彼のまなざしはいつも穏やかに、そうして時に深く貫くような垂直さで文士たちに注がれている。転生した文士の健康を預かる者としての責任と矜持が、軍医である彼の一挙一動を余念のないものにさせているのだろう。そのまなざしは生前に関わりのあった者に対しても、また転生して初めて知り合った者に対しても分け隔てなく注がれていたが、彼も人間である以上は何かしらのバイアスがかかることはあるのかもしれない。そう感じるたびに胸によぎるのは、彼に対する親しみと行き場のない逡巡であった。 おそらく、というよりは確信じみた明瞭さで、夏目は森から一目置かれているという自覚があった。それは小説家としてというよりはむしろひとりの人間として、また胃病で落命した男の生まれ変わりとしての認識がもたらす扱いであるということも、よく分かっていた。 病で命を落とした者が大半であるこの図書館ではあれど、古い生まれである彼が見送った者はそう多くない。正岡、尾崎、石川、小泉、そして夏目くらいのものだ。そういった意味で、彼は夏目が転生した頃から夏目をことに気にかけているようだった。また後から知った話であるが、森は夏目が考えていた以上に夏目の小説を気に入っていたらしい。好感をもってそれを語ってくれた彼には恐縮する思いだったけれども、おためごかしを使わない彼の言葉は面映ゆく嬉しかった。――それが始まりであった。 やがて話をするうち、甘味を好むという共通点を知り、同じ余裕派という括りと生きた時代の近しさも手伝ってか、自然と共に過ごす時間が増えていった。生前さして顔を合わせたことのなかった人だが、正岡という共通の友人もいたので距離が縮まるのはずいぶん早かったと思う。夏目はほとんど誰に対しても礼節を怠らなかったが、ことさらに森に対しては丁寧に接した。生前からの遠慮を含んだ憧憬と、彼の誠実で真面目な人柄への敬意が自然とそうさせたのだ。その夏目の態度を、森はどうやら気に入ったらしい。少しずつではあったが、花が開くように彼の言葉や行動に親しみが増してゆくのを感じ、夏目は素直に喜ばしく思った。新たな森の一面を見つけるたびに、なにか秘密を共有したような心地になったのだ。 しかし次第に、距離がいっそう近まるにつれて、一抹のおそろしさのようなものが胸をよぎるようになっていた。 誰かを好ましく思うことはこんなにも容易だっただろうかと、夏目は手紙をしたためながら思う。森に宛てたものである。なにかにつけて夏目の身、とりわけ胃を気遣う森の態度には苦笑してしまうこともあったが、その誠実な思いやりが嬉しく、今回はささやかな礼のつもりだった。 筆を滑らせながら、森について想起する。夏目が笑みを向けた時に見せる、愁眉をひらくような穏やかな眼差し。正岡や永井などと話すときとはまた違った、気安さよりも熱のこもったような丁寧な言葉選び。漱石殿、というあまり他人からされたことのない呼ばれ方。それらを受け取るたび、夏目はちりちりと胸の奥がむず痒くなるのを感じた。そうして弾む心持ちを鎮めるために、情けのないことだと胸中で己をなじるのだった。 饅頭の包みに文を添える。文面には、日ごろ身を案じてくれることへの感謝をしたためた。一緒に食べましょうと言って部屋を訪ねることもできたが、それを聞いた彼がおそらく喜ばしげな顔をするであろうことが、今の自分には居たたまれなかった。 この好意に名前を付けることは憚られた。己から彼に対するものはもちろんのこと、彼から己に向けられている少なからず好意を含んだ感情についても同様であった。 これは勘違いなのだろう、と念じ続けている。転生したとはいえ仮そめの体、そしてこうした特殊な環境だ。近しい者に慕情めいたものを抱いてしまっても無理はない。ただでさえ夏目は生前から彼のことを畏敬の念で見ていたのだから、その森が親しく接してくれることで感情をこじらせるのは仕方のないことだったろう。