Solo con te







 事務所のドアがけたたましく鳴った。
 コンロの火を止めたフーゴはちょうど持ち上げたばかりのマグをテーブルに置き直すと、肺いっぱいに貯めこんでいた淹れたてのエスプレッソの香りをひといきに吐いてから、敢えてじわじわと眉を寄せた。ぽこんぽこんというマキネッタから上ってくる快い音をほとんど塗り潰すようにして、ノック音は相変わらず響いている。
「おうい俺だよ!おれ!」
 という叫ばなくてもよい名乗りをあげながらドンドンとしきりにノックを繰り返している来訪者。その声に小さく悪態をつき、空のマグと芳香漂うキッチンに名残惜しげな視線を送ってから、爪先の向きを変える。せっかくひと息つこうとしていたところなのに、あいつ来るのが早すぎるじゃあないか、もっと遅い時刻で約束しておけばよかっただろうか。などと考えたが、結局約束通りに来ないのならばこちらが時間調整を図ったところでさしたる成果はなかっただろうとすぐに思考を止めた。
 そうしている間にも、絶え間なく聞こえている呼び声とノック音。まだ朝と言える時間からやかましいことこの上ない。今開けてやるからと声を張りながら、ドアに張り付くようにしているであろう少年の姿を脳裏に描いたフーゴは少しばかり苛立ちがそがれたのを感じた。その代わりに、いくばくかの気まずさが芽を出した。想像して浮かんださまは悪さをして家から閉め出された子供のようでもあったし、夜になって室内に招き入れてもらえるのを今か今かと瞳を輝かせて待っている子犬のようでもあった。実物はそんなかわいらしいものではないのだが、ロックを外してすぐに事務所に飛び込んできた彼の目はたいそう嬉しそうにキラキラとしていたので、言わずもがな後者に近かったといえる。本人にこんな脳内を知られたら間違いなく機嫌を損ねるから、フーゴの中でだけの結論である。
「Buon Natale!」
「Buon Natale. ずいぶんと早いですね」
「うん、だって楽しみでさーッ!」
 脇をすり抜けて小走りでダイニングへ入っていく背中がうきうきと喋るのを、再びロックを掛けながら溜息交じりに聞いてフーゴはやっぱりなと頭を振った。あれブチャラティは、と落ち着きなく辺りを見回している後頭部を軽く小突き、彼ならちょっと出掛けてますと答えてやる。まだ何か尋ねたそうにぐるんと首を回してこちらを見たナランチャの大きい瞳を一瞬見止めてから、とりあえず座ってくれるように手で示したのち、数分ぶりにキッチンへと戻った。
 マキネッタに取り残されていたエスプレッソは未だ冷めることもなく、そのふくよかな香りも健在だった。

 このどこからどう見ても年上には見えないナランチャという少年がブチャラティの部下になってから、そろそろふた月が経とうとしている。それはつまりフーゴの仲間兼ルームメイトになってからも、同じだけの月日が流れているということだった。
 勝手にポルポの試験を受けたうえに父親の家には帰りたくないと切実な様子で話すナランチャにしばらく苦い顔をしていたブチャラティが、カタギと一緒に暮らさせるわけにはいかないから、という理由を繰り返し言い聞かせたのちにフーゴのアパルトマンに住むことを許可したのだ。事務所ではなくフーゴのところにしたのは少なからずナランチャに助言をしたフーゴへの戒めの意味もあっただろうし、学校へ行っていないナランチャに勉強を教えてやってほしいという向きもあっただろう。彼の意向に反して勉強については未だ九九すら半分も覚えられていないという体たらくであるけれども、それは決して自分の落ち度ではなくて、ナランチャのやる気が沈下したままだからなのだとフーゴは思っている。集中力はなかなかあるようなのに、ムラっ気があるから教えるのが大変なのだ。
 そういうわけで約二か月の間ほとんど毎日顔を合わせていたのだが、このところフーゴは調べ物と仕事が忙しく、三日間アパルトマンに帰っていなかった。おまけに昨日からはずっと事務所に籠っていて、外の景色さえろくに眺めていない。ナランチャには悪いがそんな状況で事務所に来られると気が散ってしょうがないので、ブチャラティに頼んで彼には簡単な仕事を回してもらい、連絡などはすべて電話でしていたのだった。
