あらゆる方向から飛んでくる歓声を浴びて熱気を帯びたバトルフィールドは、いつもより何倍も輝いているように見えた。三つの異なる声が各々にポケモンたちに指示を出し、それに応えてやはり異なった声が響き渡る。視界のそこらじゅうで素早く、また慎重に狙いを定める影が動きだすと、ドーム内の声援はひときわ大きいものとなった。遅れをとらないよう自分もシルヴァディに次の一手を繰り出させ、グラジオは握った拳に力を込める。意識が研ぎ澄まされ、血がたぎっているのが分かる。この瞬間、指示を出してから技が決まるまでの短くも長い一瞬は、グラジオの最も好きな時間のひとつだった。 「――ッ!」 閃光が走る。 ドームの天井高くまで貫いたその光に場内はどよめき、トレーナーたちは腕で目を守りながら自らのパートナーを探した。グラジオも同じようにしたが、他の二人のトレーナーよりは冷静だった。なぜならばこの閃光、ジュナイパーのソーラービームは予測できていた展開だったからだ。光が収束するとすぐに自分の元へと戻ってくるシルヴァディを見つけ、それからグラジオはフィールドの対角線上に居るハウに視線を送った。「よし、きまったねー!」笑顔でジュナイパーを撫でるその姿に、やはりなと口角を上げる。読みは間違ってはいなかったようだ。 ハウとバトルロイヤルに参加するのがほとんど習慣のようになってから、もうどれくらい経っただろうか。二人でバトルをするのも勿論好きだが、ここバトルドームでのバトルロイヤルはまた一味違った興奮をあじわうことができるので、予定が合えばたびたび通っているのだ。初めはグラジオが手ほどきのようなこともしていたが、ハウは飲み込みが早く今では強敵のひとりとなっている。 (……ん) なにごとかをジュナイパーに指示している横顔を見やっていると、わずかな違和感を覚えた。ハウの表情と声がいつもよりもどことなく曇っているような気がしたのだ。以前に比べてハウはバトル中に真剣な、言い換えればムキになったような表情をすることが増えたのだが、そういえば今日はああいった顔もあまり見ていないのではないか。グラジオはシルヴァディを撫でる手を止め、どうかしたのかと眉をひそめかけた――が、それとほぼ同時にハウの大きな瞳がグラジオの薄緑色をとらえた。 ハッとして目を見開くグラジオに一瞬驚いたようにぱちくりとしてから、ハウは満面の笑みでこちらへと手を振った。フィールドの端と端でも、白い歯が輝いているのがよく見える。ぶんぶんと腕ごと振るさまにおいバトル中だぞ、と照れ臭くなりながら、グラジオは気のせいだったかと小さくため息をついた。意識の隅のほうではジャッジが旗を上げ、参加していたバンバドロの戦闘不能を告げていた。 バトルロイヤルを終え、ロイヤルアベニューで昼食を食べると二人はマラサダショップへと向かった。これももう恒例のようになってしまっていた。この街のマラサダショップは他店に比べて店舗も大きく人気がある。運が悪いと何十分も並んだり売り切れてしまうこともあるのだが、今日はどちらも回避することができた。リュックサックを膨らませて嬉しそうにしているハウの隣を歩きながら、グラジオはふっと穏やかに笑う。 「今日のお前はついているな、マラサダもバトルロイヤルも……いや、バトルは運じゃなくて実力か」 「そーだよ実力ー。でもグラジオもまた強くなったよねー、勝ててよかったよー」 「当然だろ、オレだって鍛えているんだ」 目元が緩むのが分かる。そっけなく返しつつも、内心ではハウの言葉が嬉しかった。発する言葉のあとさきを考えすぎてしまう自分と違い、ハウはいつでも恥ずかしげもなくものを言う。よく人を褒め、励まし、喜ばせている。それが偽りであるとか社交辞令ではない心のままの言葉だと分かるから、ハウを知る人間は、いやポケモンもまたハウのことを快く思っているのだろう。心のままであるがゆえに時にはキツい発言もあるのだが、それさえもグラジオは気に入っていた。 「……どうした?」 そのとき、並び歩いていたハウがふらりとバランスを崩した。 「ん、あれ……?」 「おい、ハウ!」 崩れ落ちそうになったハウを抱きとめ、思わず名を叫ぶ。ハウはグラジオに身を任せたきり、膝に力が入らないのかそのまま地面に座り込んでしまった。背を支えてやりながら顔を覗き込むと、いつの間にか肌は赤らんで薄っすらと汗ばみ、ぼんやりとした表情をしていた。