森が仮に、自分と似たような想いを芽生えさせていたとしても、やはり勘違いなのだ。勘違いであるべきだ。あの親しさも熱のこもった眼差しも、嬉しくないと言えば嘘になるが、現状から何かを変化させることは望ましくない。 「sympathy」 と小さく呟いて、夏目は数度頷いた。共鳴しているに過ぎない。いかにうららかな境涯を与えてくれる感情であっても、決してそれ以上ではないのだと。 森が酷い侵蝕を受けたのは、夏目が手紙を送ってから間もなくのことだった。 同じ会派で潜っていた夏目は自らの補修を終えてから、森にほとんどつきっきりで補修を見守っていた。ほかの面子が交代を申し出ても、少し気にかかることがあるので、と言ってやんわりと断った。 ――気掛かりがあるというのは、嘘ではない。 今回潜書したのは森の著書であったのだが、深部に進むにつれて森の様子がおかしくなっていったことに夏目は気がついていた。会派筆頭である彼は常に先頭を歩いており、その後ろにつくのが夏目だった。森の様子にはさらに後ろを進んでいた永井も薄々気がついていたらしいが、しんがりを務める正岡は気づかなかったようだ。そういう、微妙な具合の変化であった。元より少ない口数はさらに減り、侵蝕者が現れるとまるで何かを振り払うかのように鉾を無駄振りすることが幾度かあった。垣間見える横顔は余裕がなく、さして侵蝕は受けておらぬはずなのに青ざめて、目は見開かれて鬼気迫るものを感じた。大丈夫ですか、と何度か声はかけたが、嗚呼と短く返してよこすだけで目を合わせてくることはなかった。 そして最深部にて、森は模倣の者に致命傷に近い傷を負わされたのである。どす黒い墨を飛び散らせてきりきり舞いのうちに倒れ伏した彼の、怯えと苦渋を煮詰めたような形相はついぞ忘れることができない。 医務室は静まり返っている。 白いシーツに横たわる体に黒く禍々しい文字が明滅するように浮かんでは消え、腕につながれた点滴の管をぽたり、ぽたりと洋墨がくだり、それがもう何時間も繰り返されている。次第に、時間をかけて薄らいでいく穢れた文字どもをぼんやりと見つめ続けて、もうどれほど経っただろうか。不意に握っていた手があちらから握り返される感触が、手のひらに伝わった。「森さん」と呼びかけるとうっすらと開いた瞳が夏目を見たが、そこには光がなく、焦点がうまく定まっていない。いまだ喪失、良くて耗弱であろうかと推察しながらもう一度呼びかける。 「私がわかりますか、夏目です」 顔を寄せてそうゆっくりと告げると、ゆらりと揺れた灰紫色の双眸が夏目を捉えた。 「……ああ、漱石殿、ここは」 「医務室です。侵蝕を受けて運び込まれたのです」 「そう、か……すまなかった、油断をしたな」 「いいのですよ、とにかく早く治すことです……あなたが倒れると皆が困るのですから」 笑みをつくってそう言いながら、これは彼に対する物言いとしては少し皮肉じみていただろうか、とひやりとした。だが森はふ、と目元を緩めただけで何か気を害したふうはなく、胸をなでおろす。そして今さらながら手を握ったままであったことに気づき、それを離そうと腕を引いた。しかし指先が離れる前に、森が再び夏目の手を捉えた。冷たい手だったが力は強い。指一本も動かせないような様子であったのに、そんな力があったことに驚いた。 「森さ「これは報いなのだろう」 「え?」 見つめた彼とは、もう視線が交わらなかった。意識が混濁しているのか、虚ろな目でどこか知れぬ虚空を眺めている。ほとんどの文豪が喪失に陥った際、なにを口走っているのか自覚していないのと同じ状態なのだろう。夏目は眉をひそめ、森のうわごとのような言葉に耳を傾けた。 「俺は多くの命を犠牲にしてしまった、これはその報いだ……憎い憎いという声が、聞こえた……」 「……森さん、しっかりなさい」 「まだ彼らは、俺のことを……許していない……あそこで俺を、殺そうと」 「林太郎さんっ」 押し込めた、ぴしりと張り詰めた声を森の耳元で発する。