一


 季節が廻ろうとしていた。
 窓の外でちらついている雪を横目に映しながら、しんと静まり返った廊下を足早に進む。反り返りの良い上等な靴底はさしたる音を立てることもなく、夏目は己の気配がひっそりと宿舎棟を滑ってゆくような心地で床を蹴っていた。爪先から這い上がってくる冷気を振り払うように動かしても、早朝の底冷えは容易に遠のいてはくれない。夏目のみならず転生した文士の誰にとっても初めての冬は、なかなかに厳しい冷え込みを呈しているようだった。

 この朝を、夏目はいっとう特別な感慨をもって迎えていた。生前の弟子といえる青年、この現代にあっては知らぬものが居らぬほどに著名となった、芥川龍之介の眠る有魂書への潜書を控えていたからである。
 転生してまだ日の浅い夏目は話に聞くのみであったが、この図書館における芥川の転生は混迷を極めていた。菊池、堀、室生、萩原、佐藤、谷崎、森など――かつて交流のあった文士はことごとく潜書を繰り返したものの、誰が行っても彼を連れてくることはできず、やがて深刻な洋墨不足が生じたためにしばらく芥川の転生は見送られていたらしい。数週間前に夏目が転生して図書館が活気づき、また洋墨にも余裕が出てきたことでようやっと、再び彼の有魂書を持ち出すに至ったということだった。
しかしながら、
『こちらを強く拒んでいるような雰囲気を感じました』
『あいつは転生したくないのかもしれない』
 潜書した面々からそういった声が聞かれる中で、夏目は少なからず思い悩んだ。自分が世を辞したのちの彼の人生について詳しくは知らないが、もし本当に転生を拒んでいるのならば無理強いはしたくなかった。それでも芥川を知る誰もがもう一度彼と話をしたいと内心思っていることはよく伝わってきたし、他ならぬ夏目自身も同様であった。たとえ転生したくないのだとしても、芥川の魂と会えるのならば話だけでもしたい。それが正直な願いであった。
「夏目先生、おはようございます」
潜書室の古めかしい扉をノックすると、司書がどこか緊張した面持ちで中へ迎え入れてくれた。
「今日は長丁場になるかもしれませんが、よろしくお願いします」
「ええ、覚悟はしてきましたよ」
 申し訳なさそうに頭を下げる司書に穏やかにそう言ってやると、夏目は卓に置かれた一冊の本の表紙にそっと手のひらを添えた。初めて目にする芥川の著書はどこかしら懐かしみをおぼえる装丁に彩られており、生前の自身との繋がりを感じて目元を緩める。夏目の知りえない芥川龍之介の輪郭が、おぼろながらに意識の中にかたちづくられたような気がして親しみを覚えた。
「迷い子を導くのも、年長者の役目ですね」
 呟くと同時に、ぽうっと青白い光が浮かび上がった。
夏目と同じように有魂書の表紙に手を当ててじっと集中している司書からにじみ出る、先生ならもしかしたら、という期待になんともいえない笑みを浮かべつつ、夏目は氾濫する淡い光に包まれていった。

 芥川と過ごした時間はほんの一年にも満たないほどであったが、彼のことは可愛がり、また期待をかけていたことをよく覚えている。けれども夏目の思い入れよりもさらに深く、芥川は夏目を敬愛していたようであるということを、転生してからというもの様々な文士の口から聞いた。己はそこまで敬われるような人間ではない、と引け目に感じながらも、夏目にはその気持ちが素直に嬉しかった。そうして「龍之介君に会いたい」という思いは、夏目の中で日を経るごとに強くなっていったのである。
 だが、自分が居なくなった後に彼がどのような人生を歩んだのかを知りたいと思ったことは、不思議なことにこれまでに一度もなかった。思えば周りの文士達もその話題を避けていたきらいがあったと述懐し、夏目は転生して初めて芥川の生涯について思いを馳せた。視界に映りだした風景が、自然とそういう気分にさせたのだ。
 光に包まれ白んでいた視界がだんだんと落ち着いて、書物の中に広がる風景が露になってきた時、まず目に入ったのは数多くの歯車であった。大小さまざまの歯車が、街並みや街路樹、また道行く人々の姿に織り交ざるように組み込まれている。景色はどこかくすんだ色をしており、たちこめる空気は逼塞して息苦しさを感じさせた。
(これが、あの子の世界なのか)
 見覚えのある街並みを進みながら、夏目は思わず眉をひそめた。ここに長くは居たくないという直感的な拒絶が胸をよぎり、行き交う人々の視線がみな自らに集まってあざ笑ってくるような不快から逃げるごとくに脚を速める。歯車は一所に留まらずにかたちや場所を変えるため、まるで自分にしか見えていない幻覚なのではないかという錯覚さえもたらした。嗚呼この感覚はかつて己を苛んだ神経衰弱に似ている、と思い至り、夏目は手にしていた帽子を目深に被ると惹きつけられるように雑踏から離れた。
 紫煙めいた霧が濃くなってゆく。辺りは都会の街並みから草木の茂る厭世的な景色へと移ろっていた。
 いくぶんか心が穏やかになるのを感じて息をつくと、脳裏に学生服を着た若い青年の姿が浮かんだ。痩身長躯、どこまでも見通したがる眼差し。物腰穏やかな相貌に、理知と憂鬱がヴェールのようにかかっている。笑うと大きめの歯が少し見えて愛嬌があった――あの青年が、この世界を育んだということ。それを夏目は決して訝しくは思わなかった。思わなかったそのことに物悲しくなりながらも、胸のどこかでは愛おしくも感じていた。苦悩のかたちは命のかたちである。これこそが芥川の命であると、ひと足踏みしめるほどにひしひしと感じてゆくのだった。
 夏目は深く迷路のような道筋を行きながら、長くあてどもなく連なる歯車と霧のかなたにじっと目を凝らした。他を拒絶するような冷やりとした空気、肌にまとわりつく憂鬱のとばり、それらの中に混じる蜜のような香りを吸い込む。花のそれに似た香りの後から鼻腔を満たすのは、嗅ぎ覚えのある煙草のにおいであった。視線をめぐらし、それから目をつむって、煙草のにおいの強いほうへと進んでゆく。気づくと足下はぬかるんで、うっすらと瞼を持ち上げれば見渡す限りの蓮池が広がっていた。
うねる丸葉と鮮やかな薄紅のおりなす、広大な蓮池。水草や藻で埋め尽くされた濁った水面にかすかに覗いた澄んだところは、灰色がかった青空を映して、また所々きらきらと歯車の光を反射して、それが特有の大きな葉を裏側から照らしてほんのりと明るく透かされている。やわらかく濃い、緑色の器のようになっている葉の中心には玉のごとき水滴が溜まって、これもはらはらと輝いている。
 それらの上に花咲く薄紅は、この世のものではないほどに幻想的で美しかった。花弁の先端は濃い色をしているが、中心へゆくほど白く透き通っている。合わせた掌を優しく開いた様にも似たうてなの中に、金色の花托が香るばかりのまばゆさで抱かれている。
(これもまた、あの子の世界なのだ)
 ほう、と我知らず溜息をつき、夏目はどこまでも広がる霞みがかった蓮池をぐるりと眺めた。きらめく歯車にもう恐ろしさは感じなかった。かすかにそよぐ風に揺れる蓮の花を静かに撫でながら、この世界のどこかでひとり眠っている弟子を想った。


