていた。 * 夏目と正岡は、がやがやと賑やかな門前通りを歩いていた。休日に浅草の寄席に行った帰りである。 大通りには人力車が行き交い、店々に並ぶ土産物は色彩鮮やかに見る者の視線を誘っている。どこを見ても、観光客や寺への参拝者などで目まぐるしく人が動いていた。 「来て良かったな、今日のはなかなか当たりだった」 「そうだね」 この日の寄席は伝統的な江戸落語と現代に作られた演目の両方を楽しめる構成となっており、百年ほどタイムスリップしたような身の上である二人にとっては大いに有難いものであった。ああだこうだと感想や批評を語る正岡に、夏目は興味深げな相槌を打ちながらぽつりぽつりと自分の意見などを述べている。語調も声のトーンも異なるが、不思議とリズムの合った応酬は学生時代を彷彿とさせた。 「なあ、ところでお前」 不意に、正岡が語勢を沈めた。 「どうした? 腹でも痛いのか」 何でもなさそうな調子で、しかし確信をもって尋ねてくる声に夏目はわずかに瞠目し、それから目尻を細めて苦笑した。いつから気づいていたのか。あるいは出掛けた初めからもう夏目の様子が普段と違うことは分かっていて、今まで黙っていただけかもしれない。自分から言い出さないことに痺れを切らしたのだろうかと思うと、申し訳なくもほほ笑ましいような気持ちになった。 このところ、夏目の胸にはほとんど常に、霞掛かったような茫洋とした思案が居座っていた。 「師とは、先生とはどのようにあればいいのだろう」 「は?」 「分からなくなってしまったんだよ。私を慕ってくれる人に対して、どう振舞えばよいのか」 慕ってくれる、という婉曲的な表現に狡さを感じて自嘲してしまいそうになる。脳裏には言うまでもなく明確に、ひとりの青年の顔が浮かんでいた。 正岡は少し呆気にとられたような顔をして、口を半開きにし、夏目をまじまじ見てから、 「そんなもんお前のままでいいんだよ!」 あっけらかんと答えた。 夏目の表情がややほころんだ。彼らしい物言いといえばそうだった。こうもはっきり言ってくれる人間は少ない。 「まさか夏目が俺にそんな相談をしてくるとはなぁ」 「いけないかい?」 「違うっつうの、センセイってやつに関してはお前のほうが造詣が深いだろうよ」 指をさし、どこか呆れたような目つきで見てくる正岡に、夏目は肩を竦めるようにしてかぶりを振った。 「そうでもないよ。僕は今でも分からないことばかりだ」 「少なくとも俺なら、俺を慕ってくる奴のその気持ちを尊重して堂々としてるがね」 正岡は腕を組んでひとりで数度頷いた。 これもまた彼らしいと思いながらも、やはり言葉が足りなかったな、と内心で呟き苦笑した。しかしこれは夏目が意図した成り行きでもあった。今はまだ、芥川との関係をこの色恋に関して初心なところのある親友に知られるつもりはなかった。彼のほうから察してくるようなら話そうという、夏目の良く取るスタンスであった。 (堂々と、していたいのはやまやまだが――) あの日から、芥川とは可能な限り恋人らしい雰囲気にならないようにしていた。ほんの一瞬の出来事で驚くほどに己の心境が変わってしまったことが、今でも嘘のようでいっそ滑稽に思われる。だが確かに事実に違いないのだ。 街中で体を支えられるまでは、いくら恋仲と言っても芥川は自分にとって可愛い年下の弟子であった。あの日部屋まで赴いたのも、彼の寝顔は幼く見えて好きだからという理由からだ。朝起こしに来た夏目に照れながら嬉しがるさまや、日々のなにげない触れあいのどれをとっても彼のことを慈しみ可愛いがっている認識でいたのが、それがあの瞬間から変わってしまったらしい。 ありていに言えば、咄嗟に成熟した男の顔を見せた彼を目の当たりにし、ようやく夏目は本当の意味で芥川に恋をした、ということを自覚した。そうした途端に言いようもない、不安とも焦燥とも断ずることのできない感覚が胸を覆ったのであった。 芥川の求める己の姿が分からなくなった。一介の文芸人としてならば己でも輪郭を掴むことができるのに、芥川をひとりの男として愛している己になった途端に、そのすがたかたちが煙のように曖昧になる。