柱時計がぼおん、と幾度めかの時を鳴らした。
 ようようと夕陽に染まりつつある室内はどこまでも黄昏色をしており、棚やテーブルのおもてを覆うバニッシュが鱗粉を撒いたように金色にこまかな光を放っている。窓外に茂るさまざまの木々も青みを潜ませて、逆光のなかで橙の輪郭ばかりをきらきらと風にそよがせていた。
 すみやかに過ぎゆく夕刻の底で、背を丸めた佐藤はまるで微動だにせず佇んでいた。あたかも彼の周りだけ時が止まったようなふぜいであった。談話室のソファに深く腰を沈めたきり、彼がどれほどの間をああして項垂れて過ごしていたのかを正確に知る者は、おそらく誰もいないだろう。初めに見つけた中原が言うには昼過ぎにはもうあの有様であったという。打ちひしがれているようでもあり、なにか穏便でないものを腑のうちに蟠らせているようにも見えた。侵蝕されているわけではないことが周囲の者にとってみれば救いであり、また同時に厄介でもあった。
 転生した者は非常によくできたつくりものであるから、時折こうして精神だとか情緒だとかがいかれてしまう――これは坂口がよく使う言葉である――ことはままある。とりわけ佐藤はその頻度が高い部類に入っていた。何らかのきっかけで心が打ちのめされたか荒んだかしてああなったのだろうと推察こそすれ、彼に声をかける者は今日この瞬間まで誰もいなかった。項垂れた佐藤は手に負えないと皆が知っているのだ。さほど親しくない者が声をかけたところで「何でもない」の一言であしらわれ、親しい者、例えば井伏が気遣いをしてみても「すまんが暫く放っておいてくれ」などとぎこちない笑顔で拒絶され、否応なく遠ざけられるのだった。そんな風に言われては、いかに世話焼きといえども井伏には従うよりほかはなかった。
 これが佐藤の自室や開架書庫の隅などであったなら、皆それぞれの心証を得て気をかけながらも彼をそっとしておいただろう。しかしこのたびは事情が違った。彼が鎮座しているのは、文士達の憩いの場である談話室なのだ。つまりありていに言ってしまえば、そこで憩いたい者にとって佐藤はどうにかご退室願いたい存在なのであった。
「はあ、それで私ですか」
 談話室のドアの前に立ち、さして感情の乗らない常のとおりの声と下がり眉で谷崎はひとりごちた。なかば他の連中から押しやられるようにやって来たのだが、さしたる不快もおぼえずにいるのは元よりの性分ゆえでもあり、またこれが初めてというわけではないためでもあった。
意味などないと知れたノックを鳴らし、春夫さん、と声をかけながら室内へ踏み入れると、しんとした中に毛羽立つような肌ざわりの空気がみっしりと詰まっていた。その真ん中で佐藤はいまだに項垂れている。背を丸め足を肩幅ほどに開き、その両膝に肘を置いて、手の先はだらんと床にむけてぶら下がっている。表情は窺えず、谷崎を迎えたのは栗色のつむじだけであった。あかあかとした夕陽が彼の背後から差しており、その眩しさと引き換えに彼の体躯は全体的に暗く見えた。
 ここでようやっとひたりと笑みを浮かべ、谷崎は滑るような足取りで佐藤の傍まで寄ると、はるおさん、ともう一度名前を呼んだ。今しがたよりは柔らかげな声であった。いらえがないので膝と膝が触れるほどに近づくと、谷崎の足首の飾りについた鈴がちりりとさえずるような音を散らした。
 皆さん心配していますよ、
 辛いならさぁ部屋に帰りましょう、
 いつまでそうしてしみったれているのです、
 などと囁いてもなしのつぶてであることを、谷崎はよく知っている。だからもうそれ以上何も声を連ねずに、白い手を伸ばすと、項垂れた佐藤の髪に静かに触れた。真昼から日差しを受け続けていた髪はほのかに温かい。そうしてようやっと微かに揺れた彼の肩の動きを見つめながら、谷崎はさくさくと張りのある栗色の毛に指を通して、幾度か佐藤の頭を撫でてやった。己のものとは質の異なる張りのある髪は、存外に触り心地がよい。
「……谷崎」
「ええ、」
 それだけ言うと、またふたりの間には沈黙が落ちた。わずかに上向いた佐藤の双眸を見やり、その鬱屈で人を殺せそうな理不尽さを湛えた若緑色にぞくりと愉快な心地を覚えた。谷崎の瞳の金色がついえる間際の夕陽を映し、琥珀のように艶めいた。なにを言っても嫌味のひとつも寄越さぬ佐藤ほど面白みのないものはないと常日頃から思っているが、こうして内に溜め込んだ暗然とした淀みを己にだけ晒してくれるのは嫌いではなかった。むしろ往年の彼をよくよく知っている谷崎にとって、稀に垣間見る佐藤の剣呑さは妙な懐かしさをもたらすのだった。
 頭頂からうなじにかけてゆっくりと撫で続けていると、やがて筋張った腕が重たそうに持ち上げられ、谷崎の腰に回った。その倦怠さとは裏腹に強い力はがっしりと細腰をとらえ、そのまま佐藤の額は谷崎の腹のあたりに押し付けられたきり杳として動かなくなった。少しばかりバランスを崩したものの、その頭を抱えるようにして谷崎はまたゆるゆると撫で続けた。よしよし、いいこですねぇ、などと猫撫で声を出せばまたあの射貫くような眼を見せるだろうかと思いながら、ゆるく弧を描いた唇はなにごとも紡ぐことはなかった。
 以前戯れに頭を撫でてやったところ、口には出さないが随分とそうされることを気に入ったらしい佐藤は、以来谷崎に撫でられることを好ましく感じているようだった。余人のいる場でそのような真似はさせないが、二人きりの時にはたびたび谷崎は彼の長身に指先をのばし、彼はそれに心地よさそうに応じた。嗚呼この男を撫でようなどという者は、この世界には私のほかにおらぬのだ――そう実感するにつけ、谷崎の胸には可笑しみと愛おしさが渦のようになって生じた。戯れが睦みあいに変じたのがいつであったのかは、どちらにも分からないままであった。
「日が落ちたら、部屋に行きましょうね」
 ささやくようにそう告げると、腹の布地のあたりからくぐもった返事が聞こえて谷崎は笑った。談話室に満ちていた鱗粉のようなあかい光は次第にはかなくなり、照明の灯されていない室内にはその端々から、もののかたちが分からないほどの濃紺が忍び寄っていた。
 不意に佐藤の手が、何かを確かめるように谷崎の腰を撫でた。帯に巻き付けてある飾り紐が躍る気配がした。そのこそばゆさに吐息だけで笑うと、谷崎は佐藤を撫でながらつい、と室外に意識を向けた。長い廊下を隔てたあちらでは、夕餉のために文士達があちらこちらから食堂に集まろうとしているのだろう、ぼんやりとした賑わしさが遠い潮騒のように耳に入った。その音の氾濫の中に今宵わたしたちは混じることはないのだ、と思うと、谷崎はわけもなく腹の底がぞくぞくとするのを感じた。




/絵画にはなれない