 ――どこかから声が聞こえる。
 紫煙ゆらめく蓮池の奥、まどらかな緑葉に隠されるようにして丸まって横になっていた芥川は、鼓膜を震わせた響きにぴくりと肩を震わせた。ひどく眠たく指のひとつも動かせないと思っていたのに、どうしてか自由になった右手はぬるま湯のような池の水をぱしゃりと掻いた。
 重く気だるい体を起こすと、自らをとりまく歯車がカラカラと乾いた音をたてた。煙草の煙であるのか霧であるのか判然としないおぼろな白いもやの中で、蓮の花が歯車のはじく光に照らされて薄紅に輝いているのが見える。気まぐれに目を覚ますと、視界に映るのはいつもこの景色だった。ここに居ると芥川の不安や焦燥は和らいで、短い覚醒の後にいざなわれるように眠りのうちに落ちてゆく。それをもうずっと繰り返していた。
 どれだけの時を、こうしてまどろみの中に過ごしていたのか知れない。このところ時々誰かが自分を呼ぶ声を聞くことがあったが、こんなに近くで耳にするのは初めてだった。聞き覚えはなかったが何故か懐かしい、時計の振り子が鳴らす音のように心地の良い声であるように思った。
「龍之介くん、ですか」
 はたと振り返る。
 霞みのむこうからやって来たらしいその男は、被っていた帽子を外すと小首をかしげるように会釈をした。すらりとした痩身で、上等そうなスーツを着こなしている。芥川は未だにぼんやりとした頭で彼をじいと観察し、それからじわりと眉を寄せた。それは不審から来るものではなく、言い知れぬ動揺がもたらした表情であった。
「貴方は……まさか、」
「はい、私ですよ。夏目です。覚えていますか?」
 その名を聞いてようやっと目が覚めたように、まなこを見開く。ガラス玉よりも澄んだ水色の瞳が夏目を映した。
「せんせい」
 小さく呟いた声に、嬉しげに彼の口元がほころぶ。その笑い方に懐かしみを感じ、嗚呼まごうことなき夏目先生だと確信した。姿かたちは変わっても、笑い方は変わらない。――この人は自分が敬愛した夏目漱石その人である。
 ゆっくりと立ち上がると、芥川の着物の裾にまとわりついていた歯車がするりするりと退いて、夏目の元まで道を作るように蓮葉を動かした。虚ろだった目にほんのりと光がきざし、自分を見つめる榛色の瞳とはっきり目が合った。一歩踏み出すと長い髪が流水のように地をすべり、ピアスや服の金具がしゃらしゃらと鳴った。
 夏目も静かに歩み寄り、握手を求めるように右手を差し出した。震えながら両手でその手を取る。夏目はにこりとほほ笑んでから、じっと芥川の顔を見つめ、空いたほうの手のひらでそっと頭を撫でてきた。その感触のやわらかさ、体温の温かさにひどく驚いた。
「きみの力が必要なのです」
 しばらくして神妙そうに告げられたその言葉に、芥川は怪訝そうに表情を曇らせた。目を伏せ、首を傾げる。
「僕に、できることなどあるのでしょうか」
「ありますとも、龍之介君」
 夏目はそうきっぱりとした声で言い、深く頷いた。
「今現実の世界では、文学作品を存在ごと消し去ろうとする者が現れて我々の作品を脅かしています。勿論きみの作品もです。 私達は再びあちらの世界に命を与えられ、その者共と戦っているのです」
芥川は聞きながら眉をひそめ、憤りをにじませた。文学作品を消し去る。その行為は驚くほどに自らの胸を義憤めいた想いに駆り立てた。芥川自身の作品如何についてではなく、かつて交流を深めた文士、将来を期待していた後進の若者、そして他ならぬ夏目漱石の作品までもが危機に晒されているということが許せなかった。
「共に戦ってくれますか、龍之介君」
 気づくと頭を撫でていた手は、握手をしていた芥川の手の上に添えられていた。握りあった両手からじんじんと伝わる温かい熱が、芥川の魂に生気を与えてくれる。
「きみが戦うのを快く思わないなら、ただ転生してくれるだけでも構いません。あちらには、きみに会いたがっている人がたくさんいます。皆待っているのですよ。……それにね、あちらの世界には、面白いものがたくさんありますよ。書物も、舞台も、甘味も、私達の知らないものが沢山あります。きみもきっと気に入るのではないかな」
 優しい口調で、おどけるようで真面目な不思議な声色で、夏目はゆっくりと語りかけた。言い聞かせるふうなのに押しつけがましくない響きが、ずいぶんと懐かしい。
 夏目の笑顔をすこし泣きそうな顔をして見上げると、芥川は「ほんとうに、先生なのですね」と噛みしめるように呟いた。ふにゃりと笑う頬を、再び夏目の細い指が撫でた。可笑しむように頷いた師のまなじりに、柔らかい皴が刻まれる。生きているのだと思った。
「僕にその戦いというのができるのか、正直なところ不安ですが……夏目先生、貴方がいる世界なら、僕にもきっと生きられるでしょう」
「ふふっ、きみは私を買い被りすぎていますよ」
「いいえ……先生はずっと僕のしるべでした。貴方が世を去ってからも、ずっと、ずっと」
 消え入るような言葉の端を飲み込むと、芥川はひとすじ涙を流して夏目の両手に静かに額をつけた。
 はにかむように目を細めていた夏目は、ふと視線を持ち上げて辺りを見回した。淀んでいた空気はさあさあと清涼となり、薄曇りであった空は真夏のような群青色を広げ始めている。歯車は未だにそこかしこに在ったが、息を潜めるようにじっとしているようだった。
 群青の空からするすると、透明にきらめく糸が降りてくるのが見える。顔を上げた芥川は幾分か驚いたように瞠目したのち、先生、と声をかけてその糸の先を掴んだ。柔らかくほほ笑んだ芥川の顔を夏目が見つめるのと同時に、浮遊感と共に視界はまばゆい光に包まれていた。