そうしてそのまま文芸人としての己までもが煙に巻かれて散り散りになってしまうような心許なさが、みぞおちをじくじくとさいなむのだ。後には何も残らず、己を愛していると言ってくれた者まで失ってしまいそうな心許なさで足元がぐらつく。 このために、最近は芥川と恋人らしい接触はしないようにしていた。寂しそうな顔をさせていることには気づいていたが、自分でも予期せぬ失望をあの子に与えてしまいやしないかと思うと身動きが取れないのだ。 「僕も君のようになれたらねえ」 しみじみと呟いてしまってから、ずいぶんと気弱な声を出してしまったと咳払いをした。呆れて笑い飛ばしてくれればと思ったが、親友はあくまでも真面目な顔をして夏目を見ていた。まっすぐで、少年性と老成を内包した強い瞳の中に、心許なさげな壮年の男が映り込んでいる。 「お前はまた何を心配してるんだよ。芥川君と何かあったのか? それとも久米君か」 「いや、そういうわけではないよ」 笑いながら、ゆるゆるとかぶりを振った。正岡に説明するには己の内でもまだ整理がうまくつかなかった。もし自分とあの子の関係を知ったなら、そして自分の中に渦巻く細々しい物思いを知ったなら、正岡はまた違う反応をくれるのだろうか。それともあくまで僕のままでいいと言ってくれるのだろうか、と夏目は考えたけれども、いずれにせよもうしばらく先のことになりそうだった。 「大将、また話を聞いてくれるかい」 「お安い御用だっての」 門前通りを夕焼けが包みこみ、燃えるような橙が生み出す濃い影とともに、商店街や道行く人々を急速に夜へと運んでゆく。夏目は正岡に背をばしばしと叩かれながら、むせるように笑って共に大通りへと歩いて行った。 初めからフェアでない質問をしてしまった詫びとして帰りに鰻ををおごると、熱でもあるんじゃないかと心配された。しかし鰻はしっかりと完食する正岡であった。 風呂の帰り、廊下でばったりと久米に会った。 少し酒が入っているようだったがほとんど素面に近いのだろう、話し方も普段とあまり変わらない。ただ幾分か元気があるように感じた。酒を飲んだ後の彼はいつもより饒舌になるのだと、酒好きの面々から聞いたことがあったのを思い出した。 夏目と会えて嬉しそうにしながらも、何かを警戒するようにきょろきょろと視線を動かしている彼に苦笑して「今はひとりですよ」と言うと、ああ、と彼は安堵の声を漏らし、気まずそうな色をにじませながら眉根をほどいた。 せっかくだからと久米を部屋に呼び、しばらくよもやまの話をした。転生したての頃は恐縮して口数の少なかった彼も、今ではずいぶん喋るようになった。もともとは朗らかで社交的な青年だったのだから、良い傾向だと夏目は思っている。これで自虐の癖が減れば尚良いのだが。 「先生はその、大丈夫ですか」 ぽつりと久米の声が落ち、思考が引き戻される。 「何がです?」 「いえ、僕の思い過ごしならいいのですが」 それまでの声の調子が萎んでゆくように弱くなった。気が重そうな様子で視線をさまよわせたのち、彼は夏目のつま先あたりを見つめながら呟くように言った。 「……彼は、ずいぶん参っているようですよ」 目を見開いて久米を見つめる。かれ、と久米が呼ぶのは大抵同じ人物だった。緩慢に目を伏せ、脚を組み直すと夏目は息を吐き出してわずかに口角を上げた。 「君は、龍之介君を避けていると聞いていましたが」 意外だという内心が声に表れてしまった。久米はその名を聞き自嘲がちに短く笑うと、数度頷いた。 「仰る通りです……けれど、僕なりに芥川君のことはよく見ているつもりです。そうでなければ、この閉鎖空間で彼を避けることは難しいですから」 「……心配ですか」 尋ねると、久米は黙ってしまった。その表情には憤りと困惑とやるせなさめいた感慨が、複雑に入り混じって塗りこめられているように見えた。瞳を逸らしてしまった彼が、しかし明確な否定の言葉をついに口にしなかったことに夏目は一縷の光を見たような心地になった。 