 シュガーポットの蓋が、妙にやわらかい音をたてて閉じた。コーヒーから立ちのぼる湯気を頬に受けながら、温めた牛乳をスプーンでとろとろと流し込む。普段なら自分で淹れろよとあしらってしまうところをこうしてわざわざカフェラッテを作ってやっているのは、わずかな罪悪感が胸の中にあるからだ。
 期待に輝くナランチャの瞳を思い起こしながら、自らの言葉が足りなかったことに顔をしかめる。一昨日のことだ。フーゴは頼まれていた些細な仕事に出る前に、ナランチャに電話口で慌ただしくこう言ったのだ。――明後日の朝9時にブチャラティの事務所に来てください、遅れないように。
「なぁフーゴ、これ開かないんだけど」
 肩を揺らすと同時に、カップの中で渦巻いていた牛乳のラインが揺れた。
 スプーンをつまむ手を止めて顔を上げれば、勝手に冷蔵庫からジャムを取り出したナランチャがさも当然そうな顔をしてフーゴのほうへ瓶を突き出している。どうやら朝食も食べずに来たらしい。片手にはアパルトマンから持って来たビスケットが乗っている。「勝手に開けるなって言っただろ、僕んちじゃあないんだからね」指をさして顔をしかめて見せてもヘヘッと笑って堪える様子もないのは、今ここにブチャラティが居ないからだ。彼が居るところでは、ナランチャはしっかり許可を取る。ナランチャが仲間に加わった頃、事務所の冷蔵庫にあるものはいつでも好きなように使っていいと彼がいっそ無頓着なほどにすんなり許してしまったので珍しくナランチャが恐縮していたのをよく覚えている。
 コンロの火で温めると、すぐにカポッと音をたてて瓶の蓋は開いた。アプリコットの良い匂いがする。それを手渡してから二人分のカップを持ってリビングへ移ると、ナランチャも一緒についてきてソファに並んで座った。ありがとなーと破顔しながらビスケットにジャムを塗っているナランチャに適当に返事をして、カフェラッテを飲みつつ横目にナランチャを見る。鼻の頭が赤くなっている。タラッタララン、と鼻歌交じりに小さく体を揺らしているところからして、相変わらず機嫌は良さそうだった。ますます言うべきことが言い出しにくくなって、フーゴは釣りがちの眉をいくぶんか顰める。それから黙ったまま視線を正面へとずらし、ブラインドの隙間から見える向かいの赤茶色の壁をぼんやり眺めた。
 一階部分からおそらく家主の手の届くあたりまで張られた煉瓦が波打ち際の濡れた後のような形になって途切れており、そこから上はずっと赤茶色の壁が屋根まで続いている。年季の入ったまだらのある色合いの中に、ところどころペンキが剥がれかけて象牙色が覗いている。フーゴには何故だかそれがとても冬めかしく感じられた。
 ついと立ち上がって窓まで歩いていき、ブラインドを指で持ち上げて覗くようにすると、壁と壁に挟まれた細い路地の向こうに商店街へと続く通りが見える。爪ほどの大きさの人々が行き交う往来では誰しもコートやジャケットに身を包んで、心なしか体を縮めるようにして歩いている。然れども足取りは弾んでいる。冬のひんやりとした乾いた空気の中で、あの通りだけが熱と活気を運ぶ運河のようだった。ガラス越しに彼らの賑やかな声までが聞こえてきそうな気がして、フーゴは知らず知らず深く息を吐きながらカシャンとブラインドを下げた。
「どうしたんだよ?」
 不思議そうにかけられた声に振り返ると、ソファに沈み込んだナランチャが丸い瞳でこちらを見上げていた。まっすぐな双眸には、往来の人々と同じ活気が息づいている。あの表通りからやって来たのだから当然のことだ。昨日から事務所に詰めっぱなしで外の華やかな空気さえ吸っていないフーゴには、いささか眩しすぎた。
「いえ、そろそろ行こうと思って」
「ブチャラティは?」
「彼は今日オフですから」
「え」
 流れのままに告げてしまってから、想像通りの反応に苦い気分になる。
「……勘違いしてたのなら謝るけど、今日は僕らだけですよ」
 視線を外して事務所のドアのほうを見やっていても、ナランチャの丸くてつやりとした眼が大きく見開かれているのが分かる。やはりブチャラティと出掛けられるのだと信じて疑わなかったのだろう。ここでもしブチャラティは今朝早くに出掛けてしまったのだと言ったなら、もっとショックを受けるだろうか。フーゴはたった今お互いの認識のずれに気が付いたような顔を装いながら、今日の朝、始発に乗るためにまだ薄暗い空の下を歩いていった上司の後姿を脳裏に浮かべた。