 再び目を開いた時には、もうそこは見知らぬ場所であった。西洋的な書棚が壁一面にびっしりと並ぶこじんまりとした部屋の真ん中に、不思議に長細い卓がひとつだけ置かれている。そこに鎮座する一冊の本が、今まで自分が眠っていた世界であったのだということを芥川は知っていた。
「龍! お前本当に龍なんだな!」
「よかった、転生できたんですね芥川さんっ」
「おかえりなさい、さすが夏目先生です」
 しばらくすると、開いた扉からどっと押し寄せるように若い男たちが入ってきた。誰もかれもが見知らぬ容貌をしていたが、物言いや表情などからなんとなく誰であるか察しがついて、芥川は胸が温かくなるのを感じた。自分を待っている人が居るということが素直に嬉しかった。
 皆の歓迎を受けて柔らかくはにかむ芥川を、夏目はほほ笑ましげに少し離れて見守っていた。




 ニ


 木曜日になると夏目の部屋に文士が幾人か集まるようになったのは、芥川が転生して一月ほど経った頃のことである。誰からともなく木曜会という懐かしい呼称をつけられたその集まりに訪れる面子というのは日によってまちまちであったが、芥川、菊池、志賀、武者小路はほとんど毎週のように顔を出していた。そうして芥川の影響を受けた堀と、余裕派のよしみである正岡と森なども時折ひょいと顔を出しては、皆にとっての良き刺激となっていた。
「はあ、今日もよく語らったねえ」
 武者小路がにこにこと満足げな顔をして歩いてゆく。そこに並んだり後に付いたりしながら、志賀と菊池、芥川は連れ立って夜の廊下を進んでいた。夏目の部屋を辞したその足で食堂へと向かっているのだ。どうにも話が尽きないので、こうして場所を移すのがここ最近の常となっていた。
「夏目先生はずいぶん丸くなったよな」
「そうだなぁ。昔の癇癪も出ないし。やっぱり頑固なところはあるけど、今のほうが話しかけやすいよ」
 そう頷きあう志賀達の斜め後ろで、芥川も静かに首肯する。そうして木曜会での夏目の様子を思い起こした。
 穏やかでユーモラスで皆を楽しませ、また時に鋭い視点で皆をあっと言わせたりする、生前からそれは彼の性質だったけれども、転生してからは激しい気性が抑えられている分、とっつきやすさが目立っているように思う。
 それから特筆すべきことには、生前よりもずいぶんと茶目っ気が出た。昔からわざと可笑しげなことを言ったり手紙に書いたりはする人だったが、今生ではそこにわざとらしさもなく、極めて素でそうしているようだったから、余計に不意を突かれることがあって驚いてしまう。そんな夏目を見るたびに、芥川はなにか胸が弾むような心地がするのだった。
「そういえば、太宰も木曜会に興味を持っていたな」
「え、あいつが?」
「芥川くんに会いたいだけじゃないの?」
「まあ夏目先生は拒みはしないだろうけど、龍はどうだ」
 呼ばれて、ふっと顔を上げる。菊池と目が合った。
「太宰? ああ、あの赤い子。僕は彼のことよく知らないんだけれど……別にいいんじゃない?」
 柔らかいが大して気のない声色に、皆が苦笑した。
 ひとり一歩遅れて歩きながら、再び夏目へと思考を戻してゆく。自分と和やかに楽しそうに話しをしてくれる先生は、外見の違いも少なからず影響しているだろうが、確かに生前よりも身近に感じることができるように思われた。
そうして芥川にとって幸いだったことには、この図書館で彼の弟子と呼べるような人間は芥川しかおらぬということだった。かつて漱石山房に通い熱く夏目先生を信奉した先輩方、同朋、その誰も未だに転生の兆しすらないのである。だからこそ芥川は彼の弟子という立場を、恐れ多くも占有し、満喫することができていた。自惚れでなければ夏目もまた、芥川にはひとつ深い慈しみや親しみをもって接してくれているような、そんな雰囲気を感じていた。龍之助君、と呼ばれるたびに芥川はそう感じるのだった。

――あの先生に、自分の自死について知られたくはない。悲しませたり困らせたりしたくない。
 芥川の顔にふっと影が落ちた。この図書館に転生してからずっと胸の隅で渦巻いていた憂鬱と不安がおもむろに、蛇のように首をもたげたのを感じた。
 食堂棟の入口で一服してくると言って表に出ると、星の少ない夜空に氷河のごとき雲が連なって浮かんでいた。吐き出した息はほんのりと白い。しんしんとした寒空は、かつて夏目が逝去した日のそれによく似ている気がした。

“牛になる事はどうしても必要です。吾々はとかく馬になりたがるが、牛には中々なり切れないです。僕のやうな老獪なものでも、只今牛と馬とつがつて孕める事ある相の子位な程度のものです”

 いつか先生が手紙に書いてよこしてくれた言葉が、芥川の脳裏にあざやかに蘇った。それを語る前世の彼の声までもが聞こえるようだった。

“あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません”

 優しく諭すようなその声は、夜のしじまに静かに溶けてゆく。肺腑に溜まっていた煙を空に逃がすと、芥川は空を仰いだままきつく目を瞑った。
(貴方の教えを、僕は守ることができませんでした)
 新たな煙草を吸いながら、冷えた夜の底にひとり佇む。どこかで歯車が回る音を聞いたような気がして、自嘲気味に笑うとかぶりを振った。夏目の温かなかんばせを想起すると、無性に胸が締め付けられる心地がした。



