滝壺の裏にいるようなどうどうと響く水音に、鼓膜がゆさぶられている。靴音を鳴らして歩く細い通路の先は明るく、広く開けているのが窺えた。床が濡れていないか注意を払いながら歩いてゆくと、巨大な屋内プールが見えてくる。壁面の明るい水色のまぶしさに、ダイゴはじんわりと目を細めた。
 ルネジムの地下にあるがらんと広いこのプールには、天井から水が落ちてくるようになっており、水面はいつでも少し波打っている。自然界に近い環境を作り、どんなフィールドにも対応できるようにと設計されているのだ。普段は七つに区切られているコースのうち、三つは境界線が取り外されて、大きなひとつのエリアになっている。
 迫り出した挑戦者用の足場に立つとダイゴは鉄柵から身を乗り出し、プールの中で水しぶきをあげている人物とポケモンをじっと見つめた。キャップを被っているミクリはプールから上半身を出して、泳ぎ跳ねるサニーゴにしきりに声をかけ、指示を出しているのだった。ただでさえ発声の良いミクリの声が、室内プールではさらに反響してすみずみまで高く通った。
 床面の水色に、サニーゴのピンク色がよく映えている。
 水に入っているミクリが片腕を上げると、水面から無数の泡が飛び出しあたりを埋め尽くし、幻想的な光を散らしてやがて消えていく。その中をサニーゴがアーチを描くように跳びあがり、水の曲線を描いてまた水中へと戻っていく。ダイゴはそれを眺め感心の溜息をついた。昼間会ったばかりだというのに、もう息を合わせられるというのは流石としか言いようがない。
 しばらくそうして眺めていると、ミクリがダイゴに気付き、笑って手を振った。それに片手を持ち上げて応える。サニーゴは不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。

「お待たせ」
 挑戦者用の通路に背を預けて待っていると、着替えを済ませたミクリが通用口から顔を出した。髪はまだしっとりと濡れている。ダイゴはべつに急がなくてもよかったのにと笑いながら、そちらへ向かった。目の前にミクリがきたところで、ふと気なしに手首にに触れてみると、外見の白さに反して高い体温が掌に伝わってくる。
 やはり熱いな、とダイゴは思う。
 水に入った後のミクリは体温が高い。泳ぐ人間なら誰でもそうらしいが、水温によって冷えてしまわないように体が熱を作り出すということらしい。このひんやりと涼しげな色合いの男がこんなにも熱いということを一体どれくらいの人間が知っているのだろうか、と考えると、いつもなにか楽しい気分になる。
「もうゲットしたの」
「ああ、悩んだけれどね」
 答えながら、ミクリは少し首を傾げて微笑した。
「悩むって?」
「あの子が暮らしていた場所からこんなに離れたところで、わたしがゲットしてしまってもいいのかってこと」
「なんだ、そういうことは心配しなくていいだろ」
 ダイゴは軽く肩を竦めた。
 ポケモンにとって、良いトレーナーに出会えるのは幸せなことだ。それが例え遠く離れた場所であっても。どのような出会い方であっても。あのサニーゴにも同じことが言えると、ダイゴは思っている。
「さびしくないのかな」
「僕らがいるよ」
 間髪を入れない速さでいらえると、少し驚いた顔をしてミクリがダイゴを見つめた。まっすぐ向き直った顔の両サイドにある髪がわずかばかり揺れたが、水気のためか普段よりも重たげだった。
 僕らが、という物言いに意外さを感じているのだろう。深い意味もなく言ったのだが、そう見つめられるとクサかっただろうかと気恥ずかしくなって、ダイゴは目線をさり気なく逸らしながら短く笑った。
 ちょっと歩こうと言って手を引く。手首はまだ熱かった。