「や、やだな〜ッフーゴ! もちろんそのつもりだったって!」
 妙に芯のないふにゃりとした笑い声に意識を引き戻されると、明らかに落胆しているくせにバレていないと思い込んでいるナランチャが足早に寄ってきて、ばしばしと肩を叩いてきた。少女のように幼さを残した白い頬がいくばくか赤味を帯びている。きょろきょろとしている視線はこちらの視線とは交わらない。
 そんな顔して言われても、と内心すまなく思いつつ、フーゴは敢えてそれ以上この話題を長引かせず「だったらいいんですよ」と緩く笑って見せると、テーブルから地図と写真をすくい上げてそれをナランチャに手渡した。この空気を早く変えてしまいたかったのだ。
 渡された資料をけげんそうに眺めるナランチャに浴びせかけるように任務の説明をし始めると、その顔にみるみる疑問符が浮かんでくる。いつもの光景だ。同じ説明をもう一度することになるだろうということは分かりきっていたけれども、今回ばかりはそれでもよかった。

「……で、中身は?」
「さあ、知らされていないんですよ」
「絶対ヤバいもんだよな、じゃなきゃあこんなのわざわざ回ってこないぜ」
 三度目の説明を聞いてようやく質問をよこしたナランチャは、写真を返しながら僅かに下唇を突き出すしぐさをしてから笑った。確かにそうだとフーゴも肩をすくめる。
 写真に写っているのは、ネアポリス中央駅の旅行者向けのコインロッカーだ。石造りの駅舎から浮いているその金属製のロッカーのことは二人とも知っているけれども、使ったことは一度もない。地元の人間で使う者などまずいないだろう。あんなところに荷物を入れておけるなんてどうかしている、日頃からそう思っているのに、今回みたいな仕事が入ると疑わしげな印象はますます強くなるばかりだ。
 バッグ詰めの何か、それをコインロッカーから取り出してバッグごと始末するというのが、今回フーゴとナランチャに与えられた任務だった。鍵はとある場所でとある男から受け取り、任務完了の報告をする際に再び男に返すこと。バッグは港でパッショーネの息がかかった漁船が陸揚げしているので、そこの漁師に渡すこと。与えられたのはこれらの指令と、鍵を持っている男についての情報である地図と写真だった。二人はまず示された場所へ向かい、男に会ってロッカーの鍵を受け取らなければならない。
 一見ひどく楽そうな仕事だが、指令を聞いた時点でおそらくバッグの中身は死体か金だろうと予測はできていた。もし他の何かならば、今後のためにも中身は知らないまま任務を終えたいところだ。ナランチャの言う通り、それこそヤバいものであるに違いない。しかもブチャラティに与えられた仕事ということはスタンドが絡んでいる可能性が高く、そうなると想定外の敵襲を受けないとも限らない。スタンドが絡むとこの世のあらゆる常識なんてものは通用しないのだ。
 戦えるように用意はしといてくださいよ、と声をかけながら腕時計をちら見すると、体感よりも早く時間が流れていた。もうすぐにでも出掛けなければ男との約束の時刻に間に合わない。フーゴはやばい、と呟くとポールハンガーからコートをひっつかんで羽織り、ついでにマフラーもたぐり取って小脇に抱えるとナランチャを促して事務所を出た。冷えた空気が喉の奥をひゅうっと流れた。
「あ〜っいいなあフーゴ、俺にもマフラー貸してくれよ!」
 表通りに出たところで、ナランチャのよく通る高めの声が寒空に響いた。
「一本しかないんだから貸せないでしょうが」
「だからァ、俺に巻かせてってこと。ほら俺って首寒そうだろ?」
「自業自得でしょ……いやですよ僕だって寒いんだから、あっこら! 待て!」
 ひょいとマフラーをひったくったナランチャが、雑踏の中を脇目も振らずに走っていく。
 完全に不意を突かれた。
 流石は万引きやらスリやらで生活していただけあって、煩雑に行き交う人波などものともせずにするするとすり抜けてあっという間に小さくなってゆく。それを一瞬ばかりスナップを眺めるように眼窩に収めてから、フーゴは数テンポ遅れて地面を蹴ると、人込みの中に流れるように紛れ込んで視界から消えそうになっている黒髪をどうにか捕捉して追いかけた。