「おうい、昼飯に行こうぜー」
 開架書庫で読書に耽っていた夏目の頭上から、明るい声色が降ってきた。顔を上げるといつもの金属バットを担ぎ、グローブをぶら下げた正岡が立っている。どうやら外へ出ていた帰りらしい。土の匂いを纏わせた彼はいかにも腹が減ったという顔をして、今日の献立は何だっけなあなどと呟きながら夏目を視線でうながしていた。
 健康をこれでもかというほどに謳歌しているらしい親友に笑みを浮かべると、夏目は読みかけの本を抱えて立ち上がり、連れ立って食堂へと向かった。
「あいつ、お前の弟子なんだってなあ」
「弟子という呼び方が正しいか分からないけれど、まあそうですね。僕を先生と呼んでくれているよ」
「漱石殿、そこは弟子と言ってやったほうが良いだろう。今の言葉を芥川が聞いたら悲しむかもしれないぞ」
 食事を終えてから、ちょうど居合わせた森を交えて話しをしていると、自然と夏目が持っていた本の話になった。芥川龍之介という名に反応した正岡に、夏目と森は各々の正直な心持ちを述べる。森の意見にそうですねと笑うと、夏目は湯呑の緑茶をゆっくりとすすった。
 余裕派と呼ばれながら生前は一堂に会したことのほとんどなかった三人は、暇があればこうして席を共にするようになっていた。
「彼は今でも不眠や頭痛には悩まされているようだが、貴方の話をするときは表情が明るくなるようだ。こちらに来ても、変わらず慕われているようだな」
「そうですか、森さんが言うならばそうなのでしょうね」
 穏やかに返しながら、不眠や頭痛というフレーズにかすかに目を伏せると、先刻読んでいた作品について回想する。芥川の晩年の作品であるというそれは緻密さに欠け、憂鬱と不安の色濃く表れた文章は、夏目の知る芥川の作風とはずいぶん異なっているように感じた。
 正岡はもちろんあれを知らないだろうし、森は逆にきっと知っているだろう。芥川の作風の変遷について詳しく聞いてみたい気持ちはある。しかし森もまた他の文士にたがわず、芥川の晩年、とりわけ最期については夏目に話さないようにしているきらいがあった。訊かないでほしいという言外の思いを以前から感じていた夏目は、これ以上彼の話題に踏み入れることなく話を逸らした。

――尤も、おおかたの想像はついているのだ。
 少し前のことになるが、機関誌などが収められた書庫でたまたま室生と萩原と一緒になり、話しをする機会があった。余人の姿が無かったためか、晩年の芥川と親しく交流していたという彼らは些かためらいがちに夏目に声をかけると、こう言ってきたのだ。
「読んでいるって、言ってやってはどうですか」
「気づいているんでしょう?」
 まるで主語のない言葉であったが、言わんとしていることが夏目にはよく分かった。複雑そうな顔つきで見つめてくる少年の姿をした二人に、生前の、そして今の芥川への親しみと気遣いを感じて目を細めた。それから薄く唇を開くと、囁くように暗唱した。
「見る者は默し、うなづき、そして皆行き去るだらう――」
 はっとして萩原は顔を上げ、夏目をまじまじと見た。
「お読みになったんですか」
 この一節は、萩原が芥川の死に際して執筆した文章の結びの部分にある。これを知っているということは、夏目は芥川の辿った人生について、もうほとんど全てを知り得ているということを示していた。
 しい、と唇に指をあててやんわりと笑うと、夏目は手にしていた書物を閉じて棚に戻した。二人は言葉を探しあぐねているのか、丸いまなこでそのさまを見つめていた。何を考えているのかよく分からない表情と言われることのある笑みは、彼らにも同様の不可解さを与えたようだった。
 いくぶんか困ったように眉を下げ、ふっと視線を遠ざけると、夏目は「あせってはいけませんから」とだけ答えて書庫を後にしたのだった。

 芥川が選んだ人生について、口を出すことは夏目にはできない。出そうとも思わなかった。生前ならばいざ知らず、今ではもう過ぎてしまったこと、前世のことなのだ。また同じ道を選ぼうとするならば止めるつもりはあったが、過去のものごとに言及するのはひどく詮無いことではないか、夏目はそう考えていた。
 しかし、その思いをきっと芥川は知らない。
 繊細で深慮であり、なにごとにも思い悩む癖があるのは昔からそうだった。きっと要らぬ心配までしていることだろう。あの子が話そうと思える時が来るまで待つべきか、それとも室生たちの言うように自分のほうから呼び水となるべきか、夏目には判ずることがまだできないでいた。
 夏目は芥川を信頼している、あの子は聡明で思慮深く、ぼんやりしているようでその頭脳はめまぐるしくきりきりと動いているのをよく知っている。生前、師として大したことはしてやれなかったが、今度は芥川の成長をそばで見守りたいと思っているのだ。だからこそ彼の頭脳の、心の働きを、できうる限り阻みたくはなかった。自分が教え導いていた頃とは違い、彼は今やひとりの文士として世に名を馳せた男である。彼の深慮なる意思をこの手で壊してはならないという、年嵩なりの敬意と逡巡の入り混じった思いが、初めから夏目の胸中にはあった。
 それにしても、どうにも言い訳めいてはいないだろうかと息をつく。自ら能動的に動くことを苦手とする、前世から変わらぬ性分に苦笑した。




 三


 風が温もりをはらんでいる。
 まだ春と呼ぶには早かろうが、雪の気配がすっかり取り払われた帝國図書館には、朗らかな日差しが注いでいる。そろそろ新たな季節が訪れようとしていた。
 窓を開けて煙草をふかしながら、遅咲きの梅が濃い紅を散らしているのを見やると、芥川は灰皿に煙草を押し付けた。ああ、と意味のないだらけた音を漏らして椅子の背にのけぞると、長時間同じ姿勢を強いられていた背骨がみじめな悲鳴を上げた。
どうにも、手紙の返事が書けないのである。
 以前も猫のぬいぐるみについて尋ねられておおいに驚き、そして頬が緩んでしまったのだが、今回も驚かされた。体に障るといけないから甘味を少し控えてほしいと頼んだ芥川の手紙に対し、夏目はそれだけはできないと言い切った上で、きみだけは味方と信じていますよと書いて寄越したのだ。
 どうしてあの人はこうも息をするように甘えてくるのだろうか、無意識なのだろうか、弟子として僕はどうすればいいのか――そんなことをつらつら考えているうちに一日経ち、二日経ち、すっかり返信のタイミングを逸してしまった。昔から手紙を書くのが好きな人だったから、きっと書いて満足しているのだろうけれども、と思いながらも悶々とする。こんなに悩んでいることが、そもそもの悩みの種であった。