互いにこの話を掘り下げる気にはならず、それからしばらくは話題を変えて語り合った。特殊な有碍書の話は大いに彼の興味の的であるようだった。また、久米の小説を読んだ話をすると彼は一喜一憂して夏目の評を聞いていたし、俳句の話ができたのは己にとって嬉しい収穫だった。 久米が夏目のもとを訪ねたのは、彼がまだ学生の頃のことであった。彼と芥川が仲の良い友人であったのはよく覚えている。ちょうど学生時代の夏目と正岡のような、気の置けない間柄であると理解していた。それゆえ、久米がこの世に転生した時は驚いた。自分の死後に起こった出来事については詳しく知らないが、今の二人の様子は夏目から見ても心が痛むものだった。転生した久米が彼に抱いている複雑にもつれた感情がいつかほどけていくことを願う夏目にとって、こうして久米が胸襟を開いて話しをしてくれることは進歩であった。 気づけば夜も深くなってきており、時計を見上げた久米は驚いた様子で「そろそろお暇します」と立ち上がった。夏目はそうですか、とだけ返すと、励ましと慈しみと願いめいた思いを込めて肩をぽんぽんと叩いて部屋から送り出した。廊下に踏み出そうとしたところで、久米は照れと後ろめたさのようなものをかすかに滲ませてから、遠くを見て独り言のように呟いた。 「……あの頃、先生にとって僕は彼のおまけだったかもしれませんが、それも仕方のないことだったのでしょうね」 夏目の顔から笑みが消えた。 「君は、そんなふうに思っていたのかい」 少し傷ついたような目をして、眉を寄せ久米を見据える。声色が硬くなってしまった。この子の卑屈な物言いはいつものことであったが、今の言葉は夏目にとってひときわ看過しがたく、自尊心を傷つけられたような苦みばしったものが胸に生じた。すると向き直った久米もまたどこか苦しげに目を伏せて、それから夏目を見てふっと微笑を浮かべた。――微苦笑。それは普段の怯えたような表情とは異なる、ある種の穏やかさを備えた独特なものだった。 「すみません、少なくとも今の僕はそういうふうにできているようです。……漱石先生、僕が申し上げたいのは」 息を止めてまっすぐ見つめてくる久米の、硬質な意思のかたちが露わになる。淡い色の瞳の奥にかすかに宿る慈しみの影、諦めを飼い慣らしきれない物憂げで熱を湛えたまなざし。卑屈な彼の魂に刻まれたもうひとつの姿なのか、それともこれが、彼の本質であるのだろうか。 夏目は不思議な心地になった。この子は己よりも歳を重ねて死んだのだということを、にわかに思い出した。 「芥川君の貴方への敬愛は……悔しいですけれど、きっと僕よりも遥かに深いものでした。誰にも、ひょっとしたら先生にも壊せないかもしれないほどに」 きん、と痛むほどの静けさが落ちた。 囁くように静かだけれども、後にいつまでも残る声だった。一瞬垣間見えた彼の核の部分から、あなたは彼を侮っている、と暗に言われたような気がした。 失礼します、と頭を下げて去ってゆこうとする背に、 「久米君、またおいでなさい」 遅れてそれだけ声をかけると、久米は小さく肩を揺らして立ち止まった。そうして長い銀白色の前髪のあちらから不安気に夏目の姿をとらえ、安堵したように愁眉を開くと、はにかみながらもう一度深く会釈をした。 * その日、夏目が侵蝕を受けて補修室で休んでいると聞いたのは、ちょうど芥川の会派が夕の潜書に向かう間際であった。直接聞かされたわけではなく、司書と志賀が話しているのをたまたま耳にしたのだ。 胸がざわついた。あの外出以来、まともに夏目と会話さえできていなかった。気掛かりで上の空になりがちな意識をどうにか眼前に引き戻し、常ならぬ迫力で侵蝕者を屠ると、芥川は帰還してすぐに補修室へと向かった。 夏目は未だ寝台で眠っていた。 寝台脇の椅子に腰かけ、一寸ためらってからそっと手を握る。肌の滑らかさと節の感触がよく分かった。彼の手は冷たくも温かくもなくちょうど芥川の掌に馴染み、それがかえって生きている生々しさを感じさせた。 白んで明るい外界から切り取られたように薄暗い室内には、ひんやりとした空気が静かに満ちていた。