 こんなごちゃごちゃとした人という障害物をぬってナランチャのように器用に走ることはできないから、到底追いつくはずがないのに、それでも何かに惹きつけられるように夢中になって走った。
 視界の端にちらつく鮮やかな彩り、耳朶を通り抜けてゆく華やかなメロディと陽気な話し声、それから早仕舞いしてしまうドルチェ店の甘く香ばしい匂いが、二人の周りを風のように過ぎ去ってゆく。頬や鼻のあたまがきんきんに冷えて痛いほどだった。口から吐く息はかすかに白い。吸い込む空気は腹の底まで降りていって、熱をさらい取ってはまた白い息にして外に逃がしていくのだ。それを繰り返している。角を曲がるたびに大きな通りに出て、普段なら路面電車に乗っているであろう距離を走ってしまっていることに気がつく。街路のメロディと雑踏の声が氾濫している。花屋に所狭しと並んでいるシクラメンや、ショウケースのケーキとパネットーネの鮮やかな色がチカチカ流れ星のように過ぎ去る。道行く人の肩にぶつかっても気にならないくらいの人口密度。だんだん息が上がってきたけれども、今さら速度を落とすという選択肢はなかった。
 冷えながらもぽかぽかと温まってゆく体を動かしながら、ああなんだか馬鹿なことをしているなあ、とフーゴは珍しくまっさらになっていた脳みそでそれだけを思う。きっと立ち止まった時には二人とも汗ばんでいて、マフラーなんか必要なくなっているだろう。
 これは初めからマフラーを巡った追いかけっこなんかではなくて、ただ走ることが目的なのだ。いつも以上に煩雑で煌びやかで色彩豊かな、浮足立っているネアポリスの街を無心になって駆け抜ける、そのことが。

「ったく、無駄に体力使ったじゃあないか!」
 中央駅前のロータリーでようやく足を止めたナランチャは、ヒビだらけの石階段の上で肩で息をしながら満面の笑みを浮かべていた。結局追いつくことはできなかったし、駅前通りでタクシーとタクシーの間をすり抜けようとして運転手に怒鳴られるしで、屈託ないナランチャの表情がいやに憎たらしい。拳を上げて階段を登っていくと、運動不足なんじゃないの?と後ろ向きに逃げの姿勢をとりつつマフラーを放ってくる。ほらやっぱり暑くなっただろう。フーゴはたたらを踏むように石段を踏みしめると、マフラーの端が地面に着かないように気をつけながら受け取り、くるくると巻いて事務所を出た時のように脇に抱えた。
 これじゃあ何のために持って来たのか分からない。いや何のためというならば、今までの追いかけっこを演出するための小道具と言うしかないだろう。実際それならばこのマフラーは立派に役割を果たした筈だ。徒歩にせよ路面電車にせよ、のんびり駅に向かっていたなら否応なしに五感に飛び込んできたはずのあらゆる風景をシャットダウンし、頭の中を真っ白にしてしまうことができたのだから。
 年季の入った駅舎と街路に響くこの時期だけの特別なメロディ、色とりどりの飾りつけ、もう点灯している気の早い電球、ガリバルディ広場に並んでいる観光客向けの屋台から漂ってくるパネットーネの甘ったるさ、手を繋ぎあう親子の穏やかなまなざし、田舎への里帰りを急ぐ若者の靴音、買い物に繰り出した車が渋滞に巻き込まれて鳴らすクラクション、遠くの教会の鐘、ロータリーのそこかしこで交わされるお馴染みのあの挨拶。
 白い息を吐きながらそれらに意識をふり向けていると、避難していたナランチャがフーゴの怒りの終息を伺い知ったのか、いつの間にか隣へ戻ってきていた。広場側から来なくてセーカイだったよなァ、と駅前通りの渋滞ぶりを眺めて得意気な顔をするので、頭をかなり優しめに殴ってから首根っこを掴み、地下へ続く連絡通路へ向かった。
「そういやさ、これさえ終わらせればフリーってわけだろ?」
「まあ、そうなるね」
「じゃあ行きたい飯屋があるんだよな」
 帰省のためにごった返す地下鉄のプラットフォームで人波に揉まれながら進んでいると、ナランチャがそんなことを言ったかと思うとまたするすると先に行ってしまおうとする。フーゴは脚をもつれさせぬように注意しながらナランチャに足並みを合わせた。