 近頃どうもおかしい、と訝ることが増えた。
 夏目には決して自分の人生について知らせたくないと思うかたわらで、反対に全てぶつけたい衝動が増していくのが分かるのだ。今回のように彼が己に心を開いてくれていると感じるたびに喜びが胸に咲き、こちらが過去をさらけ出しても受け入れてくれるかもしれないという期待は膨らんでいくばかりだった。
 そういう中で、夏目を少し困らせてしまうこともあった。気なしに会話をしている時に「先生」と呼び止めてしまってから、言い淀んで見つめ合うということが何度かあった。そのたびに夏目は窺うように深いまなざしを生み、
「龍之介君、何か私に言いたいことがあるなら、遠慮なく言っていいんだよ?」
 と言ってくれるのだった。
その言葉に表しようのない感情のほころびを感じながらも、芥川はいえ何でもありません、とほほ笑んで首を振るのが常であった。
(やはりこればかりは言えない。優しい貴方を困らせたくはない。――二度と、手放したくはない)
 瞬間、火花にも似た感触がみぞおちに宿った。
 のけぞった姿勢から戻ると、芥川はどこか呆然として、それから一点を強く見つめるような表情でしばらく固まった。慕い頼りたいという気持ちの外に、あの人を守り愛でてたい、あわよくばもっと頼られたいという欲が自らの胸に芽吹いていることに突如として、それはもう青天の霹靂のように、気がついたのだ。
 次に脳裏に閃いたのは、どこか遠くへ去っていく夏目の後姿であった。まざまざと浮かんだその光景に寒気がして、きつく手を握りしめる。
(これは、単なる師に対する感情ではない)
 愕然とした。
 覚えのある胸のうずき、愛や恋という名のもとに甘く苦くこの身を苛んだ感情のうねり、それらに伴う前世の記憶がつぶさに蘇り、こめかみを押さえると芥川は背を丸めて机に突っ伏した。
(どうして、どうして僕は)
 彼に気取られてはいけないことがらが、これでまた増えてしまった。この慕情を知られたならば、先生は自分にもう心を開いてはくれないかもしれない。
 感情を押し込めることが存外苦手な芥川にとって、この自覚はひどく苦しいものだった。伝えてしまったならば楽になるだろうかという思いが、無いわけではなかった。しかしどのように割り切る算段をつけたところで、報われぬ思いは行き場を失くすだろう。身が引きちぎれそうな切なさを味わうことになるだろう。その惨めな感慨の前においては、あらゆるきれいごとは意味を持たないだろう――
 そう考えると、黙っているしか道はなかった。

 夏目に対する恋情を自覚した次の日から、滑稽なほどに彼を意識する日々が幕を開けた。
 顔を合わせれば鼓動が騒ぎ、隣に座るだけでも居たたまれなくなる。食事の席を共にした時など夏目の口元にばかり目が行って、ろくに箸が進まないこともあった。転生する際に手を握ってもらった記憶を温かい後生の宝のように思っていたのに、今となってはあの人と触れ合っていたということが信じられない。それほどに芥川の中で夏目漱石という存在が、想い人として特別になってしまっていた。
 彼が誰かに笑いかけていると無性に苦しく、自分に笑いかけてくれると無性に嬉しく、そしてやはり苦しい。そのほほ笑みを僕だけのものにしたいという幼稚な独占欲が、ことあるごとに顔を覗かせては芥川を苛んだ。
 時には夢の中で、夏目を抱きしめて愛を囁くことさえあった。そうした日はもう一日中死にたいような気持ちで、けれども夢の中で感じた幸福感はどこまでも消えないのだった。夢の中で愛おしそうに恥じらいをもって自分に身を委ねる夏目のかんばせを思い起こすたび、彼への罪悪感が湧き上がった。あれは間違いなく、己の願望であった。
(これでは、思春期の少年よりもあさましいじゃないか)
 どうにかしなければと思った。
 少しでもこの煮詰まった恋から逃れようと、芥川は募る心情を全て日記に書すことにした。本当は誰かに相談でもするほうが良いのだろうが、そんな気にはなれなかった。
 分厚いノートを買い、そこに万年筆で崩れがちな筆記体の英文を連ねてゆく。できるだけ文字を読みづらくしたのは、万が一誰かに見られてもすぐには判読できないようにするだめだった。日記といっても文体はほとんど手紙に近く、炭火のように燻っては燃える想いを写し取って閉じ込めるように綴ってゆくと、あっという間にページは埋まっていった。
 汲めども尽きせぬ湧き水のような感情は、それでも文字にすることで落ち着かせることができた。こうして言葉にして逃がす先があること、己が物書きであることを芥川はこの上なく有難く思った。

 そうやって気持ちに折り合いをつけようとしていた、ある日のことだった。引き出しの底に隠すように仕舞っていた日記の表紙が黒く染まりかけていることに気がつき、芥川はまなこを見開いた。洋墨で汚れたわけではない。この黒色はよく知っているものだった。
(侵蝕を受け始めている)
 芥川の胸に、まるで安堵のごとき感慨が走った。
 単なる個人的な日記に過ぎないものがどうして侵蝕者の標的になったのかは分からないが、これはちょうどいい、このままにしておけば僕の劣情は消えてなくなってしまうかもしれない。そう思ったのだ。
 己の思考に対するひとひらの否定を心の奥に押しやると、芥川は日記帳の上にいくつも雑紙などを置き背表紙が見えないほど埋めてから、ぴったりと引き出しを閉めた。
 これで劣情ごと封印してしまいたいと、願った。
 その日から、夏目と対面しても以前ほど感情を揺さぶられることも、焦がれる心地になることも少なくなっていった。木曜日になれば部屋を訪れ、文学や世相について皆と語らい、食堂では他愛ない話をしながら食事をし、時に甘味に舌鼓を打った。潜書では同じ会派に配属されることもあり、その際には率先して夏目の援護をした。それらの行動全てが弟子としての純粋な感情からであることを、芥川は確かに嬉しく思っていた。
 これこそが夏目先生との、あるべき関係である。
 深い安堵とおぼろげなものさびしさを感じながら、芥川は少しずつあの日記のことを忘れていった。