少し息を吸えば、洋墨と消毒液の混じり合った独特のにおいがする。補修室の奥の執務机には森が居るはずだが、本当に居るのか定かでないほど気配もなく辺りはしんとしていた。 カーテンで囲まれた清潔な長方形の箱のような空間で、芥川は師の寝息と体温だけに神経を研ぎ澄ませていた。点滴の洋墨がぽたり、ぽたり、と一定の間隔で落ちる音が、時を刻む音よりも大きく鼓膜を振るわせた。 申し訳ないと思いながらも、できるだけ夏目の顔は見ないようにした。真っ白な顔をした彼の顔を見ていると、心が落ち着かなくなる。さまざまなことを思い出しそうになるのだ。病んでいた時期の彼や、葬儀の日のこと、彼がいなくなった後の己の人生について、など。およそ蘇らせたくない記憶ばかりが想起されそうになり、そのたびに芥川は夏目の手をしっかりと握った。 「……う、」 やがて小さく呻き声を漏らし、夏目は意識を取り戻した。思わず立ち上がる。彼はぼんやりと芥川を見ると安堵したような顔をして龍之介君と呼んだが、芥川が応えるよりも先にはっとして身を起こした。すぐに背を支える。 「ずっと、居てくれたのですか」 「もちろんです、先生」 ほ、と嬉しそうな顔になる夏目の瞳が蜂蜜のようにまろく光を宿した。芥川の胸に期待が生まれる。友人たちの言う通り、自分は考え過ぎていたのかもしれない―― 「夏目先生」 呼ぶと、しかし夏目は我に返ったように笑みを潜めてしまった。芥川が身を乗り出すと彼の顔には一瞬怯んだような表情が浮かんだが、それもすぐに隠れてしまった。 「すみませんでした。……もう行きなさい」 「え」 沈黙が落ちた。ほんの二、三秒だったかもしれないが、ずいぶんと重く濃密に感じられた。 「君の時間を、私ばかりに費やしてはいけませんよ」 顔を逸らし口早にそう言うと、夏目は目を伏せてじっと黙ってしまった。前髪と口髭に隠れ、表情はよく分からない。芥川は呆然と彼の横顔を見つめながら、投げかけられた言葉を脳内で反芻した。 文言だけならば心遣いや遠慮からのそれかもしれなかったが、夏目の声色からは何か有無を言わせぬ拒絶めいた強張りが感じられた。どう捉えようとも、恋仲である相手に対する台詞ではなかった。 (やっぱり、僕は避けられていた) ショックを受けながらも承諾する返事を口にし、芥川はのろのろとカーテンの隙間から出て行った。 突き放された子供のような後姿が、夏目の視界の端に映った。ドアの開閉音に重ねて「失礼しました」とかすかに聞こえ、その律義さが残された静謐の縁をなぞった。 またしばらく沈黙が落ちた。 やがて奥の執務机から人が立ち上がる気配と、遠慮がちな咳払いがカーテン越しに夏目の耳に届いた。「漱石殿」と声をかけた森は、待っても返事はないことを悟ると静かにカーテンの合わせ目から寝台側に歩を進めた。 夏目は寝台で膝を抱えるようにしており、ちらと森を一瞥すると自嘲がちな笑みを浮かべて小さく会釈した。 「あれは少し、言葉がきついのではないか」 「わかっています」 どこか拗ねたような言い方であった。多くの文士から先生と呼ばれ慕われている男の八つ当たりじみた態度に、森は呆れとじれったさを滲ませ薄く笑った。居心地の悪そうな顔をしてそれを横目に見てから、ひとつ溜息を吐くと、夏目は強張っていた肩の力を幾分か抜いた。 窓の外で揺れる木々の影と木漏れ日が、白いカーテンに茫洋としたかたちを浮かび上がらせている。午後特有のどこか気だるい雰囲気は、外界と隔てられたこの長方形の中にも届いていた。音もなく揺らめく光と影をぼんやりと眺めてから、夏目は促すように森を見上げた。 「立場に捉われすぎると、身動きが取れなくなるぞ」 「……貴方が言うのですか」 「俺だから言うのだ」 彼にしては冗談めかした言い方に、二人は何ともいえない笑みを交わした。森という人物の在り方については夏目も少なからず理解している。夏目がもう一度溜息を零しすみませんと呟くと、森は黙ってかぶりを振った。 カーテンが閉まる音に続いて「もうしばらく休むように」と言い渡され、後には再び静けさが戻った。 