(アニメ設定)




 その街を訪れたのは偶然だった。
 気だるさと温かみをいっぱいに含んだ風が、休日の歩行者天国の人ごみをぬって頬を撫でる。ひと風吹くたび、ざわざわと揺すられた花びらが音をたてながら枝を離れ、道行く人やポケモンの上に舞い降ってくる気配がする。見上げなくともまっすぐ前を見ていれば、満開の桜並木がまるで青空とビル群を覆うように花房を伸ばし、薄紅色のなだらかなアーチをつくっているのが臨めた。
 踏みしめるごとに、路面にうっすらと降り積もった桜の花びらのやわらかさを靴底で感じるような気がした。
メインストリートから一本外れたこの大通りには、花見客のための屋台が立ち並んでいる。赤や黄色やピンクや縞模様など、色とりどりの趣向を凝らした屋根が鮮やかだった。普段は何とも思わない雑踏のざわめきも、彩り豊かな景色と客寄せの声が響く中で聞くとなんだか愉快なものに聞こえるのが不思議だ。この空間にあるものすべてが、ふわふわと弾んでいるようだった。
「お兄さん知らないの? 今日はコンテストがあるのよ」
 適当に目についた屋台でオクタン焼きを買い、それにしても人が多いんですねと何気なく口にしたところ、オクタン焼きを手渡してくれた女性が驚いた顔をしてそう教えてくれた。「ああ、そうなんですか」ダイゴはなるほどと納得して頷くと、まだ怪訝そうに自分の風貌を眺めてくる女性に礼を述べて、屋台を後にした。
 歩行者天国を抜けて交差点を曲がるまでに、チェリムに三回ぶつかった。野生なのか誰かの手持ちなのかは分からなかったが、人に慣れきっているようだった。
桜の季節になると、チェリムは浮かれてそこらじゅうを跳ね回る。今日は天気も良いから余計に嬉しいのだろう。桜並木の中を、大きな桜に似たポジフォルムのチェリムがくるくると踊っている様子は可愛らしいものだった。あれもこの季節ならではの光景だ。

 桜の通りを外れると、ごく普通の小さなオフィス群とショッピングモールが立ち並んでいる。こちらも通常より活気があるのは確かだったけれども、先程までと比べれば味気のなさは否めなかった。代わりに、ダイゴはこの街に入って初めてそれに気付くことができた。
 コンテストの街灯旗だ。
 風にひらひらとはためいていてよく読めないが、この街では初の開催で、今日明日と二日間開かれるらしい。街灯や店舗のほとんど全部に設置されている。ぱっと目につきやすいデザインだというのに、これまで意識に留まらなかったのは、桜や通行人や屋台などに気を取られていたためだろう。
 コンテストか、とダイゴは単調に呟いた。
 自分がコンテストについては素人同然であることは、周知の事実だ。ココドラやボスドゴラのアピールポイントについてすらよく知らない。観賞するにしても、テレビ中継で見ることはあるが、わざわざコンテスト会場まで足を運ぶようなことは滅多になかった。この街でコンテストが開催されるなんてこともつゆ知らず、南にある山から下って来たのはたまたまに過ぎなかった。
 ホウエンの冬は凍えるほど寒くはなく、しかし活動が鈍くなるポケモンは多いため、洞窟などで石を掘るには都合が良い。今回は山の中腹にあるポケモンセンターを拠点に一ヶ月ほどの採掘を終え、一番近いこの街へと下りてきたところだった。山に籠っている間に冬から春に変わっていただけでなく、街が見違えるほど賑やかだったので驚いたのだったが、コンテストがあるとなればそれも頷ける。コーディネーターは言わずもがな、観客たちも大勢やって来ているのだ。
 ダイゴは屋台の女性の視線を思い出し、自らの格好をざっと眺めてみた。そうして、確かに、薄汚れた登山服を着ている自分は場違いなのかもしれない、と今さらながらに照れくさくなって小さく笑った。
 ポケモンセンターに向かって歩いていると、ショッピングモールの建物の間から大きな球形の屋根が見えた。幾何学模様のガラス面が青空を映し込んでいる。普段はバトル大会や商業イベントなどに使われているホールに、コンテスト用とおぼしき装飾がなされてるようだった。あそこが今回の会場なのだろう。開場にはまだ数時間あるようだが、すでにホールへ向かっていると思しき人影がそこかしこに見られる。
 ふと視界が開けたところで、見覚えのある物を発見した。ダイゴは「あ」と呟いて、にわかに歩を緩めた。そのペースダウンに反応できなかったらしく、後ろを歩いていた人がリュックサックにぶつかって迷惑そうに追い越して行った。道端に寄って立ち止ってから、もう一度それをよく確認する。やはり、見間違いでなかった。
 水色と白のコンテストリボンをモチーフにした、大きな装飾が遠目にもはっきりと見える。あのリボンの意味だけはダイゴもよく知っている。これだけ人が集まっているのは、そういうわけだったのだ。
 ダイゴは足早にポケモンセンターを目指した。例に漏れず混み合っているセンター内でオクタン焼きを食べ、簡易シャワーを使ってからスーツに着替えると、予定を変えてコンテスト会場へ向かうことにした。
 せっかく同じ街に居るならば、挨拶くらいしたほうがいいだろうと思ったのだ。もしかすると面会している暇などないかもしれないが、その時はその時だ。