 大きなキャリーケースが膝にぶつかって顔をしかめる。それはいいけど今日開いてる店なんでしょうね、叫ぶように声をかけてもナランチャの跳ねがちな髪は歩くリズムに合わせて揺れるだけで、問いかけに対する返事はなかった。言いたいことだけ言う奴があるかと悪態をつきたい気分だったが、今度は追いかけていってまで言い募る気は起きなかった。
 またかよ、とフーゴは冬曇りのようにすっきりしない面持ちで内心ぼやきながら体を捻って、体格の良い夫人と刻印機の脇をすり抜けた。姉妹らしい若い女の子達が、何食べようかと鈴のような声で話しているのが聞こえる。駅舎に昔からあるバールのほうからは、コーヒーやクロワッサンなんかの香りが煙草のにおいと混じり合って漂ってくる。もうすぐ昼時なのだ。
 仕事上がりにナランチャと食事というのは決して悪くないけれども、またしても言いそびれてしまった言葉が喉に引っかかっていて、それが少しばかり歯切れと足取りを悪くしている。
「Buon Natale !」
 到着した列車から押し出されるように降りてきた乗客たちが、両手を広げて出迎える家族や恋人と交し合う、居だけで耳にタコができるほど聞いてしまったその弾んだ言葉の海をくぐって、ふたりは滑り込むように地下鉄に乗った。
 今日はラ・ヴィジーリャ・ディ・ナターレ。
 つまり明日はナターレ。クリスマスである。









 地下鉄の駅を出た瞬間から予想以上の混雑だと思っていたけれども、町のシンボルであるサンロレンツォ教会の大きな時計が近くにそびえだした頃には、ますますその気が強くなった。
 舐めていた、と石畳を蹴りながら内心でごちる。考えるまでもなく、ナターレの季節にこの街へ来れば動けないほどの人いきれに突入することを覚悟しなければならなかったのに。クリスマス・イヴにこんな所へ来たことがなかったから、もう少し空いているだろうと高をくくっていたのだ。
 狭い道にひしめきあっている人間達の、おそらく半分ほどは観光客か外国人だろう。
 放っておけば間違いなくはぐれると踏んで、ナランチャに釘を刺そうとしたところで「フーゴ迷子になるなよな」と下から覗きこまれるように言われ、かちんときてそのふにゃけた笑顔の鼻をつまんだ。こいつ、こういう時だけ年上面をしようとするのだ。そのくせどこからどう見てもナランチャはそわそわと楽しげで、人込みを押しのけては立ち並ぶ店の展示台を覗きこんで目を輝かせている。人込みが好きではないフーゴは何度目か分からない溜息を漏らすと、あーあと首を振ってナランチャを引きずりながら顔を上げた。
 はるか先まで連なる窓からは、カラフルな植木鉢やら洗濯物やらが層を成すようにぶら下がっている。二階部分にある小さな広場とそこに通じる細い通路を行き来する人々の頭や、縞模様のパラソル、どデカいリースなんかも見える。そしてネアポリスのどこよりも熱心といっても過言ではない、趣向を凝らしたイルミネーションの数々が、ロマンティックに光を放つことのできる夜を今か今かと待っているようだった。
 旧市街のごちゃごちゃとした狭い通りはすぐ両脇に建物が連なっているから、空が狭い。切り取られた昼過ぎの空はすっきりと冬晴れに青かったが、光のコントラストが強くて長くは見ていられなかった。おあけにこのサングレゴリオアルメーノ通りは人の頭よりずっと高い位置まで縦に敷き詰めるように商品が飾られていて、目がチカチカとするのだ。どこを見ても眼球が休まらない。もっと閑散期ならばゆっくり陳列棚を眺める気にもなるんだけどなあ、と言い訳じみたぼやきを零しつつ吊るされている天使なんかを流し見ていると、ぐいと手を引かれてバランスを崩しそうになった。
「ちょっと、危ないだろ」
「なぁッ見ろよフーゴ!」
 しかめた顔を寄せて文句を言っても耳に入っていないようで、ナランチャは陳列棚を興奮気味に見ている。フーゴは仏頂面を残しながらそれにつられて視線の先を見て、思わず小さく感嘆の声をあげた。
 ずらりと隙間なく並べられているのは、今年イタリアで一番活躍したサッカー選手のゴールの瞬間を模した焼き物の人形だった。すこしずつ微妙に格好や表情が異なっているのが、また趣があって客の目を釘付けにするのだろう。確かによくできている。触れば硬くて冷たいのは分かっているのに、つい手を伸ばして感触を確かめたくなる。そういう魔力のようなものが宿っている気がした。