夏目はゆっくりと体を横たえると、襲い来る疲労感に瞳を閉じた。侵蝕が未だに体内に残っているのだ。 黒く染まった瞼の裏に、芥川の途方に暮れたような顔が浮かんでは消えた。すまないことをしたと思いながらも、今はああするしかなかったのだと強く主張する己もまた存在していた。その傲慢さを、あの子は大切な弟子でもあるからという大義で覆うと、沈むように意識を手放した。 ――数日前、芥川に関する久米の言葉を聞いた時、えもいわれぬ喜びと不安とを同時におぼえた。その情動の納まりどころを、 夏目は未だに見つけられずにいる。 * 補修室での一件から、芥川は目に見えて不安定になった。潜書を休みがちになり、一日の大半を部屋に籠るか喫煙所で煙草を吹かすかして過ごすようになっていた。 芥川は以前にも似たような状態ののちに喪失手前に陥ったことがあったため、司書は侵蝕されていないかとたびたび確認しているが、今回は侵蝕に問題は無いようだった。 以前と状況が異なることは芥川自身が一番よく理解していたし、むしろ今回のほうが精神的に参ってはいるけれども、それを司書や他の文士たちに説明する気には到底なれなかった。第一どうして説明できようか、恋仲である師に理由は知らぬが避けられていて、生きる気力が失せてしまったなどと。無性に情けないため、菊池や室生たちにも今度は詳しくは話していなかった。 あの後、夏目からは一度手紙が来た。 “先日はすみませんでした。 感謝しています、看病をありがとう。 簡潔ながらも丁寧な書体で綴られていた。他ならぬ夏目からの手紙だ、いつもならば無条件で喜ばしく思うところだが、今はこの文面すらもひどく他人行儀に感じ、どう返事をしたのかほとんど覚えていない有り様であった。 何をしても夏目との距離を開く悪手にしかならぬような恐怖が、ひたひたと足先からせり上がってくるようだった。もはやただの師と弟子という関係では少しも満足できぬようになってしまったのだと、心の底から実感した。 (貴方に拒絶されたら僕はどうして生きていけばいいのだろう、貴方が居るからこそ転生したこの世界で生き、戦う決意もできたというのに。貴方が僕の気持ちを受け入れてくれたことに慢心していたのだろうか。これでは昔に逆戻りだ。……いや、もっと悪い) 「芥川さん、大丈夫ですか……?」 視線を下げると、澄んだ瞳がじっと芥川を見つめていた。堀が顔を合わせるたびにこうして心配してくれるのを、申し訳なく思う。ありがとうたっちゃんこ、と目を細めて頭を撫でると彼は気恥ずかしそうにはにかみながらも、やはり気づかわしげに顔色を窺っていた。 (ああ……僕も先生にこんな風に慈しんでもらえるだけで満ち足りることができたなら、どんなに良かっただろう) そうして鬱々としていると、時折遠くから島崎がこちらを見ていることもあった。しかしこれ以上はという境界線は越えてこなかった。あまり目に付くなら以前のように声をかけて追い払おうと思うのだが、彼のほうも芥川の剣呑かつ打ちひしがれた様子を察しているのか、近くまで寄ってこようとはしないのだ。こういう時ばかり空気を読む奴だと内心苦々しく思い、またかすかに安堵もしていた。 うつろに日々を費やしていたさなかのことであった。 煙草を吸いに屋外へ出たところ、通りすがりと思われるネコに声をかけられた。気配もなく足元に来ると唐突に「目の下の隈が酷いぞ」とあの愛想のない声で言われ、何か不躾なような気がして思わず緩く睨んでしまった。 このネコというのは芥川にとって、いまひとつ感情の置き所のない存在であった。彼はいかにも事務的に文学書侵蝕問題を処理しているという態度が明確である。そこにとりたてて感情を害するわけでもなかったが、文士とも特務司書とも一線を画したところにいる印象を受けるため、これまで好感を抱くような機会もなかったのだ。ただ猫といえば夏目漱石であるから、この帝國図書館を担当しているのがネコであるというのは何か必然めいた巡り合わせがあるのだろう、とは漠然と感じていた。 