森は肩を強張らせると、瞳孔を縮ませて焦点を定めた。は、と短く息を吐き出す音とともに緩慢なうごきで夏目に視線を向けた森は、冷や汗をかき、悪夢から覚めたように呆然として目を合わせた。その表情はどこか幼い。 握った手のひらが汗ばんでいる。その手をもう一度強く握ると、夏目はしばし逡巡してから出来うる限りやわらかげにほほ笑んだ。失礼に当たるかもしれないと思いながら、心持ちはかつて教え子たちにほどこしていたような、ある種の恩愛の籠るものであった。 ――森が喪失の胸の内になにを見ているのか、憶測ではあるが夏目には見当がついている。 こちらに転生してから、森に関する書物はずいぶんと読んだ。才に富み、文武共に優れ、華々しい経歴を持つ彼がこのように自らを苛む事柄があるとすれば、陸軍医であった頃の自身の過ちを悔いているのだろう。脚気惨害という言葉が脳裏をよぎった。恐らくは自著の中で侵蝕者どもに何かを見せられ、また囁かれたのだ。自分の著書に潜る際には侵蝕者との親和性が高くなるため用心するように、と以前から司書に言われていた意味が、ここへきてようやっと理解できた。 夏目は目を伏せると、ぽつぽつと話し出した。 「昔、教え子が自死したことがありました。私が英語の授業で彼を叱って間もなくのことでした」 「……漱石殿、あれは貴方のせいでは」 「それから龍之介君も。こちらへ来て知った時は驚きました……私がもっと長らえていたなら、彼を引き戻すことができたかもしれません。自惚れかもしれませんが、そう思わずにはおれないのです」 「……」 「それから、……いえ」 言いかけて口を噤むと、ゆるやかにかぶりを振って夏目は寂しげな笑みを浮かべた。 「罪を犯していない人間などいません。どういうたぐいであれ……己がそう判ずれば、罪なのですからね」 夏目が話をやめる様子がないと悟ったのか、森は口を閉ざしたままじっと夏目の顔を見つめている。その面差しには、自分の罪と夏目の自責はまるで異なるものであるという憐れみがきざしていたが、咎めるような色の中に、かすかに情愛めいたものを感じさせた。眩しげに細められたまなこに熱が宿っている。森の、夏目の手を握る力がいっそう強くなった。夏目の掌もまた汗がにじんでいる。よもや私もこんな顔をしてはいまいか、と案じながら、夏目は一寸目をそらす。点滴の洋墨はとどこおりなく減っている。 「森さん、私などの罪悪感であなたの気が晴れるとは思っていません。お辛いのなら……こうして転生したことを、贖罪だとお思いなさい」 「贖罪、」 「ええ。私たちは皆、生き直すために転生したのではありません……過去は変えられない。それでも、するべきことがあるでしょう。守るべきものが」 そのことだけを真っすぐ、真っすぐ、お考えなさい。 静寂に染み入るような声だった。森は夏目の言い聞かせるような言葉を受け、しばらく何かを考えていたようだったが、やがてただ一度、じっくりと頷いた。夏目は空いている手を伸ばすと、森の頭にそっと触れた。普段撫でつけられて整っている髪はほつれ、彼の印象を幼くおぼつかなくさせている。その髪を敢えてそのままに、髪を梳くようにしてゆっくりと、幾度も撫でる。自身でもなぜこのようなことをしているのか判然としなかったが、無性にそうしたかったのだ。見た目に反して存外柔らかい手触りは、今の彼の心のありように触れているような錯覚を与えた。 夏目の言葉に頷いたきり、森は何かを言おうとしたが口が回らない様子で、もどかしげに眉を寄せている。繋がれたたなごころにかかる力は、次第に緩まっている。眉間の皴を伸ばすように親指の腹で撫でると、夏目は我知らず笑みに目を細めていた。この器用でいて不器用な男が、これまでになく、どうしようもなく愛おしく思われた。 