 自分が言えたことではないが、ミクリという男はひとところにじっとしているのが苦手なようだった。活動フィールドも肩書きも、会うたびに何かしら変わっていた。それでいて、ハングリー精神に溢れているとかストイックだとか、貪欲といった言葉は似合わない人だ。感性の赴くままに生きていると言っていいかもしれない。
 アイドルのように周囲から騒がれて得意になっているいけ好かない奴だと陰でささやく者も多いが、ミクリにとっては己の魅力がホウエン、ひいてはカントーやジョウト、シンオウ地方に至るまでの数多くのトレーナーやコーディネーターにとって利益をもたらすのは、ごくごく当然の役目である。それが彼の感性だった。
 魅力ある者の義務だと、以前ミクリは言っていた。

 ダイゴは初めてポケモンを貰った年から数年間、バッジ集めと石集めを兼ねて、ホウエンを旅して回ったことがある。その旅の途中、ジム戦のために訪れたルネ島にミクリは居た。
 彼の師匠であるアダンがリーダーを勤めていたためだろう、まず自分を倒してもらおうと言って、ミクリは勝負を挑んできた。当時はまだ一介のトレーナーであったものの、既にコンテストでは頭角を現していたらしい。ジムにはギャラリーの女性たちが何人も集まっていた。

『さあダイゴくん、かかっておいで!』

 ミクリの声は、澄んでいてよく通った。
 いくつか年上らしい彼について、ダイゴはただ、なんだか芝居がかった人だなと感じた。常に誰かに見られていることを想定して、一挙一動をおこなっているような印象を受けた。コーディネーターは皆こうなのかと思ったが、そうでないことは後々知った。
 その頃から、ダイゴはコンテストというものにまるで興味がなかった。実際コンテストをテレビで見ていても、どこが勝敗を決するポイントなのかを、長年理解することができなかった。分かるのは二次審査のバトルでどちらが優勢で、いかに有効な技を使い、どうやって勝利したかということだけだった。バトルでは有利だったのにコンテストでは負けてしまうというコンテストの世界は、いつまで経ってもよく分からないのだった。
 あの日のミクリのバトルもきっと、美しく優雅だったのだろう。だがダイゴにはその記憶がない。
 バトルはダイゴが勝利した。今と違いはがねタイプのパーティを組んでいたわけではなかったから、みず対策を万全にして臨ませてもらった。
 彼は決して弱くなかったと思う。あらゆるタイプの攻撃を想定してパーティを組み、技を覚えさせ、持久戦に持ち込んでダイゴを苦しめた。
 しかし結局は、押しの強さでダイゴに負けたのだ。
 彼は劣勢でも悔しそうなそぶりは見せなかったし、勝利への執念めいたものも希薄なようだった。しかしバトル自体は楽しんでいて、素晴らしい技選びだったよ、とかなんてきれいな動きなんだ、とか言っては大げさにボディランゲージを交えながらダイゴのポケモンを褒めちぎったりした。相変わらずよく通る声だった。
 よく分からない人だな、とダイゴはそのたびに思った。
 釈然としないものが蓄積されていたのだろう。三体目のラブカスが倒され、ボールに戻しながら穏やかに労いの声を掛けているミクリをフィールドの端から見ていたら、ついに内心がぽろっと口をついてしまった。
 それは幼さゆえの理不尽な感情であったかもしれない。