「お前がその調子では皆の士気が下がる」 エメラルドグリーンの瞳を細め、平坦な調子でネコは言った。芥川に睨まれようと別段堪えていないようだ。 「君には分からないよ」 「夏目のことか」 間髪入れずに返され、煙草を弄っていた指が動きを止めた。芥川は倦怠そうに、だが確かな驚きの色を浮かべた眼差しをネコに向けた。言葉を発しない唇が薄く開き、煙の筋が細く蒸気のように吐き出された。 「図星のようだな。お前たちは、どうも頭が良すぎるのがいけニャイのではないか」 煙の臭いが嫌いなネコは、芥川に必要以上には近づかない。後ろ脚で首のあたりを掻いて中庭に面した手摺に飛び乗ると、するすると滑るように歩いた。 「夏目には世話になっている。一宿一飯の恩義ではニャイが……吾輩にもできることがあるかもな」 え、と芥川が声を漏らすと同時に、視界を灰茶色の尻尾が横切った。テラコッタの床材に彼が降り立った音はまるでしなかった。彼の首に下がっている桜花の金属飾りだけが、ほんのわずかに硬質な音をたてた。 ネコは一度だけ振り返ると、今度は両目を大きく開いてくるりと光らせ、素早く屋内へと入って行ってしまった。 (……着いて来いということかな) 疑問符を浮かべつつ、芥川は煙草を吸い殻入れに押し付けると急いで後を追いかけた。 * カリカリと扉を引っ掻く音が聞こえ、夏目は読みかけの新聞から顔をあげると頬をほころばせた。時計を見やればもう真夜中といってもよい時刻になっている。 今宵のようなしんとした夜でなければ聞き逃してしまうほどの小さな音が、静寂ゆえにずいぶんと存在感をもって耳に訴えかけてくる。急かすような、少し甘えるようなその音にはいはいと声をかけながら扉を開けてやると、わずかな隙間をするりと抜けて灰色の影が足元をくすぐり、音もなく部屋の奥へと向かっていった。一瞬入り込んだ廊下の冷気に肩を縮ませると、夏目は眉根を開きつつ後ろ手に扉を閉めた。 「本当に炬燵が好きですね、あなたは」 掛け布団をめくり上げ、のんびりとした調子で言いながら炬燵に脚を入れる。もうすでに潜り込み、くつろいで箱座りをしようとしていた訪問客であるネコは億劫そうに頭をのぞかせると、エメラルドグリーンの澄んだ瞳で夏目を見上げ、目を伏せてため息をつくような仕草をした。 「今夜は冷えるからな」 「司書さんの部屋は駄目でしたか」 「知らニャイのか、奴は少し前に内装を新しくしたんだ。研究のボーナスで買ったクッションだとか言って喜んでいたが……吾輩にしてみれば炬燵のほうが断然良い」 掠れがちの声がつまらなそうにぼやく。なるほどそれで最近よくこの部屋に来るのか、と夏目は内心呆れ交じりの愉快な心持ちになったが、ネコにしてみれば死活問題であるようなので神妙に頷いて見せた。この図書館で部屋に炬燵を常設している者は少ない。夏に涼しく冬に温かい場所を好むのは猫に備わった本能であるから、寒の戻り厳しい今宵のような日は炬燵を求めずにいられないのだろう。それは夏目もよく理解していた。 「ところでお前、あの弟子と何かあったようだな」 いささかの沈黙が落ちた。 え、と声を詰まらせた夏目が見つめる先で、ネコの細くしなやかな髭が何かを窺うようにかすかに動いている。それから瞳孔のきゅっと細められた瞳で捉えられ、ぎくりとして身を固くした。彼のガラス玉にも似た双眸は往々にして、例え彼自身ではそう意図していなかったとしても、こちらを責めるような色を呈していると感じることがある。それがまさしく今であった。 「……あなたにまで心配されるとは」 「奴の顔を見ただろう」 「ええ、可哀想なことをしているとは思います……」 少しの間逡巡したのち、弱弱しい苦笑を浮かべると、夏目は言葉を選ぶようにしながら口を開いた。 「私は、あの子の良き先生でありたいのです」 ネコは目を細め、じいと夏目を見上げた。 「それだけか」 「もしかして、気が付いていますか?」 「猫は勘が良いからな」 「参りましたねえ」 息をつくように降参の意を込めた笑いをこぼすと、夏目は少し黙ってから目を伏せた。 