「お前、あれは本心なのか」 医務室を出ると、すぐに待ち構えていた正岡に捕まった。詰め寄ってくる友のどこか怒っているような顔に苦笑いを浮かべ、肩をすくめて見せる。盗み聞きとは感心しないよ、と軽い口調で言ってみたが、じとりとした眼でねめつけられただけだった。「ノックならした」「おや、それは失礼」また肩をすくめる。廊下には他に人影はない。正岡のことだから聞こうとして聞いていたわけではなく、森の様子を見に来たらたまたま聞こえてしまっただけなのだろう。情に厚い知音の憤りを含んだ眼差しを、夏目は面映ゆく受け止めた。 「俺は、ああいう考えは好きじゃない」 「僕ら小説家は、時に嘘をつくこともあるんだよ。君たち俳人とは違ってね」 「……嘘なのか」 「すべてとは言わないよ。だけどね、真実ばかりが人を救うわけではないから」 先刻まで森と繋がれていた手のひらを、夏目は眩しげに見つめた。 人を死に至らしめる現実も、希望のたづきとなる虚構も、またそれらの対極となるものごとも、夏目に限らずこの帝國図書館に居る者ならば、誰もがよく知っている。写生を是とする性根の澄んだ正岡とて、また例外ではない。納得と情の狭間で葛藤しているのだろう、黙り込んでしまった友の脇をすり抜けると、夏目はありがとうとだけ告げてその場を後にした。 その日の夜、あの有碍書に再び潜ることになった。 呼び出された森を除く第一会派はあまりの再招集の早さに驚きを隠せない様子であったが、有碍書を見せられれば顔をしかめて得心するしかなかった。侵蝕が激しくて明日まで持たないかもしれない、という司書の言葉の通り、くだんの森の著書はおびただしい黒文字で穢れており、どの頁を開いてもすでに本文を判別することができない。これは森の自伝的小説であり、失われれば森本人の人格にも大いに影響が出ることは避けられない事態だった。 「どうします、森先生に調速機を使いますか」 「いえ、森さんは外したまま行きましょう。まだ疲労が残っているでしょうし、前回少し様子がおかしかったのです。彼には潜らせないほうがいい」 夏目の返答を聞き、永井は安堵したように相好を緩めた。やはり彼は気づいていたらしい。司書はなかば予測していたかのように頷くと、すぐに第二回派から増員として徳田を連れてきた。永井と同じ弓ではあるが、回避力が高ければそれだけ侵蝕を受ける恐れは減る。戦闘力が前回よりも劣るこのたびの会派においては、いかに最深部まで余力を残すかが重要だった。 くれぐれも無理をしないように、と再三釘をさす司書に笑顔を向けると、夏目は皆の先頭に立って潜書を開始した。どす黒い文字の海へと沈んでいくうちに、手にした本が一度ほろほろと光の粒となり、その光が文字へと変化したのちに剣へと変形する。どこからかこちらを伺う侵蝕者どもの暗く淀んだ視線を感じながら、夏目は一度しんがりの正岡を視界に入れた。戦意に満ちた頼もしい目をしている。後ろの心配はしていなかった。自分はただ、前方を見ていればよい。今は彼の背はないのだから。 「おかしい、前回と道が違うぞ」 深く入り組んだ道を行く中で、そう永井が呟いた。夏目も静かにええと答えた。気づいた時にはもう、これまでの潜書では通ったことのない道に入り込んでしまっていた。 「……仕方ありません、一旦戻りましょう」 憤りをにじませた声に、誰ともなく頷く。夏目は上がりかけている息を整えながら俯いた。さんざん侵蝕者の群れを屠ってきたために、皆の侵蝕と疲労はもうすぐ限界というところまで達していた。これで最後にしたいという思い空しく、いくら進めども最奥部に辿り着けなかったのだ。侵蝕のために本の内部崩壊が進み、構造が変わってしまったのだろう。ここまで侵蝕が進んだ書から離れることを余儀なくされるとは、と歯痒さを抱きながら、皆できるだけ攻撃を受けないよう、注意を払って撤退した。 ――行かないでください 「!?」 現実世界へと浮上しようとした時だった。 ぐい、と体を何かに引き戻される感覚と同時に、視界がものすごい速さで動いた。真っ逆さまに落ちていくようで、どこかへ飛んでいくようでもある体感。そのあまりの速度に夏目の意識は揺さぶられ、みるみるうちに遠のいてゆく。誰かが己を呼ぶ声がかすかに聞こえたような気がした時には、もうほとんど気を失っていた。 ――先生、わたしを置いていくのですか はっ、と目を見開くと、夏目は剣を携え地面を踏みしめていた。心音がいやに大きく、痛いほどに胸を打っている。辺りを見回すと、どうやら見覚えのある場所のようだった。瓦解し空へと巻き上げられつつある文字の中に残る、異国情緒の強い街並み。前回潜った際に森が倒れた、あの最深部で間違いない。周囲に正岡や永井達の姿はなく、群れた小さな侵蝕者の影も見当たらない。ただひとつ、夏目の正面に大きな黒いかたまりが佇んでいる。 ――模倣の者だ。 「私を陥れるつもりか、無粋なやつめ」 剣の切っ先を向けると、ジュウウ、と嫌な音をたててそれは墨を溶かすように形を変えた。間もなく目にしたものに、思わず顔がひきつる。侵蝕者は夏目のかつての教え子、家族、そして芥川や正岡といった者の姿を次々と模しては、頭の中を侵すような声をガンガンと響かせてきた。 ――お前のせいでわたしは、貴方がいなくなったから僕は、どうしてあんなに酷いことをしたの、置いていかないで、せんせい、独りよがりの欠陥者、お前の弱さには反吐が出そうだ、きんのすけ、お前のぶんまで生きたかった、愛していたのよ知っているのよ、おとうさん、あの時もっとどうしてどうしてどうしてあああがああああなつめせんせいああああああああああああああああああたすけあああああああああああああああああ 「っ……!」 剣柄を強く握り、一閃深く斬り込む。侵蝕者は風に舞うように黒衣をはためかせると、ぐにゃぐにゃと形を変えてから元の模倣の者へと戻った。さしてダメージは与えられていないようで、暗く青い眼光がざわざわ揺らめく文字の海の中で夏目を見つめている。 「なんと卑怯な!」 未だぐらついている頭を数度振り、残滓のように響いている声の波をかき消そうと夏目は叫んだ。 森は間違いなく、あれに心を侵蝕されたのだ。生前に過ちを犯したという明確な罪の認識がある彼にとって、模倣の者のとった手段はこの上なく有効なものだっただろう。医務室で自分の手を握ってうわ言を言っていた森の姿を思い出し、夏目は怒りと悲哀がない交ぜになったような感慨に襲われた。それが今しがたの幻影によって湧き上がった夏目自身のものであるのか、森を想って去来したものであるのか、定かではなかった。 視界は霞んできている。 夏目の実力では一人でこの侵蝕者を浄化することは絶望的であったが、退くことはできなかった。あちらもまた、それをさせないだろう。 (森さんがこれと対峙して、耐えられるとは思えない……刺し違えてでも私が) 柄を握る手は、誰の者とも知れない黒墨でぬるついている。模倣の者が苦悶とも侮蔑ともとれるかたちに口元を歪ませたのが、おぼつかない視界でもはっきりと分かった。 もし今ここで自分が絶筆しても、逃れても、次に潜書する会派には必ず森が居るであろうという確信があった。それを夏目は許せない。このふつふつと沸き起こる敵意の意味を理解していないわけではなかったが、己の胸中を俯瞰して眺めるだけの余裕など今はありはしない。ただ森にはもう、同じ苦しみを味合わせたくはなかった。だからどうあっても、ここでこの侵蝕者は浄化しなければならない。 「……然様ならば、」 一寸泣き出しそうに目を細め、抉るように地を蹴った。 天地を震わすおぞましい怒号と共に、模倣の者の黒々とした影が空を覆いつくさんばかりにのびあがった 「……どの、漱石殿!」 