『あなたは、コーディネーターとトレーナーのどっちになりたいんですか?』

 挑むような目で尋ねてきた年下のチャレンジャーに、ミクリはきょとんと南海色の瞳をしばたかせた。エメラルドのようなその色は当時のダイゴから見ても綺麗な輝きを放っていたけれども、すぐに彼が浮かべた笑みはやはり、釈然としないものだった。思い返せばあれは、慈しむような面差しだったかもしれない。

『わたしの魅力を活かせるなら、何にでもなるよ』

 朗々と告げ、両手を広げ、それから腰を折って優雅に礼をしたミクリは舞台役者のようだった。
 こちらの会話など聞こえていなかったであろうギャラリーの女性たちが、ミクリの動作を見てきゃあきゃあとはしゃいでいた。回答の意味は理解できても納得できるものではなかったけれども、彼女たちの声を聞いていると居づらくなってしまい、ダイゴは黙って一礼してミクリに背を向けた。彼は引き留めようとはしなかった。しかし代わりに、歌うようにダイゴにひとつ問いかけた。
 去り際の背中に投げかけられたその一言は、今でも耳にまざまざと残っている。

――きみは、何になりたいのかな?





 会場に到着したものの、ホールには準備中の立て看板が置かれており、一般人の入場は許可されていなかった。
 スタッフ達が忙しなく走り回る正面エントランスの支柱に背を預け、ポケナビを耳に押し当てていたダイゴは溜息をついてそれをポケットに押し込んだ。
 何度かコールを鳴らしたが、応答がない。
 コンテスト前というのはリーグ前と同じで調整やら何やら忙しいのだろう、仕方がないから出直すか。そう結論付け、支柱から背を離してきびすを返そうとした時、奥から歩いて来た数人のスタッフが焦りを含んだ声で口早に話す内容が、途切れ途切れに耳に入った。ダイゴはぴくりと反応し、歩き出した姿勢のまま爪先の向きを変えた。
「どうしよう、ミクリ様が」
「午後から本番なのに」
「だって、あれじゃあ出られないだろう」
 一様に困り切った顔をしている。
 それだけ聞くと、ダイゴは体を転換させてすたすたとホールを横切った。そうしてインフォメーションカウンターの脇に目立たなく存在している関係者以外立ち入り禁止のドアを見つけ、何食わぬ顔でドアノブを回した。
警備員のたぐいが居なかったのは幸いだった。
 すれ違ったスタッフたちは怪訝そうな表情を浮かべたが、あまりにも堂々と歩を進めるので声を掛けるまでに は至らなかった。ダイゴは自分がこういう場所に紛れこんでも違和感がないことを知っていた。