「こうしてると思い出すよね、あの嵐の日のこと」
 二人分の靴音がやけに大きく響く。うん、とだけ返して黙っているミクリの方は見ずに、ダイゴはこども時代を思い起こした。あの頃はめざめのほこらに入りたいという気持ちが強かったけれど、今日はルネに居る間中、ユウキを待っている間も、さほど昔のような欲は湧かなくなっていた。それだけ歳を取ったのだろうか、と思ってしまったことに我ながら笑ってしまった。
「ねえ」
「ん?」
「あのときダイゴが何て言ったのか、本当は聞き取れなかったんだ」
 ごめんと項垂れるミクリに、ああとほほ笑む。あのときというのがいつのことなのか、ダイゴにはすぐに分かった。
「僕も、何て言ったのか忘れちゃったよ」
「ええ?」
 少し歩みを速めながら言うと、ミクリはその歩調に合わせて進むかたわら、ダイゴの顔を覗き込んできた。困っているような可笑しんでいるような、不思議な顔つきをしている。
「本当だって」
 手首を握る。もう熱はダイゴにも移って、互いの差はなかった。
「……ふうん」
 納得しきらない顔をしてから、それでもミクリは頷いた。仕方がないなというふうに笑っている。
 ダイゴはそれを見て、あの時ほこらに入らなくてよかったと心底思った。もし一度でも入っていたならば今のミクリとの関係はなく、こうして並んで歩いていることもなかっただろう。ミクリにとってのめざめのほこらというのはそれほどに大きく、深く彼の中に根差して決して離れることはない。あの頃も今も、それは変わらない。
 ダイゴにとってのルネとは、母親のふるさとであり、異国であり、守らなければならないところであり、かえるところだった。母からは大して話を聞いていたわけではないし、どう考えても生まれ育ったカナズミのほうが暮らしやすいことは確かなのに、それでもいつかはここにかえってくるんだという漠然とした感覚がいつもあった。それが母親の血を引いているためなのか、単にダイゴ個人の感性ゆえのものなのかは分からない。ともかく、そういう対象であったルネで生まれ育ったミクリという少年に興味を抱いてから、もう十何年にもなる。ミクリはダイゴにとって、ルネそのものと言っても過言ではない。
 ダイゴはミクリの、打てば響くところが好きだった。小さなカルデラ島の中で外界と隔絶して育ったくせに意外とキャパシティが大きく、しかし変なところで頑固なところも、ポケモンに真摯に向き合うところも、そうして何より、自分を受け入れてくれるところが好きだった。ポケモン勝負を重ねるたび、ダイゴに負けたくないという気概が感じられる同年代というのはそう多くなかった中で、ミクリは穏やかに、それでも確かに対抗心を燃やしてくれていた。
 小さい頃から並んで立てる存在がいなかったダイゴにとって、ミクリという男はいつでも己を湧き立たせてくれる、無二の存在だった。
 あの嵐の日にミクリに告げた言葉は、本当は忘れてなどいない。けれども伝えるつもりはこれからもなかった。わざわざ伝えなくとも、問題はないのだ。ダイゴが行動で示してしまえば、もう事足りる。これまでもずっとそうしてきたのだから。

「ミクリ、ダイゴ、探しましたよ」
 もうすぐ外に出るというところで、自動ドアを抜けた人物がこちらへ声をかけた。ぱっと手を離すと、空気の温度がやけにひんやりと感じられた。声の主はアダンだった。足早に歩いてくる彼にミクリが「師匠」と嬉しそうに応え、ダイゴの隣をすり抜けていった。
 三人はその場で、これまでの出来事について長いこと立ち話をした。天候のこと、ニュースのこと、ルネで起こったこと、ユウキのこと。主にミクリが話しダイゴがそれに補足するといった調子で、アダンはひとつひとつに質問を加えながら感心しきりに聞いていた。彼は海外に居たのだが、午後の便でこちらへ飛んだのだという。疲れているはずなのにそれを窺わせないどころか二人を丁寧に労うアダンに、ダイゴは頭の下がる思いがした。
「それはユーたち、さぞ疲れたでしょう。私もルネに居られればよかったのですが」
「いえ、アダンさんが来てくれるだけで頼もしいですよ」
「そうですよ、師匠。まだまだやることは山積みです」
 ミクリのどことなく弾んだ声色に、ダイゴは我知らず笑っていた。
もうずいぶんと昔のことになるが、アダンという男に対する尊敬と嫉妬に悩んでいた時期が、ダイゴにもあった。ミクリをほんとうに輝かせられるのは世界で彼だけだという事実はもう何があっても覆しようのないことで、若い心ではそれを受け入れ切ることができなかったのだ。また同時に、自らにも親しく接してくれるアダンへの信頼と尊敬もだんだんと育まれてゆき、それらの均衡をとるまでには時間を要した。彼が海外へ行ったことでその葛藤にも一応の終止符が打たれたのだったが、今こうして対面して、またダイゴの中にはあの背反する感情が生まれてきていた。
 しかし、もう昔とは違うのだという確信もまた湧き起っている。
「すみません、もう帰りますので」
 ダイゴは笑いながら師弟に声をかけると、二人の間をくぐって自動ドアへと歩き出した。もっとゆっくりしていけばいいと言うミクリに手を振り、また来るよとだけ告げると歩を速める。
 手を繋いで離さずにいたあの頃にはもう戻れないが、ダイゴはミクリに対して、アダンに対して、そうしてルネに対して、これまでとは異なる心地をおぼえていた。それは昨日までホウエンを騒がせたあの嵐がもたらした置き土産だったのかもしれない。自分の心の底を覗き見るようなその心情に、ダイゴは口元がむずりと緩むのを抑えることができなかった。こんなに温かいものだとは思わなかった。
 あのサニーゴもいつか、ルネをふるさとのように思う日が来るだろうか。そうであればいいと、強く願った。