脳を揺さぶるような声だった。ほとんど怒鳴りつけているようなその語気に顔をしかめると、ごほっ、と咳と共に腑から血がせり上がってきて呼吸ができなくなる。げほごほと酷い音を出しているうちに、咳き込む自分の肩を抱いている手が気づかわしげに動き、血を吐き出しやすいよう体勢を変えてくれた。地面に落ちた血は真っ黒で、ああこれは洋墨だとそこで気がついた。朦朧としていた意識が浮き上がり、どうにか首を巡らせる。白い軍服に身を包んだ、よく知った男が自分の背を支えている。声を聞いて分かっていたけれども、視界に入れてようやく本当に彼であると認識できた。 「森さん」 「気づいたか……安心してくれ、奴ならもう倒した」 「あなた、どうしてここに」 「いいから、喋るんじゃない」 ほとんど声の出ていない夏目に合わせるように、顔を近づけて囁くようにそう言うと、森はこれ以上ないほど眉間にしわを寄せたまま不格好に笑った。焦燥と安堵がその端々に宿っている。この人のこういう顔は初めて見た、とぼんやりと思いながら、夏目は全身にじわりじわりと痛みを感じ始めていることに気づいた。これまで何も感じなかったのに、と訝しむ。あまりにも気だるく首を動かすのがやっとであったが、どうにか顎を引いて自らの体を見下ろそうとし――夏目は瞠目した。 腕まくりをした森の右腕には一筋の傷があり、そこから流れ落ちる洋墨が、夏目の胸から腹にかけての傷へと真っすぐに注ぎ込まれている。そうしている間に、四肢の先から黒い文字として崩れかけていた夏目の体が次第にかたちを取り戻しているのだった。感覚がなくなっていたのも、それが蘇ってきていたのも、こういうことだったのだ。 「森さん、な、なにを」 「……大丈夫だ、輸血のようなものと思えばいい」 傷へ目を向けたままそう答えた森の表情が、なんとも言われぬものに変わった。眉間の皴は薄くなったがどことなく苦しげな、もどかしげな色を浮かべている。辛いのならもうやめてくださいと言おうとしたが、夏目が口を開くよりも先に森が声を発した。 「すまない、漱石殿。本当はこんな形で伝えたくはなかったのだが」 「伝えるとは、」 「今に分かるだろう……俺の洋墨の中には、俺の感情も混じってしまっているからな」 視線を夏目と再び交わらせた森は、苦笑がちに、熱を込めた眼差しで夏目の榛色の瞳を見つめた。はたとしてそれを受け止めながら、夏目は腹の底からじんじんと温かい心地が体中に広がってゆくのを感じていた。痛みに混じって体をめぐるそれが森の洋墨であり、森の感情なのであると自覚すると、よりいっそう体の中が熱くなる。胸がじんとほどける高揚した心地に、焦がれるような切なさが絡みついている。内側からきつく抱擁を受けているような、それはこれまでに感じたことのない感覚だった。体の隅々までほとばしる熱は、ほかならぬ森の夏目への想いだった。 「…………!」 言葉でなく直接感覚として伝わってくる情愛に、ぶわりと羞恥が湧いて夏目は顔をそむけた。薄々分かってはいたし、自分も同じようにこの男を想っていたけれども、このようなかたちで森の感情を知ることになるとは夢にも思わなかった。そもそも夏目には告げる気などなかったし、告げさせる気もなかったのだ。一時の仮そめの体である我々がどれほど情を通わせたところで、実りなどないのだと痛いほどに理解していたからだ。 しかしそれも、もう無駄な憂いとなってしまった。 「……わたしの洋墨も、あとで差し上げましょうか」 視線を合わせぬまま目元を赤く染めてそう呟くと、森から流れくる洋墨がどくりと脈を打ったような気がした。 「漱石殿、それは、つまり」 「おや、気づいていなかったのですねえ……ふふ」 努力の甲斐もあったものです、あなたのそんな顔を見られたのだから。内心でそうごちると、夏目は震える手をそろそろと持ち上げた。