「ミクリ様控室」と書かれたドアをノックすると、すぐに返事が聞こえてドアが内側から開いた。
 まだ若い、どことなく気弱そうな男性スタッフが顔を出す。困り切っているのが手に取るように分かる。彼は数秒まじまじとダイゴの顔を見ていたが、ええと、と弱ったふうに眉を下げてためらいがちに口を開いた。
「失礼ですが……あなた、スタッフ証は?」
「ああ、僕はスタッフじゃないんだ」
「え?」
「僕はツワブキダイゴ。ミクリさんの知合いなんだけど、会わせてもらえませんか」
 中途半端な敬語とまったく腰の低くない話しようにますます困惑したらしい男性は、しかしツワブキダイゴという単語には覚えがあったらしい。あなたひょっとして……と言いかけたその後ろで、ダイゴ、と疑問符を付けた声が聞こえた。ダイゴは些か眉をひそめると、男性の脇からひょいと顔を覗かせて声の主と目を合わせた。
 そこに居たのは紛れもないミクリだった。一見どこも変わったところはないのだが、彼の声は普段とは比べ物にならないほど、ひどく掠れてしまっていた。
「どうしたんだ、その声」
「ミクリさんは昨日から喉の調子が悪くて……」
「花粉症かと思ってたんだけど、どうも違うみたいだね」
 男性の声を受けるように、ミクリが苦笑した。
「バカだな、花粉症なわけないだろう」
 世を騒がすミクリ様を平然とバカ呼ばわりするダイゴにぎょっとしたのか、男性スタッフは固まった。その隣をすり抜けて、ダイゴは控室へと足を踏み入れた。
 すまないけど、彼に適当なスタッフ証を渡してもらえるかな。ミクリがウインクをして肩を竦めると、彼は金縛りが解けたようにびくっと肩を揺らしてから、とにかく頷いて、慌てて控室を出ていった。
 室内にはハチミツと柚子の香りが充満している。
 壁際の白いテーブルに、ポケナビが置かれている。先程まで座っていたらしい椅子に腰かけ、喉のために用意したらしいホットドリンクのカップを両手でしっかりと握るミクリは、ダイゴがここへやってきた経緯を聞くとガラガラした声できみらしい、と言ってから数度咳をした。
 春になると、ダイゴは山や洞窟から出てくることが多い。野生のポケモン達が活発になるから、余計に刺激してしまうのを避けるためだ。それを知っているミクリは、おおかた下りてきたことを連絡するためにコールしてきたのだと思って、通話ボタンを押さなかったらしい。まさかダイゴがこの街に居るなんてことは考えなかったのだ。
「喉を使わない方がいいぞ」
 ミクリは内緒話をする時のように、仮声を使ってわかったと返事をした。静かな室内にそのひそやかな声は妙な質量で響き、後にはきんとした静けさが残った。
 この控室は、ミクリ一人が使うには広すぎる気がする。ふたりで居ても有り余るほどの空間だ。ココドラでも出そうかと思ったものの、ミクリがポケモンを出していないのだから、やめておくのが賢明なのだろう。
 備え付けの妙なかたちをしたスツールのような椅子に腰かけて、ダイゴはしばらく部屋中をきょろきょろと眺めていた。壁二枚分を覆う巨大な鏡と、そこにメイクや衣裳直しに使うのであろうカウンタータイプのテーブルが連なっている。天井からは小型のモニターが下がっていて、コンテスト会場の様子が見えるようになっていた。
 壁には、お馴染みのマントと帽子が掛かっている。マントは皺ひとつなく滑らかそうだ。そして奥にあるクローゼットには恐らく、コンテスト用の衣装が何着も入っている。ダイゴの知っているものから、知らないものまで。
 ミクリは今や、ホウエン地方を代表するコーディネーターなのだ。この控室の広さもそれを物語っている。
 視線を戻すと、ミクリは鏡に向かって髪を整えている。それを眺めてからそうだ、と呟いて、ダイゴはスーツの内ポケットから小さな包みを取り出した。
「ほらこれ」
(なに?)
「おみやげだよ、ミクリに」
 相変わらず音にならないひそひそ声で話すミクリの返事が聞きとりにくかったため、ダイゴは椅子を詰めた。だだっ広い部屋でこんなに近くに座っているのは変な感じがしたが、相手の声が聞こえないのだから仕方がない。ミクリも同じことを考えていたようで、カップをいくぶんか自分の側へ引き寄せて笑い、差し出された包みを受け取った。それを少し撫でてから、丁寧に包みを解いてミクリはダイゴのほうに目線を上げた。
(ほしのかけらだね)
「ああ、僕はいらないからミクリにあげようと思って」
(ありがとう。ふふ……きれいだね)
「好きだろう」
(うん)
 いつもと声の出し方が違うせいか、ミクリの口数は少なかった。ダイゴの声がやけに大きく聞こえた。