 うららかなる季節がやってきた。
 ほころび始めた桜の蕾が色づき、まどろみを誘う日和は体のすみずみまで入り込んで、どこまでも気持ちを緩ませてくる。近頃ぼんやりしたり眠くなったり、潜書中に耗弱しやすくなることを、芥川は何もかもそうした春の気候のせいだと思い込んでいた。
 しかしさすがに一日中起きてこなかったり、何もしていないのに気付くと耗弱状態に陥っていたりということが続くうち、何かおかしいと自他共に感じずにはおられなくなった。心配する周囲がどうかしたのかと尋ねても、芥川は困ったように笑って首を横に振るだけだった。はぐらかしているわけではなく、本当に原因が分からないのだ。
「なあ龍、本当に大丈夫なのか」
「何がだい?」
 のんびりといらえた親友に、菊池は顔をしかめた。
「調子悪いんだろ、ちゃんと森さんに診てもらったのか」
「ああ。体に問題はないそうだよ。司書さんにも確認してもらったけど、転生体として欠陥はないとのことだ」
 一体どうしたのだろうね、と呟きながらんでいた煙を吐き出し終えると、芥川は飄々とした調子で続けた。
「午後の潜書は寛と夏目先生も一緒だったね。……寛、このことはくれぐれも先生には言わないでほしい」
 結果として、その時に芥川の頼みを承諾したことを、菊池は後悔することになった。
 侵蝕者と戦闘中、芥川はふっと力が入らなくなり刀を取り落とし、その芥川を庇って近くで交戦していた夏目と正岡が重傷を負ったのだ。会派はそれ以上進めなくなり、咳き込み洋墨を吐く正岡を菊池が支え、虚ろに脱力している夏目を芥川が抱えて撤退したのだったが、そのさなかに夏目が口にした言葉は芥川にひとかたならぬ衝撃を与えた。
「先生、もうすぐ戻れます、頑張ってください」
 そう表情を切なく歪めて呼びかける芥川に対し、
「きみは……誰でしょうか」
 おぼつかない口調で、夏目はこう応えたのだ。
 何も映さない榛色の瞳に絶句し、恐ろしさを覚え、それきり芥川は彼に声をかけることができなかった。
 喪失による記憶の混濁であると理解はできても、感覚的な恐ろしさはなかなか拭うことはできない。医務室へ向かい、夏目の補修が終わるまでの間、まるで生きた心地がしなかった。備品の丸椅子に腰かけ補修を待ちながら自責の念に顔をしかめ、忘れること、忘れられるということはこんなにも苦しくおぞましいのかと心底ゾッとした。
「あれ、芥川さん……その本おかしくないですか?」
 そうやって項垂れていた時、芥川を心配して医務室を訪れていた堀が声をかけてきた。彼の視線の先に目をやって、あっと芥川は息を飲んだ。常に持ち歩いている本、こちらに転生する前に芥川が眠っていたそれの表面がぼろぼろになり、角のところが崩れかかっていた。
――嗚呼そうだ、あの日記。
 俄かに脳裏に蘇った記憶に、芥川はガタンと音が鳴るのも憚らずに慌てて立ち上がった。
 冷や汗が背筋を伝った。

 崩れかかった本を懐に入れて司書室に赴き、わけを話している間中、司書はずっと難しい顔をして静かに話を聞いていた。そうして芥川がひと通り説明し終えると、しばらく考えてから慎重な口振りで、
――その日記に綴られた感情は今の転生体としての芥川を組成するうえで不可欠なものであり、侵蝕のために日記が消えると芥川の存在も危うくなるおそれがある。前世の芥川龍之介やその著作については問題ないが、転生した芥川については絶筆する可能性が高い。
 おおよそこういったことを述べた。
「なぜ放っておいたんですか」
「それは……消えてほしい想いが、ここにはたくさん詰まっているからね」
 目を伏せて答えた芥川に、司書はもどかしげな溜息を漏らした。自己判断で侵蝕を放置したことへの憤りと、芥川を慮る心情が綯交ぜになっているようであった。
「今すぐ浄化したほうがいいでしょう」
「少し、考えさせてくれないかな。僕はまだ転生して日も浅い……今消えてもさして困らないはずだよ。あの日記に綴った感情を取り戻してしまったら、僕はまた別の苦悩に夜も眠れなくなってしまうと思う」
 自嘲がちにほほ笑んだ芥川は、柔らかく、しかし有無を言わさぬ語調でそう言い切った。その言葉に司書は眉をひそめたが、ついに何も言わなかった。日記に込められた感情について深く尋ねてこなかったことに、芥川は内心感謝をした。問われてもきっと、答えることはできなかった。
「……一週間を期限とします」
 渋々こう告げた司書に、芥川は目を細めて頷いた。
 例え今の芥川が絶筆し、何度転生し直したとしても、今と同じ状況になるかもしれない。そういう予感は双方の胸に強くあったが、どちらも決して口には出さなかった。



 五


 一週間を過ごしきらないうちに、芥川は倒れた。
 医務室に運び込まれた時にはもうひとりでに喪失状態となっており、絞め殺してくれとうわ言を言いながら苦しげな面持ちで眠りについてしまったきり、目覚める気配がなかった。すぐに補修を行うもあまり効かず、点滴で流し込んだ洋墨は芥川の体内で侵蝕を受けてしまっているようであった。訝しむ森、菊池、堀には司書が事情を説明した。皆一様に驚きに目を見張ったが、菊池だけはどこか納得したような顔をすると苛立たしげに虚空で腕を振った。
「もうあの日記を浄化するしかありません」
「俺が取ってくる」
 そう言って菊池が走り出ると、入れ替わりに夏目が医務室を訪れた。芥川が倒れたと聞いたのだろう。寝台に横たわる弟子の有様を見つめると、彼は青ざめた顔をして呟いた。
「龍之介君、一体どうして」
「……夏目先生には言わないでほしいと、口止めされていたのですが」
 司書から日記に関する説明を聞くと、はっとショックに表情を歪めて夏目は寝台に歩み寄り、芥川の手をそっと握った。冷たい体温が這い上がってくる。この冷やかさも、淀んで侵蝕を受けた墨の文字が肌に浮かんでは消えているさまも、まごうことなき喪失状態のそれであった。
「龍之介君、きみは何を、そこまで」
 ひとりごちるように囁くと、思いがけず反応があった。
「せんせい、」
「! 龍之介君っ」
「すみません、許してください……」
 顔を覗き込む。しかし芥川は目を瞑ったまま、ほとんど魘されるようにそれだけ呟くと、また深く眠りに落ちて行ってしまった。その頬に浮かんだいびつな侵蝕を受けた文字に痛ましげに顔をしかめ、夏目は再び芥川の冷えた手をぎゅうと握りしめた。
少し経って、日記を取りに行っていた菊池が戻って来た。手にしている日記帳はもう装丁のほとんど全部が黒く侵蝕されており、ずいぶんと放置され続けてきたのだと容易に窺うことができた。
「かなり穢れちまってるが、これは……夏目先生、浄化するなら貴方が潜ったほうがいいかもしれないな」
 どこか言い淀みつつ述べた菊池に、夏目は首を傾げた。
「どういうことです?」
「さっき少し読んだんですよ。ここに書いてあるのは多分、ほとんどが先生のことだ。あいつの気持ちが強すぎて、魂が籠ったんじゃないか」
 菊池の言葉を受け、森が眉間に皴を寄せた。
「なるほど、それで侵蝕者の標的となったわけか」
 司書は黙って話を聞いていたが、頷くと、以前芥川に話した仮説を断定形として皆に説明した。その日記に記されている事柄、どうやら芥川の夏目に対する感情は転生した芥川の根幹を成すもので、侵蝕され尽くしてしまえば芥川も存在できないのだと。
「すみませんが、先生。この日記を有碍書とみなして潜書していただけないでしょうか」
 夏目は険しい表情で日記をぱらぱらとめくり始めたが、そうしているうちにもどんどん黒く塗り潰されゆく文面はやがてどのページも判読できないほどになってしまった。
「こんなに私に伝えたいことがあったのなら、なぜ……」
 日記を見つめ、下まぶたを切なげに盛り上がらせてから、夏目は双眸をじっと見開きしばし何かを考える様子を見せた。その場の面々が固唾を飲む中、やがて彼は眉根を寄せて精悍な顔つきになると背筋を伸ばし、黒く染まった日記帳を大事そうに胸に抱えた。
「分かりました、行きましょう」