実際のところ、芥川と懇ろになることで彼にとっての理想を壊してしまうのが怖い。期待を裏切り、失望されてしまうのが恐ろしいのだ。己の組み合わせた両手を見つめながら、自分に言い聞かせるようにそう吐露する夏目の疲れたような顔を、ネコは黙って見上げていた。どうして猫相手にこのような話をしているのだろうと可笑しな心地になりながらも、不思議と唇は言葉を紡いでいる。 「欲張りなのでしょうね。彼の師と情人のどちらもの座を得ようとしているのだから」 窺うような視線を感じた。 「あいつが、そんなことで感情を曲げるとは思えニャイが。……そう言うお前はどうなんだ」 「どうとは」 「お前は芥川に愛想を尽かさないと言い切れるのか」 ネコの口調はやはり苛むようでもあり、一方では夏目に何事かを確かめようとしているようでもあった。高めだが落ち着きのある声音がひどく耳に残った。 一寸言葉を失い、視線をネコのもとへ戻すと、彼はまったくありふれた猫のような可愛らしい顔つきで夏目を見続けていた。寒いのだろう、炬燵から頭だけを出しているために、一層今しがたの鋭い台詞とのギャップを感じさせた。夏目はきょとんとしてからふっとほほ笑むと、組んでいた指を解きネコのほうへと伸ばした。 「おいで、撫でてあげましょう」 ネコは、返事の代わりに一度瞬きをした。それから揃えた前脚に頭を乗せて身を伏せた。しばらく夏目の右手に静かに撫でられていたが、そのうちに眠ってしまった。 しんと静寂の戻った自室で、夏目はネコに投げかけられた問いを反芻していた。すると、自然と生前のことが思い出された。己の核となる経験というのは忘れないものだ。疑うことは簡単だが、信じることはずいぶん難しい。 元より芥川を信じていないわけではない。ただ、夏目は己のことをさほど信じていないのである。 (――私は私の感情を塗り替えることはできない。もう彼に愛情を抱いてしまった……ならばあの子の、龍之介君の私への好意を、信じてみようと思う) 誰にといわず語りかける。あるいは、己に対する宣誓であったかもしれない。先のことは分からないが、彼を信じることはできるはずだ。疑い続けた果てには闇しかないことは身をもって知っている。恐ろしくとも、自分が信じることで自分のみならず芥川もまた闇に落とさずに済むのであれば、それだけで信じる価値は十分にある。 いつか交わした甘い睦言を想起し、思わず頬が熱くなった。恋が罪悪とは言わない。しかし計り知れないものであるのは確かだ。こんなにも魂を揺さぶるのだから。 夏目の素っ頓狂な声が、まだ薄暗い室内に響いた。 夜が明けて間もない時刻である。 人が来るといけないと慌てて口をつぐむと、夏目はまじまじと双眸を見開き目の前の光景が夢でないことを再確認した。そうして、口髭を一本抜いてみた。痛い。 「なっ、なな、なんだこれは」 目を覚ますと、布団の中で芥川と寄り添い眠っていた。間近にある端正な顔は未だに夢の中であるらしい、穏やかな寝息を立てている。夏目は寝巻にしている着物の帯を思わず確かめようとして、己を抱きしめるように回されている芥川の腕に気がつき、またしても頭がひどい混乱に陥った。芥川は髪を結っており、服装も普段のままである。 昨晩は眠ってしまったネコを布団の中に入れて一緒に眠ったはずだ、それがなぜ―― 「ん、あぁ先生、おはようございます……」 水色の瞳がうっすらと開き、夏目はぎくりと体を強張らせた。咄嗟に返事ができず、黙って弟子を見つめる。 ぼんやり目を覚ました芥川は、寝ぼけているのかふにゃりと夏目にほほ笑み、あろうことかまた寝入ろうとした。久しぶりに見る、幸せそうに緩んだ顔だった。夏目は反射的に体が熱くなるのを感じたが、それと同時に何かあると勘づき、再び夢の中に戻ろうとしている芥川の頬を勢いのままにつねった。うっ、と間の抜けた呻きが漏れた。 「お、起きなさいっ! 龍之介君!」 真相はこうである。 『本当にやるんですね……?』 『ああ』 司書の潜ませた声に、ネコは無情なほど平然と頷いた。