 ほしのかけらはクリームイエローの隕石中に虹色の小さな結晶が含有されている。蛍光灯の光にそれを透かしているミクリを眺め、ダイゴは紙コップのお茶を呷った。
 ミクリは笑みを浮かべているが、内心では焦りと自己嫌悪で沈んでいるのだろう。トレーナーであれコーディネーターであれ、声は非常に重要だ。声が思うように出せなければ、ポケモンに指示を出すことは一気に難しくなる。それにも増して、ミクリは一言喋るだけで観客が湧くほどのエンターテイナーでもあるのだから、逆を言えば声が出ないということは大きく彼の魅力を削ぐことになりかねない。事情を明かしてボディランゲージなどで乗り切ることも不可能ではないだろうが、ミクリはそれを自分自身に許すことはないだろう。
「病院には行ったのか」
 素気なく尋ねてみると、ミクリは首を横に振った。昨日から調子が悪くなったということは、病院に行くような暇もなかったのかもしれない。
「じゃあ今日は僕が代わりに出るから、病院に行ったほうがいいよ。本当に声が出なくなったらまずい」
 目を見開いて見つめられる。
 ダイゴ自身も、こんなことを言った自らに少し驚いていた。コンテストに対する造詣はそこら辺にいる新米コーディネーターと似たり寄ったりのくせに、ミクリの代わりに審査席に座ろうというのだから、我ながらどうかしていると直後に思った。
 数秒じっと意外そうにダイゴを見つめていたミクリだったものの、やがて彼は息だけでくすくすと笑いをこぼした。その表情にはなんとなくデジャヴがあった。
 ダイゴが出ても「いいと思います」しか言わないじゃないか、とからかい交じりに言うミクリに、ダイゴは拗ねたふりをして見せてから、確かにそうだと笑い返した。
 そりゃあ僕はコンテストなんてからっきしだから、ミクリカップを他の地方でも開こうなんていう人には遠く及ばないだろうな。嫌味でなく目を合わせたままそう続ける。ミクリはそれには返事をせずに、ただあの柔らかい笑みを浮かべてダイゴを見つめた。穏やかなかたちをした細い眉を、ダイゴはとても好ましいと思った。
 きみは何になりたいのと尋ねられてから、ずいぶん長い月日が流れた。ダイゴもミクリもあの頃より大人になったのだと、それは肉体的な成長に関してのみならず、さまざまな場面で当たり前の事実として認められる。
 やっていることは大して変わらないけど。
 内心でごちて、可笑しい気分になった。
 前回のホウエンリーグトーナメントの優勝者であるダイゴは、肩書きで言えばチャンピオンである。それにしては知名度が低いのは山にばかり籠っているせいだ、というのは他でもないミクリの、それから父親であるツワブキが会うたびに言ってくる台詞だ。
 彼らに言わせれば、公式戦もさほど組まず、メディアにも露出しないで石ばかり集めているダイゴの気持ちはよく分からないのだろう。それでもダイゴとしては充実しているし、彼らにもダイゴの充実ぶりを疑う余地はないから、好きにさせてくれている。ありがたいことだ。
 チャンピオンがダイゴのなりたいものだったのか、今でもよく分からない。バトルで勝つのは気持ちが良かったし、ホウエンで一番強くなるという目標があったからこそ、辛い状況でも乗り越えてこられたというのは確かだった。けれども、チャンピオンという地位そのものには大した魅力を感じない。自分にとって頂点というのは、たどり着いた一瞬の喜びを噛みしめるためにあるのではないか、と感じることもある。珍しい石は見つけた後も飾っておきたくなるのに、どうも勝手が違うようだった。
(コンテストは、楽しめばいいのさ)
 ミクリがこちらに顔を寄せて、内緒話のように囁いた。
ありがとう、と継がれた言葉にダイゴはまたいささか意外な心持ちになったが、彼の返答が素直に嬉しくもあった。差し出された掌とぎゅっと握手を交わす
 ミクリはコンテストマスターとしての顔をしていた。
 大人にはいくつもの顔がある、ということを頭でなく感覚で理解できたのは、一体いつ頃だっただろう。それはこどもの時分あやふやに観念していた、欲張りで卑怯な側面ばかりではないのだと気が付いたとき、ダイゴは背をぱしりと叩かれたような、眩しいような恥ずかしいような、なんだか複雑な感覚をおぼえた。あの感覚にどこか近いものを、今も感じている。
僕も大人になった、とダイゴは口元を緩めた。
 歳を重ねてきたのだ。ルネジムでは鼻白むことしかできなかったミクリのやわらかい笑顔を、心地よく感じられるくらいに。
「ミクリ、あとで花見をしに行こう」