頭からみぞおちまでが一気に冷たくなるのを感じつつ、まさかと思い額に手をあててみる。やはり熱かった。よくよく集中すれば、触れている服越しに伝わる体温も普段より高い。 (一体いつから) 顔をしかめるとグラジオはすぐにライドギアを取り出し、一寸考えてからリザードンを呼び出した。間もなく大きな両翼が二人の上に影を落とした。ハウ、しっかりしろ、と繰り返し呼びかけるグラジオに弱々しい笑みを向けたハウは、「だいじょーぶー……」と消え入るように呟きながら意識を失ってしまった。完全に力の抜けようとしている体を抱き上げ、無意識に唇をきつく噛みしめる。焦燥感から心音はうるさく全身を駆けめぐっていたが、みぞおちに氷が埋め込まれたような感覚はいつまでも消えることはなかった。 * エーテルパラダイスの屋敷内にある一室、ゲストルームとして設けられているその部屋には時計がない。もともとは壁掛けのものがあったのだが、調子が悪くなって修理に出させてからまだ戻ってきていないのだ。ゆえに室内には秒針の音すらもなく、しんと静まってまるで外の世界とは隔絶されたどこかに居るような心地になる。その中で、グラジオは身じろぎもせずに立っていた。どれほどの間こうしているのか分からないけれども、時計のない部屋でそんなことを考えるのはひどく馬鹿らしかった。 ベッドで眠っているハウは、静かにゆったりとした寝息をたてている。普段ひとつに結ってある髪はほどかれ、枕からベッドシーツへとなだらかな曲線を描いて深い緑色が広がっている。ここに運んだ時には苦しげに見えた表情も、今はずいぶんと穏やかになっていた。エーテル財団専属の医師に診てもらったところ、単なる風邪であるらしい。重そうに見える症状もまだ初期のものだとのことで、薬と点滴ですぐによくなりますよ、という言葉がグラジオにとっては救いだった。 グラジオは握りしめた拳を緩慢に開き、食い入るように己の手のひらを見つめた。なぜ気づいてやれなかったんだ、という後悔と憤りから、ひとりでに指に力が籠り小刻みに震える。その手でぐしゃりと前髪ごと頭をおさえ、眉をきつく寄せた。 (やはり、バトル中の違和感は気のせいじゃなかった) あの時もっと気にかけていればよかったのだ。しばらくぶりに会えた嬉しさとバトルロイヤルでの高揚感に浮かされて、慎重さを欠いてしまった自分が恨めしかった。ハウのことだから自分の不調に気づいていなかったのかもしれないが、もしかしたらグラジオ同様に会えたことが嬉しくて隠していたのかもしれない、という思いがますます自責を強くする。これは自惚れではなく確信だった。グラジオがハウのために自らを後回しにすることがあるように、ハウもまたグラジオを優先しようとすることがある。だから不調を隠してグラジオに笑顔を見せていたのだとしても、決して不思議ではない。それは当然グラジオの本意ではなかったが、ハウという少年の性格を考えれば仕方のないことで、だからオレが気づいてやらなければいけなかったのにという後悔に繋がるのだった。 ――もともと、ハウはものごとを隠すのが上手い。 意識的にせよそうではないにせよ、ハウはずっと自分の気持ちを押し込めて生きてきた子どもだった。いくら期待されても祖父のように強くはなれないから、楽しむという手段で自らを保とうとしていた。ハウと初めてバトルをした時、しまキングの孫だということで少し期待していたが手を抜かれているような感触があり、正直腹が立った。あの手ごたえはスカル団の連中とどこか似ていた。本気で、全力でバトルに臨んでもしも勝てなかったらと思うと怖いのだ。自分の中のなにかが壊れてしまいそうで、それを守るために敢えて力を抑えていたのだろう。スカル団の連中はそれがクールだから、ハウはバトルを楽しみたいから、という目的をつくって。 周りの大人たちはハウの境遇を慮って見守っていたのだろうが、あの時のグラジオにはハウのスタンスが許せなかった。決して弱くはないのに自身にセーブをかけるなんて、グラジオにはできないことだった。許されないことでもあった。そしてどこかでハウのそんな在り方を、勿体ないとも思った。環境に振り回される生き方は、その一点においてはかつての自分と似ており、しかし自分は逃げ出しコイツは逃げずに立っている。