 また立ち止まろうとするナランチャをせっつきながら脚を動かしているうちに、「この街には何だってある」と誰かが言っていたのをふと思い出した。耳にしたときは何とも思わなかったが、今にして言い得て妙だと納得する。
 ここで売られている人形――プレゼーピオは実に多彩だ。
 バールで楽しげに白ワインを楽しむ親父たち。可動式の花屋の籠いっぱいに溢れる鮮やかな黄色いミモザと、花束を抱えてかわいらしい笑顔を振りまく看板娘。威勢よく声を張り上げている青空市場の野菜売り。今にもぴちりと跳ねそうなみずみずしい魚介類。色とりどりの果物は木箱から零れ落ちんばかりで、ガラスケースの中の宝石のようなドルチェからは甘い匂いが立ちのぼってきそうだ。パン屋の店先では焼きたてのパニーニを頬張っている子供がいて、肉屋の前では主婦数人が集まってあれこれと値踏みをしている。そうかと思えばいましがたのように、その年の顔となった人物が並んでいたり、不気味な道化師めいた人形が仮面越しに笑っていたりする。
 クリスマスシーズンのプレゼーピオといえば、主役は何と言ってもガリラヤのナザレで生まれたイエスとその誕生を喜ぶ人々や天使達を模したもの、それから馬小屋の限りなく精密なミニチュアなどであるけれども、脇役である庶民や家屋を模した作品の躍動感には、また一種独特の魅力があるようだった。
 今ナランチャとフーゴが歩いているサングレゴリオアルメーノ通りは、プレゼーピオ通りという別名がつけられている。プレゼーピオとは本来は馬小屋とか飼い葉桶を指す言葉で、イタリア国民やカトリック教徒にとっては、イエスの誕生場面を再現した人形やジオラマとして知られている。クリスマスにはツリーよりもこれを飾る家庭が多いし、礼拝堂では聖母マリアや天使達を先に配置しておいて、二十五日になると赤ん坊のイエス人形をそっと置くといった凝った演出が行われていたりする。
 プレゼーピオには十三世紀頃からの古い歴史があるのだが、今ではこのサングレゴリオアルメーノ通りが世界で一番の生産数を誇っているのだという。つまりこの街はどこを見てもプレゼーピオだらけ、プレゼーピオで生計を立てている店ばかりが並んでいる、ネアポリスでも観光地として名高い街のひとつなのだ。クリスマスの時期になるとイタリア全土に留まらず、各国からキリスト教徒がプレゼーピオを買いに訪れるという。カトリック教徒の多いイタリア人にとっては、本来の名よりもプレゼーピオ通りという名前のほうが知名度があるかもしれない。
「そういえば大学に居た頃の同級生に、ここまで修学旅行で来たことがあるって奴がいたっけ」
「へぇ〜、わざわざこれを見に来んの?」
「ついででしょ、王宮とか城とかの。……ねぇまさかとは思いますけど、これってポルポが気を回してくれたってことは」
「ウエ〜ッないない! ないって!」
 顔をくしゃっと歪ませながら笑うナランチャからは、あの巨体のパッショーネ幹部に対する彼の思うところがよくにじみ出ている。
 確かにあの男のことだ、末端のガキに回す仕事についてなど深く考えてはいまい。どうせ今頃はぬくぬくと暖かな独房に寝転がり、豪華なナターレの差し入れを掃除機のように飲み込んでいることだろう。もしやと思ってしまった自分が馬鹿らしい。
 そりゃそうだよね、と早々に頷くと、フーゴは表情筋を使ってナランチャと似たような顔をして見せた。ちょっと鏡では見たくない顔だ。数秒見つめあい、二人してその可笑しさにけたけたと笑った。

「っと……あの店ですよ、ほら」
 急に笑ったせいで痛くなってきた腹を抱えていると、道がひとつ落ち窪んだようなところに建っているプレゼーピオ店が見えてきた。さほど広さはないけれども、店先で主人が実際に粘土を捏ねて人形作りを実演しているようで、小さな人だかりができている。
 老舗と呼んでも差し障りないほどには古い店のようで、オブジェのように洒落た看板には年季の入って渋い色合いになった店名が綴られている。フーゴはスッと笑みを引っ込めて見物客に紛れながら、写真に写っていた男とその店主が同一人物であることを確認すると「ちょっとすみません通してください」と声をかけて最前列へ進んでいった。