 自室で潜書の準備をしながら、夏目はぽつりと呟いた。
「正岡、きみはどう思う? 龍之介君はどうして私に何も言わなかったのだろう」
「さてなあ……彼は繊細で思いつめるようなところがあったんだろう。お前に迷惑になると思ったんじゃないか」
 夏目が一人で潜書すると聞いて心配してやって来ていた正岡は、手慰みにいじっていた金属バットを持ち直してそう答えた。少し掠れがちな彼の声を聞いて、夏目はいくばくか心が平常になるのを感じた。
「僕は、師として情けないよ。もし自殺に関することなら、もっと早く僕から話しを聞いてあげるべきだった」
「夏目、今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ。過ぎたことをあれこれ言っても始まらないぞ」
お前達は似た者師弟だな、と片眉を下げて笑う正岡に顔をしかめてから、夏目はため息をついて薄く笑った。敵わないと思った。自覚したことはなかったが、確かに正岡の言う通り、自分達は似通ったところがあるのだろう。
「しっかしお前は幸せ者だなあ、夏目。そんなに弟子に愛されるなんてな」
その言い草に思わず噴き出す。きみに言われたくないよと肩をすくめると、からりと数度笑った親友に背を叩かれて、その勢いに押されるようにして潜書室へ向かった。

 潜書室の古めかしい扉を開くと、司書の他に堀、菊池、太宰が中で待っていた。みな三者三様に芥川を心配し、夏目に希望をかけているのだ。一度彼を失っているからこそ、もう二度と同じ悲しみは味わいたくないという想いを彼らのまなざしからひしひしと感じた。
 部屋の中央に設えられた卓に置かれた日記帳を見つめると、夏目は静かにそこへ歩み寄った。
 芥川を失いたくないのは、夏目とて同じだった。転生した彼をかたちづくっている芯が自分への感情であるというのなら、なおさら自分が、前世では先に死んだためにできなかったこと、あの子を生かすということをしてやらねばならないと思った。
「それでは、後を頼みます」
 表紙に手を添える。赤い光が禍々しく全身を包み、そのぎらつきに飲まれるようにして夏目の姿は消えた。

 手にしていた本から文字が溢れ、剣へと姿を変える。
 侵蝕された書物に潜る時にはいつも、光の中を下りてゆくさなかに何者かの視線を感じる。内側に巣食っている侵蝕者が、侵入してくる余所者を排除しようと機を窺っているのだろう。この日記帳は有碍書にしては内部の空気や視覚的な印象が柔らかいように思われたが、それでも例外なく件の視線は夏目に注がれていた。

――先生、貴方がいなくなってからの十年間を、僕は貴方への想いを募らせて生きてきたのかもしれません。

 不意に声が聞こえた。
 それは聞き間違いようのない、芥川のものであった。夏目は慎重に地面に足をつけながら、声の主を探そうと視線を巡らせた。しかし人影らしきものは見当たらず、ただどこからともなく彼の優しげな声だけがやってくる。
 散る花びらのように風に乗り、夏目の頬をかすめてはほどけてゆく言葉の切片。それは素直に受け取るのならば、自分に語りかけているとは思えないような恋情の発露であった。予想と異なる言葉の数々を聞き、困惑に眉をひそめながらも、こんなに優しく甘やかな言葉をあの子が紡げることに夏目は驚きを隠せなかった。
 侵蝕者をいくつか倒しているうちに、ひどく懐かしい景色が眼前に広がっていた。そこはかつて夏目が住んでいた居宅に違いなかった。深緑の生垣も石の門柱も、うらぶれた風情の屋根瓦もまるきり昔のままの姿である。季節は冬のようだったが、不思議と取り巻く空気は冷たくない。
 
 彼が眠っていた本とは異なり、ここでは穏やかで温かい世界が広がっているらしかった。
 夏目と芥川が初めて会った季節、それからの幾度とない木曜日の訪問、やりとりをした手紙、久米君を交えての談義、それらの思い出をなぞりながら語られる芥川の思慕とも恋慕とも取れる感情を聞いているうちに、夏目も面映ゆさと懐かしさに頬を緩ませた。不思議なことに、それらの温かく明るい思い出が展開されている間は侵蝕者の姿を見ることはなかった。
 やがて景色は移ろい、二度目の冬がやって来た。夏目の危篤の報を受けてひた走る芥川、うすら寒い空の下で行われた葬儀の日、そうして墓参。転がるように目まぐるしく移り変わる情景の中で、みるみる間に気温が下がり、景色から色が失われていくのが分かって夏目は表情を曇らせた。辺りからざわりと侵蝕者の気配を感じた。
『あの時僕は、どうしてもっと生きてくださらなかったのかと、暗澹たる思いでした』
 いつだったか芥川がそう話してくれたことを、ふと思い出した。まさしく今見ているのは、夏目が他界した時期の芥川の心情そのものなのだろう。暗く冷たく、色あせてどこかへ引きずり落とされるような不安を湛えている。
 現れた侵蝕者をまたいくつか斬り、夏目は歩調を速めると最深部へ向かって進んだ。だんだんと侵蝕が酷くなってゆき、景色が景色としてのていを成せなくなってゆく。
 からからと乾いた音とともに歯車が現れだした頃には、もう周囲のほとんどは灰色がかった靄に包まれてしまっていた。ぐっと胸が締め付けられる思いがして、みぞおちのあたりを押さえながら夏目は剣の柄を強く握った。どちらを見ても靄ばかりで、あてどもなさと不安がひしひしと伝わってきた。途切れがちに、それでも響いてくる言葉はひどく切なく、夏目を失った悲しみに満ちている。
 そんな中で、ひとところだけ光っている場所があることに気がついた。温色の清げな光がほろほろと煙のような靄を照らしている。すぐにそちらへ近づいていくと、夏目は瞳に映った光景にあっと思わず声をあげた。
そこに居たのは、前世の夏目漱石であった。
 いつも自宅で着ていたような簡素な着物を纏い、どこかを見据えるようなまなざしでじっと佇んでいる。彼の周りには温かい光を放つ文字がふわふわと浮かんでおり、それらは彼を取り巻くようにして侵蝕から守っているように見えた。その中に慕、愛、敬、といった文字のかたちのあるのを見て、ふと夏目の胸によぎる情動があった。
(これは――ひょっとして嫉妬だろうか)
 自分でもすぐには確信できない想いをたしかめるように、心臓のあたりに手を当てる。温かく熱のこもった文字の輝き。あの感情を自分に向けてほしいという思いが沸き起こったのだとしたら、それはつまり――
「っ! 現れましたね……」
 不意に肌が粟立つ心地がし、跳びすさって構える。自らの内にもたらされた感情にうろたえる間もなく、夏目は現れた侵蝕者と対峙した。自責の刃。悲痛とも憤怒ともいわれぬ耳障りな悲鳴をまき散らしながら巨大な刃で斬りかかってくるそれを、剣でいなして斬り結ぶ。激しい刃同士の応酬はしばらく続いたが、しかし常とは異なりたった独りで戦う夏目には厳しいものだった。
「ぐっ、う……」
 一撃を食らい、耗弱して膝をつく。わんわんと鼓膜を震わせる言葉なき叫びは神経をすり減らしてくる。このままではまずいと顔を歪ませた夏目は、一度距離をとり、洋墨にぬるついた手で柄を握りなおした。
 龍之介君、と無意識のうちに呟いていた。
 視界の片隅にひらひら蝶のように踊る温かな光を捉えて、ぐっと奥歯を噛みしめる。それからどこか愛おしそうに夏目はまなこを細めた。笑っているようでもあり、泣いているようでもあった。
「あれは、私のために龍之介君が紡いだ言葉です」
 自責の刃が神速で迫り、夏目の頬を掠める。その間際に深く身を屈めると、夏目は眼光を鋭くさせて地を蹴った。
「さあ、返してもらおう!」
 重い振動が辺りを揺らし、筆殺奥義が相手の懐深くへと突き刺さった。断末魔の叫びをあげて青い光に包まれる侵蝕者を見上げ、息を切らしながら夏目はその場に片膝をついた。全身が痛み、ぼたぼたと傷口から洋墨がこぼれたが、どうにか自分が生きていることだけは分かった。
 侵蝕者が消え、世界が浄化され再生されていく。その中で、生前の夏目漱石の姿がしだいに転生後の夏目漱石の姿へと変わってゆくのをおぼろな視界でぼんやりと見つめた。どこかから現れた転生後の芥川らしき人影がゆっくりと歩み寄り、その夏目漱石の頬に手を伸ばし、ひどく愛おしげに撫でている。夏目は気恥ずかしい心地になりながらも、目を離すことができなかった。