 どうせコンテストの準備で忙しかったんだろう、ダイゴがティーパックのお茶を勝手に淹れながら言うと、ミクリはやれやれと音がしそうな苦笑いをして頷いた。
 花見と言っても、今やどこへ行っても人に囲まれるミクリは軽々しく歩行者天国なんて歩けないかもしれない。どこか穴場っぽい場所を探そう、とダイゴは考えていた。思えばミクリとはそこそこ長い付き合いだが、花見をしたことはあっただろうか。
ミクリの隣に腰かけようとしたところで、控室内にノック音が響いた。あの男性スタッフが戻って来たようだ。
 どうぞ、とダイゴが応えると、様子を窺うようにしながら彼は物音もたてずに入って来た。あの、チャンピオンのダイゴさんですよね、と恐縮するように肩をすぼめている男性スタッフに思わず噴き出し、ダイゴはミクリと一緒に彼の側まで歩み寄った。
 スタッフ証を用意してくれたらしいこのスタッフ君には申し訳ないが、これからダイゴは本日のメインゲストになるのだ。その旨を説明すると、彼はまたしても目を白黒とさせてふたりを交互に見た。しかし間もなく、どこかでほっとしたように「そうですか」とだけ返事をすると、上の人読んで来ますと言って忙しなく出て行った。
 チャンピオンという立場も役に立つんだな、とダイゴはまんざらでもない表情を浮かべた。
「そういえば、どうしてポケモンを出さないんだ?」
 沈黙が落ちたので、ドアの側に立ったまま、ふとミクリに尋ねてみた。ずっと気になっていたことではある。
(心配させてしまうからね)
「やっぱそうか」
 ダイゴは頷くと、自分の腰のモンスターボールをひとつ取って開閉ボタンを押した。
 光と共に現れたココドラは、珍しい場所に出たので面白そうにきょろきょろと控室を見回し、くんくんにおいを嗅ぎ、それからダイゴとミクリの周りをぐるぐると回った。明るい白熱灯が鏡にも反射し、それが白銀色のボディにも反射してたくさんの光の粒が映っている。
 ひさしぶりだね、とミクリが掠れた声をかけるとココドラは一瞬びっくりしたふうに足を止めたが、すぐにココココ、と鳴いてミクリを見上げると、降りてきた手に機嫌良さそうに撫でられていた。
「そいつ、ここに置いていくよ」
 ポケットに手を突っ込んだダイゴを中腰のまま上目に見たミクリは、今度は驚いた顔はせず、いいのかい、と目を細めながら笑った。手はココドラを撫で続けている。ひとりじゃ寂しいだろ、と言いかけて、ダイゴは途中で言葉を変えた。
「ひとりじゃつまらないだろ」
 ミクリは可笑しそうに、いっそう破顔した。
 そうしているうちに、通路から何人かの足音が聞こえた。ドアがまた叩かれた。先程よりも素早い叩き方だった。
 ダイゴがドアを開けると、プロデューサーらしき男性が前のめりにお辞儀をした。その後ろには、あの男性スタッフも居る。中からは見えないが、通路にはまだ他にも居るのかもしれない。
「あっ、チャンピオンのダイゴさんですよね。いやー、このたびはコンテストの審査員を代役してくださるとか」
「ええ、そのつもりです」
「ありがとうございます! ミクリさんのコンディションも心配でしたし、今日はお休みいただいたほうがいいかと思っていたんですよ。サプライズゲストなので皆さんも喜ぶはずですよ。ああ本当によかった、ありがとうございます、どうぞよろしくお願いします!」
 営業マンみたいなはきはきした話し口調と腰の低さに、思わずダイゴはミクリと顔を見合わせて笑った。この短時間に、スタッフの間で話がついたらしい。
「ミクリさん、今日はゆっくり休んでください。明日もありますし、その声ではファンが心配するでしょうから」
 ありがとうそうさせてもらうよ、とガラガラした声でミクリが返すと、プロデューサーらしき彼は本当に気遣わしそうな顔で何度も頷いた。
「それではダイゴさん、打ち合わせがありますので来ていただけますか」
 促されるまま、ダイゴは控室を後にしようと歩き出す。
 するとそこへ、仮声でミクリが何か話しかけてきた。え、と振り返るとミクリはただ笑っていて、ごめんなに、と言っても行ってらっしゃいとばかりに手を振って、もう一度言ってくれようというつもりはなさそうだった。
「わ、なんだよ」
 向き直ろうとしたダイゴの肩を掴み、くるりとドアの外へ回転させると、ミクリはくすくすと背後で笑った。
 背中に文字を書いているらしいと気が付いて、ダイゴはじっと大人しくした。短いそれを書き終えるとミクリはまた息遣いのみで笑い、追い出すようにダイゴの背を押しやってドアを閉めた。
 ダイゴは笑いをかみ殺しながら、打ち合わせへと向かった。
 背中がいつまでもむず痒かった。