 途中で足を踏まれたり誰かの肘が腹に食い込んだりしたが構わずに体をぐいぐいと押し進め、店主との間に人間が誰も居なくなった瞬間だった。吸い寄せられるように店主は捏ねていた粘土から眼差しをもちあげると、斜め前に立つフーゴをじっと見つめた。
 ぎくりとして体が強張りそうになるのを、どうにか瞬きをして誤魔化す。
 チャイルドブルーの澄んだ瞳の、一番奥のところで見つめられているという感覚だった。けれども同時にどこか、自分よりもその向こう側を見ているんじゃあないだろうか、という己でも判然としない違和感もフーゴの中に小石のように転がった。
 長い数秒が過ぎると、店主は何事もなかったかのように視線を切り替えた。そうして客の中の、特に小さな子どもが並んでいる辺りを眺めながら、にっこり人の好さそうな笑顔を浮かべた。いかにも客商売に慣れているという笑い皺をたくさん作って、目をいっぱいに細めてから、さて皆さんちょっくら休憩させてもらうよ、と言いながらよいしょと腰を上げる。汚れた作業用エプロンが小さくはためいた。
 客の残念そうな声に茶目っ気のある動きで手を振りながら、粘土を抱えて店の奥へ入っていこうとしている店主。その後姿を見たあたりで、フーゴは我に返って口を開きかけた。このままだと声をかけそびれてしまう――
「!」
 しかし追いかけようと踏み出すよりも早く、彼の目がちらと振り向いてほんの僅か、だが確かに頷いたのを見逃さなかった。やはり目が合ったのは偶然ではなかったのだ。
 フーゴは合図には気づかなかった素振りで店先の人形に目を向けながら、傍に来ていたナランチャが店主におい、と声をかけようとするのを手で制すると、店の脇に伸びている細い小路を視線で示した。店の人間でなければまず通らないような通路。あそこからなるべく目立たないよう、裏へ回ることにした。
 埃っぽい小路を抜けると、アマルフィの白壁のようにきれいに塗装された壁が左手にあった。
 足元の石畳は、途中からオレンジがかった煉瓦に変わっている。日除け用の低い屋根よりも高いところまでわさわさと伸びている薔薇の木には、落ち切らなかった枯れ葉がたくさん残っている。
 そこは玄関と庭を兼ねているような不思議な空間だった。店側と同じ建物とは思えないほどさっぱりと綺麗に手入れがされていて、日当たりがよく、白く塗られた壁とそこに飾られたナターレの色鮮やかなリースとのくっきりとしたコントラストに目が眩んだ。
「あんた達なら中身を見てもいいよ」
 煉瓦敷きの上に備え付けてあるらしいスタッキングチェアにちょこん、と腰かけて待っていた店主の親父は、フーゴとナランチャをあの眼でじっと見てから、至って温厚そうな顔でそう言った。何の挨拶もなくいきなりそれだった。
「……へ?」
 にこにこした親父の皺だらけの顔と、白髪交じりの柔らかい髪が、昼下がりの日差しにほろほろと照らされている。その明るさと、彼の咥えたパイプからぷかぷか煙が吐き出されるさまが妙に間延びしていて、かけられた言葉の意を掴むまでに寸分時間がかかってしまった。
「あー、中身ってその……バッグのでしょうか?」
「そうだ」
「ええっ、見てもいいの?!」
 ようやく仕事の話であると理解したらしく、ナランチャが高く声をあげた。声がでかいッとその首根っこを掴んで抑え込む。親父はそんなふたりを、まるで孫でも見るような愉快そうな目つきで眺めていた。
「はっは、元気がいいねえ」
 親父が笑うと煙が一気に吐き出され、彼の顔がしばらく見えなくなる。白壁と一体化していくような呑気で面白い光景だったが、そうしている間もフーゴはナランチャを引っ掴んだまま、彼のことを注意深く伺っていた。こんなにありふれた爺さんだというのに、あちらはどう考えても子どもである自分達をリラックスさせようとしている風なのに、何故こうも身構えてしまうのか自分でもいまいち分からない。ただ最初に目が合った時の、あの深々とした瞳の色がどうも忘れられなかった。もちろんこの男も組織の息がかかっていることは間違いない。それだけではなく、もっと特別な何かが彼にはあるように思われた。
「はい、これが鍵ね」
 こちらの疑念など素知らぬ様子でひょいと立ち上がると、彼はポケットから取り出したそれをフーゴの目の前に差し出した。