このある種の器用さがいつかハウを圧し潰してしまうかもしれないと思うと、ひどくやるせなかったのだ。 しかしあの時、感情に任せて口にしてしまった言葉を、今では後悔している。 「グラジオ……?」 静寂にふわりと浮かび上がった声に、弾かれたように顔を向けた。 「ハウ、起きたのか」 「んー……ここどこー?」 「エーテルパラダイスだ。オレが連れてきた」 目を覚ましたらしいハウは、とろんとした顔つきで耳を傾けている。点滴をしたので熱はだいぶ下がっているだろうが、まだぼんやりとして意識がおぼつかない様子だった。グラジオはベッドに寄るとハウを抱き起し、医師が置いていった水と薬を飲ませた。ハウはグラジオにされるがまま、普段の元気をどこかに忘れてきてしまったようにおとなしく薬を嚥下した。風邪であることを告げると「そっかーおれカゼなんだー」と言って笑みを浮かべたので、体調不良には気づいていなかったのだろう。 「なにか食べるか、マラサダもあるぞ」 「いまはいらないやー……」 病人にマラサダはないだろうと分かっていても尋ねてしまい、その返事にそうだよなと頷きながらもグラジオはわずかに顔を歪ませた。ハウのこんな姿を見ているのは辛かったし、その責任の一端が自分にあるのだと思うとますます自責が湧き上がってくる。 「すまなかった……気づいてやれなくて」 「えーなんで謝るのー、おれが自己管理できないのがいけなかったんだよ。むしろグラジオがいっしょでよかったー」 「……それでもオレは、悔しいんだよ」 拗ねたように呟いたグラジオに、ハウは困ったように笑ってからそっかーと言った。この話はここで終わり、という静かな意思が感じられたが、気持ちを否定されなかったことがなぜか嬉しかった。黙って頬を撫でると、その手にすり寄るようにして「冷たくてきもちいいー……」と目を細めるハウに胸が締めつけられる。これは先ほどまでの後悔からくる苦しさではなく、もっと別の、いとしさからくる体感だった。こんな時にハウを可愛いと思ってしまうなんて、何考えてやがるオレ……とかぶりを振るグラジオに、ハウは力なくも柔らかい笑顔を向けた。 「ありがとー、おれを運んでくれて」 「当たり前だろ、お前はオレの……」 言いかけて口をつぐむ。 恋人と言うのは気恥ずかしかった。互いに好き合っているものの、恋人という言葉を使ったことは今まで数えるほどしかなかった。グラジオが続く言葉を考えているうちに、ふにゃふにゃと笑いながらハウはまた瞼を閉じようとしている。まどろみ始めているのだろう。不意に、伝えるならば今しかないという思いに駆られてグラジオはハウに呼びかけた。 「お前にずっと謝りたかったことがある。……初めて会った時のことだ」 ひどいことを言ってしまってすまなかったという旨を伝えると、ハウは少し考えるように首を傾げた。 「んー、たしかにあの時はちょっと傷ついたけどー、グラジオに言われておれもちょっとやる気が出たんだよね……だからいいよー」 語尾がゆるゆるになってはいるものの、それはグラジオには名伏しがたく温かな許しの言葉だった。少し鼻の奥がつんとしたのを感じ、慌てて目線を上げる。初めて会ったあの時からは考えられないほど、ハウは強くたくましくなった。そして以前にも増して優しくなったと。優しさに裏打ちされた強さをハウが手にしたことがまるで自分のことのように嬉しく、そんなハウをどうしようもなく愛しく思った。 ハウの頬にキスをすると、グラジオは耳元で囁くように言った。 「今夜はここに泊まれ。……治るまで泊まったっていい」 「へへー、今日のグラジオはあまいね……マラサダより甘いー」 頬を寄せるようにしてから嬉しそうに眠りに落ちていくハウの、深緑のまつげがゆっくりと震えた。その様子をじっと見守ってからグラジオは、頬にあてていた手をそっと外して髪を撫で、ハウをベッドに横たえてやった。まだ成長途中の細い体を抱きしめたい衝動に駆られたが、すぐに立ち上がって自らの欲を振り払った。 眠るハウの顔はあどけない。もっとこいつのことを見ていてやりたい、オレの手元に置いておきたい、という想いがあとからあとからせり上がってくることに頭を抱えつつ、穏やかな寝顔を見ているとどうしようもなく顔がゆるんだ。手遅れだなという呟きが、ふたたびの静けさの中に蜜のように溶けていった。 |