まだうまく力が入らないが、どうにか感覚は戻っている。森は洋墨を流し続けている腕を下げ、しっかりと夏目の手を握った。未だに注がれている感情が、もうあふれ出しそうなほどに全身を満たしていた。 見上げた先では、崩壊を免れた本の世界が秩序を取り戻しつつあった。浄化された文字がぼんやりと青白く清い光をまとい、異国の街並みに溶け込んでゆくのを、まるで夢でも見ているかのような心地で夏目は眺めた。ご覧なさい、これがわたしたちの贖罪なのですよ。口に出せたか分からぬおぼつかない声を、しかし森は確かに理解したようだった。 空を仰ぐ灰紫の瞳は、泣き出しそうに笑っていた。 * 眠る夏目の顔を見つめながら、正岡は深く息をついた。補修の甲斐あって容態はようやっと落ち着いてきたらしく、つい今しがたまで繰り返してきたうわ言も口から出ることはなくなった。まだ肌のそこかしこに侵蝕された墨が忌々しい文字を明滅させてはいるが、それもしばらく経てば消えていくだろう。 潜書を終えて、夏目だけが戻っていないと分かった時には肝が冷えた。誰かが有碍書の中に取り残されるということは稀にあると聞いたことがあったが、正岡が知る限りでは初めての出来事だった。聞けば絶筆ギリギリの状態まで陥っていたらしいけれども、どうにか夏目が戻って来たことに心底ほっとした。 「様子はどうだ」 静かにカーテンが揺れた。その隙間から顔を覗かせると、森が窺うように尋ねてきた。正岡は振り返ると軽く笑い、順調ですよと小声で答えた。立ち上がろうとするのを森が手で制したが、構わずに椅子を空ける。森がここへやって来たということは、司書への報告や事後処理などが一段落着いたということなのだろう。ならばこれからは森がついていたほうが良いと、正岡は即座に判断していた。 「いやぁ、それにしても焦りました。森さんひとりで本の中に突っ込んでいくから」 「すまなかった、心配をかけたな」 「俺より永井君に言ってやってください。耗弱してるのにすぐに貴方を追っかけようとするもんだから、止めるのに骨が折れたんですよ」 明るく苦笑する正岡に、森もまた眉を下げて薄く笑った。あの時は医務室に駆け込んできた正岡達から夏目が本の中に取り残されたと聞いて、考えるよりも先に体が動いてしまったのだ。戻ってから司書に小言を言われ、報告書を書かされてようやく医務室に戻って来たのだった。 「できれば目が覚めるまで、居てやってください。こいつも森さんが居れば喜ぶと思います」 「……正岡殿、もしかして知っていたのか」 「いやいや、だって、戻って来た二人の顔見れば分かりますって! 俺にも分かるんだから、他の皆も分かったんじゃないかなあ。夏目のあんな顔、初めて見ましたよ」 少し下世話な顔をしてから温かいまなざしを向けられ、森は気恥ずかしさと居たたまれなさに片手で頭を抱えた。まったく自覚などしていなかったのだ。 正岡が出て行ったのち、丸椅子に腰かけて夏目の寝顔に視線を向けた。まだ青白い顔をしているが、こちらに戻って来た直後に比べれば格段に回復しているのが分かる。森は手袋を外すとゆっくりと手を伸ばし、手の甲の側で夏目の頬に触れた。耗弱した者特有の肌の冷たさがまだ残っている。昨日、耗弱した際に夏目が頭や額を撫でてくれたことをおぼろげながら覚えていた森は、その記憶に相好を緩めながら静かに手をひっこめた。あまり触れすぎて、起こしてしまってはいけないと思ったからだ。 「……ありがとう、漱石殿」 唇を寄せて囁くと、ん、と少しばかり彼が身じろぎをした。そろりと姿勢を正して目を細める。夏目が目覚めたならば、話したいことが山のようにあった。これまで胸に秘めてきた感情のすべては彼に注ぎ込んでしまったが、改めて自分の口から伝えたかった。そうして夏目からも彼の心を聞かせてほしいと、期待をにじませたまなざしを彼の閉じたまぶたの縁に送った。 /いつか誰かの命になる |