 チャリ、と空中で軽い金属音が鳴った。コインロッカーの鍵だ。フーゴは中途半端な顔のままそれを受け取ると、上着の内ポケットに仕舞ってから親父を見上げた。思ったよりも上背がある。座っている時は背中が丸まっていたから、小柄に見えたのだろう。
「あの、貴方の名前は」
「エリック爺さんと呼ばれとるよ。この街じゃあちょっとばかり有名さ。去年なんかテレビの取材も来てねえ、もっと小奇麗な恰好しとけってカミさんにどやされたもんだ」
「はあ……」
「あんた達、ブチャラティと住んでんのかい?」
 親父の口から、ぷかりと大きな煙が吐き出される。
 え、とまたも目を瞬かせた。どうやら前ぶりなく言葉を切り出すのがこの男の常のようだった。
「違うよ、オレたちふたりでアパルトマンに住んでるんだぜ」
「へえ、そりゃ大したもんだ」
「……なんだってそんなこと訊くんです?」
 訝しみを隠さず問うと、エリック氏は手と頭を一緒に振って見せた。
「ああ、いやね……大したことじゃあないよ。ただブチャラティは元気かと思ってねえ。もう随分会ってないから……大きくなっただろうね?」
 再びチェアに腰を下ろしながら、親父はなにごとかを一人で納得するようにうんうんと頷いた。
 目を細めて懐かしそうな色を浮かべているその相貌は、やはり孫を想う祖父のそれに似ていると思う。大きくなったという言い回しからして、彼をだいぶ昔から知っているのだろうと推察してフーゴは少し気後れした。この男が望むような情報を、自分はあいにく持ち合わせていないのだ。
「……」
 彼なら元気ですよ、とだけでも教えてやろうかと口を開いて、しかし脳裏に浮かんだとある光景にぱたりと瞬きをして視線を逸らすと、そのまま何も言わずに唇を閉じた。不審がられやしなかったかと目線を戻せば、親父はこちらを見ているような、追憶に沈んでいるような、捉えがたい伏し目がちな表情をしていた。
 ナランチャが何かを言おうか言うまいかで逡巡している気配がしたので、フーゴは先手を打って小さく咳ばらいをすると、長閑な静けさの中で几帳面な一礼だけをした。
「……では、行ってきます」
「ああ行っといで。鍵は早めに戻しに来たほうがいいよ、ここは夜は物騒だから。――なあんて、ワシらが言うことでもねぇさなあ」
 むせるようにわっはっはと笑う親父の声は、本当に可笑しんでいるのであろう朗らかさが浮かんでいた。一瞬訪れた冷やりとした気配に強張っていた頬を緩めてフーゴが頭を上げると、彼はまだ同じ姿勢のまま腰かけていた。そうしてフーゴとナランチャが立ち去るまで、ついに彼はそこから動くことはなかった。けれども踵を返した後もずっと、あのチャイルドブルーの瞳が首筋のあたりから肋骨の奥まで染み渡ってくるような心地がしていた。
「フーゴー、どうかしたのかよ!」
「なんでもないって! それより急がなきゃ、電車混んでるんですからね!」
通行人のざわめきにかき消されないよう、叫び合うように話しながら駅を目指す。
(ブチャラティについて何も言えなかったのは、あの爺さんを警戒してのことじゃあ……なかった)
 フーゴは足を動かしながら自らに確かめるよう、そう心の中で何度か繰り返した。何故かは分からないが、彼には本当のことだけを伝えなければならないような気がしていたから、ブチャラティなら元気ですよと口にすることが憚られたのだ。

『行ってらっしゃい、気をつけて』
 今日の朝早く、まだ薄暗いうちに小さな鞄を持って事務所を出た上司の横顔は、決して元気だとか調子が良いとか、そういったたぐいの言葉が似合うものではなかった。
『じゃあ頼んだぞ、フーゴ』
 表通りまで見送りに出ると、本人は普段通りのつもりなのであろう、下瞼を持ち上げるような笑みと共にブチャラティはぽん、と頭に手を置いてきた。こちらを見下ろしたために陰になったブチャラティの真っ黒な瞳、それから薄ら青い日の出前の空の色をところどころ映した髪、グラファイトの革コートを思い起こす。どれも静かに沈んだ色をしていた。
元気でないと言ったって彼が健康面ではひとつも問題がないことは保証できるけれども、もっと内面的な部分で、今日のブチャラティには鞄よりもずっと重たく翳ったものがぶら下がっていることを、フーゴは知っていた。