――先生、もしもこの醜い感情が許されるなら、僕は貴方を僕だけのものにしたいと願っているのです……

 光に包まれながら甘やかな声を聞き、ふっと気がつくともう、元居た潜書室に戻っていた。
 卓に置かれた日記帳はすっかり浄化され、黒い汚れはひとつも無い。少しばかりページをめくり、そこに綴られている流れるような筆記体を数行目で追ってから、夏目は息を詰めるとすぐにぱたんと閉じた。
 ああ、そうか、この日記に書かれていたのは。
 改めて確信すると、顔にじわじわと熱が溜まるのを感じた。本当は潜書中にもう分かっていたけれども、実際に目で読むとまた違った感慨があるものだ。
 どこかから自分に呼びかける声が聞こえる。その響きの中に他ならぬ芥川のものを聞き取って、動揺と安堵を同時に感じながら、夏目は疲労のためにその場に倒れた。

 どれほど時間が経っただろうか。
 補修室にて目を覚ますと、芥川が死にそうな顔をして夏目を覗き込んでいた。泣きべそをかいているんじゃあないかと一瞬思ったが、どうやら涙の影は見られなかった。
「りゅうのすけくん、」
 視線が交わる。途端にほっと表情をほころばせると、芥川は起き上がろうとする夏目の背を支えながらいらえた。
「先生っ……すみません、僕のために」
「元気になったのですねえ、よかった」
 頭を撫でてやると、芥川はさっと顔を赤くして身を固くした。おやと瞬きをし、そこでようやくあの日記のことを思い出して手を止める。ぼんやりとしていた頭が次第に覚醒してゆくうちに、潜書中に耳にした言葉の数々が脳裏に蘇ってきた。夏目は自分もまた顔を赤くしているのかもしれないという気恥ずかしさに目を逸らしてから、つとめて何気ない声色で呼びかけた。
「龍之介くん」
「は、はい」
「まだ、私への気持ちを忘れてしまいたいですか?」
 はっとして夏目の伏せたまぶたを見つめた芥川は、気づかれているのだということを確信したらしい。背中から肩にかけて回されている手にぐっと力が籠った。
「いやです、先生、忘れたくありません」
 まるで抱きしめられているようだった。耳元で切に注がれる声にくすぐったさと愛おしさを感じながら、夏目はすこしく困ったように眉を下げた。
「ねえ、龍之介君。私はきみの最期のことも、ほとんど知っていたのです。それなのにきみの話してくれるのを待って、何もしなかった。きみはずいぶんと思い悩んだでしょう……こんな師とも呼べぬような私を、きみは慕ってくれるのですか」
「もちろん、もちろんです先生。そのようなこと、先生が気になさることではありません。僕はずっと貴方をお慕いしていたのです。師としてだけではありません、今の僕は、夏目先生、貴方のことを」
「分かっています、龍之介君……きみの日記に潜りましたからね、私にも分かってしまいましたよ」
 顔を赤らめると、夏目は顔を隠すように芥川の胸に額を預けた。さらさらと髪が重力に従って流れる。前世と違って癖の無いすべらかさのおもてが、窓から差し入る温かな日差しを受けて光をはじいている。芥川は身を寄せてくる夏目に息を飲み、それからきつく彼の体を抱きしめた。
「聞かせてください、龍之介君。あの日記に書いたことを初めから終わりまで全て、もう一度私に」
 きみの口から聞きたいのです。
 どちらからともなく手を握る。いつかに握り合った手と同じものとは思えないほどに、芥川の手のひらには熱と力が籠っていた。はい先生、お聞かせします、先生がやめろと言ってもやめません。夏目の肩に鼻先を埋めて感極まったようにそう囁かれる声に、思わずくすくすと笑う。
 募り募った感情の発露は、どこまでも彼の内から溢れ出るようだった。例え醜くともあさましくとも、苦しみを伴うのだとしても、その全てを受け止めてあげたいと、夏目は心から願ってやまない。この子がひとりで育ててきた気持ちを享受することができるのが、こんなにも嬉しい。

 季節が一巡しても、今度はずっと傍に居られたらいい。そんな幼い言葉を伝えるにはまだ時を要するかもしれないが、きっと同じ想いであろうことはもう分かっている。

                       


/とわのほとりで会いましょう