その隣に立つ芥川は腕を組み考え込むような恰好をしていたものの、胸中はほとんど決まっていた。師を騙すようで気乗りしない部分はあったのだが、今のままでは解決の糸口が見つからないことは痛いほど承知していた。 三人、正しくは二人と一匹は司書室に居た。皆それぞれ真剣な面持ちで、一番心配そうなのは司書であった。床には敷布が広げられ、複雑な錬成陣が描かれている。 『これは図書館のため、ひいては国のためだ』 『ずいぶん仰々しいことだね』 芥川は呆れを含んだ笑みを浮かべた。 ネコの飄々とした声を受け、難しい顔をしながらも司書は芥川を錬成陣の上に立たせた。そうして『くれぐれも良識の範囲で』などともごもご言うと、何かの分厚い書物を開き、覚悟を決めたような顔つきで芥川を再錬成した。 青白い光と舞い踊る文字が司書室に飽和し、やがてひとところに収束する。そこにはもはや芥川はどこにも居らず、替わりにネコと瓜二つの猫がちょこんと座っていた。 転生体の姿を変える錬金術であった。 「な、なんでもありですかこの図書館は!」 正座をし、説教をするような勢いで詰め寄った夏目に、芥川はすみませんでしたと幾度目かの謝罪とともに頭を下げた。怒りというよりは羞恥のためであろう、両膝に手を置いて俯きがちにしている師におろおろしながらも、胸が弾むのを抑えることができずにいた。 ネコの姿で聞いた昨夜の夏目の言葉と、柔らかい表情や仕草を思い出さずにはいられなかった。 「先生に嫌われたかと思いました」 ぴくりと夏目の肩が動いた。華奢な肩だ。彼はゆっくりと溜息にも似た息を吐くと、わずかに相貌を上げた。 「心当たりもないのに私に嫌われたと思ったのですか?」 「いえ、心当たりならあります……あるから困るのです」 へにゃりと眉を下げて大型犬のごとき風情で見つめてくる芥川を見ているうちに、夏目は次第にすまなそうな顔になった。それから「似たようなことで悩んでいたようだね、」と自嘲と可笑しみから呟き、目を伏せて微笑した。 「医務室では突き放すようなことを言ってしまいましたね……申し訳ないと思っています」 「もう良いんです、先生の不安に気づけなかった僕も悪いのですから」 言い終える前に、さらりとした手のひらが芥川の頬を包み込んだ。君は何も悪くないんだよと囁く、その柔らかな声音に芥川がはっと顔を上気させた。いつかの、夏目が自室まで起こしに来てくれた朝を思い出した。 「君を信じていないわけじゃない、ただ小心者なのです」 頬に触れている夏目の手を包み、黙って続きを促す。 「私をまっすぐに慕ってくれている君に愛想をつかされたらと考えると、眠れぬほど恐ろしくなりました」 「――僕も同じです」 芥川は目を伏せ、ゆっくり吐息交じりにいらえた。 「こんな僕を受け入れてくださった先生に、まだ見せられないものが僕の中には山のようにあるのですから」 劣情と呼ぶべきものであろう、身を捨ててでも隠し通したいと願いながら、同時に両手で掲げてぶつけてしまいたい衝動にも駆られるなまなましい生命の息衝き。この噎せ返るほどの熱を、飼い慣らせる自信などこれからも無い。 「ならば、是非見せてください。私に」 は、と水色の瞳が瞬いた。 私はもうずいぶん曝け出してしまったのだからね。と、言外に告げているような含みのある笑顔を見せた夏目は、膝を前へずらし距離を詰めると、少しばかり芥川の唇を撫でた。はしばみ色の澄んだ瞳は、羞恥と挑発が入り混じった色をしている。それに反応してざわざわと蠢きだすあの熱に浮かされるままに、芥川は夏目に口づけた。 我に返ると、室内の明るさはずいぶんと増していた。夏目の部屋のカーテンは遮光性ではないから、閉めていても光を通す。清らかな朝の光が二人を照らしていた。 つと見つめ合い、この明るさと、あまりに距離が近いことに今さらながら顔を赤くしてどちらともなく身を退けた。自分の布団の上だったことを思い出したらしい夏目は、ひときわ焦り気味に姿勢を正していた。 まるで後朝のようですねと、喉元まで出かかった言葉を飲み込んだのは賢明であったと芥川は胸中で自賛した。 |