めまぐるしく形を変えながら、重たげな雲がものすごい速さで南東の沖へと押し流されてゆく。
 えんとつ山から吐き出されたばかりの煙のように流動的で、強い陰影をつくりだしているその雲の、明るい部分はぼんやりと白く光を宿している。ひとつひとつの雲は大きめで、雲間が描く緩やかな網の目として色を覗かせている夜空は、どの雲よりも暗く澄んだ黒色をしていた。月のありかは知れない。空自体は暗いのに、どこかから月光を受けて輝く雲のおかげで天蓋は明るかった。
 どこかひとところを目指すように南東へと流れてゆくそのさまは、暗い海面に浮かぶ氷河を水底から見上げているようだった。視界の及ぶ限り広がっている。
 ミクリは知らず知らずのうちに窓ガラスに額がつきそうなほど近寄っていたことに気付き、素早く瞬きながら顎を引いた。その拍子に視線を下げると、リーグ施設周辺に防風林として植えられているフクギやモクマオウの枝葉が四方めちゃくちゃに振り回されて、千切れんばかりになぶられているのが見えた。夜陰の中ではただ、黒っぽいシルエットが暴れているようでもあった。
 分厚い窓ガラスに守られているにも関わらず、外界の躍動を見ているだけであてどもない気持ちになる。
何頭ものポケモンが遠吠えをしているかのような、高くもあって低くもある、不思議に幾重にも重なった風の音が先刻からガラス越しに微かに耳に届いている。
 風がどんどんと強まっているのだ。
 防風林から視線を移し、歩道沿いにずっとチャンピオンロードまで連なる石垣と、大地を覆う花の群れをじっと眺めて、ミクリは眉をひそめた。昼は鮮やかな彩りを散りばめている種々の花も、今はただ暗がりにおぼつかなく灯る、無数の白んだともし火のように見える。その中にあるはずの、赤い星型の愛らしい花を脳裏に浮かべていた。ルコウソウの花は今が見ごろだというのに、この風では残らず散ってしまいそうで気の毒に思われた。
 ため息を飲みながらガラスに手を振れると、思っていたよりもひやりと冷たかった。外が暗いために、暗がりで鏡を覗いたように仄暗く自分の姿が映っている。それに初めて気が付いて、この人工建造物がいかに明るく外界と不釣合いであるかを実感した。そうして、この頑丈さに自分たちは守られているのだということも。
ミクリはゆっくりと振り返った。
 蛍光灯のくっきりとした明るさが白い壁によって増幅されて、いっそう眩しい。思わず目を細めた。

 ――には竜巻が上陸するおそれがありますので、周辺地域にお住まいの方は引き続きご注意ください。繰り返し、ホウエン地方の気象情報をお伝えします。今朝未明から低気圧に伴いカントー・ジョウト地方より南下し続けている巨大な竜巻は、次第に勢力を弱めながらも未だ形を保っており、明日の朝にも――

 壁掛けのテレビ画面から、女性キャスターの声が流れ続けている。この部屋に居る者のほとんどが、天気図の前に立つ彼女の声にじっと耳を傾けていた。
 ここはサイユウリーグ内の会議室である。年に数回しか本来の目的で使用されることはないのだが、今はその貴重な機会であった。中央に据えられた長テーブルには、四天王とチャンピオンが顔を揃えている。ジムリーダーの中で呼ばれているのはミクリひとりだった。
 迫りくる嵐に備えるために皆を招集したチャンピオンは、もうずいぶんと前から長テーブルに両肘をつき、組んだ手に顎をのせて微動だにせずテレビ画面を見つめている。明るい色の瞳はテレビの映像が映りこんでちかちかと光っており、ずいぶんと無機質に見えた。
 その横顔をしばらく見つめてから、視線を外さないままミクリは足音を立てないようにゆっくりと、皆の居る長テーブルの際まで歩み寄った。
(こんなダイゴは、久しぶりに見た)
 彼がこちらを見返さなかったことに、ミクリは密かにほっとした。ダイゴに限ったことではなく、誰もミクリに取り立てて視線を向けなかったのが有難かった。まさしく嵐の前の静けさに包まれた空間で、しかも立場上この中の誰よりも低い位置に居る自分には、気の利いた表情も言葉も使いこなせる気がしなかった。
 ミクリはダイゴの傍らに佇んだまま、四天王の面々をそれとなく観察してみた。ジムリーダーといえど、なかなか四天王全員と一度に顔を合わせる場面は多くない。
やはり年の功であろうか、最も落ち着いているのはゲンジで、腕組みをして深く腰掛けたまま山のように動かない。記憶が正しければ、会議室に入ってから一度も口を開いていないような気がする。帽子の陰になり、表情を窺うことはできなかった。
 それに対してカゲツのほうは、椅子に浅く腰掛け、頻繁に足を組み替えてそわそわとした内心が隠せないようだった。ミクリはカゲツという男とはあまり縁がなかったが、猫背に丸まった背骨のラインには妙に和やかな心地になった。
フヨウはというと、テーブルに上半身を預けて居眠りをするような格好をしながら、じっと大きな瞳でミクリが今しがたまで見ていた外の様子を見ている。常のごとくころころと変わる可愛らしい顔つきは影をひそめ、どこか遥か彼方を透かし見ているような眼差しだった。
「やはり、一番危ないのはトクサネでしょうか」
 ニュースを見ていたプリムの澄んだ呟きが、波紋のように室内に波を生み出した。
 はたとして向き直ると、彼女はすらりと背筋を伸ばして人形のように鎮座している。先の言葉はひとりごとのような響きだったが、視線はダイゴへと注がれていた。
 うん、とそれを受けて小さく頷くと、ダイゴは組んでいた両手を解いてぐぐっと大きく伸びをした。拍子に左腕がぶつかったので避けると、ダイゴはちらとミクリを見上げて目元だけで笑った。ダイゴにしては微細な笑い方だったけれども、それが笑顔だということはミクリにはすぐに分かった。ミクリは思わず笑い返そうとして、
「おい、アンタも座れよ」
 カゲツが訝しそうな顔で椅子を勧めてきたので、はっとして我に返った。見直すと、ダイゴはもう目線を戻してしまい、見えるのはつむじばかりだった。
 ほっとしたような、気落ちしたような心地だった。
「ありがとうございます」と返しながら、しかしそのまま腰を下ろす気分にはなれなかったので、ミクリはお茶を淹れてきますと言ってテーブルから白磁のティーポットを持ち上げた。給湯室はすぐ隣にあるのだ。
「いいの?」
「すみません、ミクリ」
 女性陣が立ち上がろうとするのをやんわりと笑顔で制し、トレイにティーポットを載せるとミクリはきびすを返した。この面子では肩身が狭いであろうミクリが気を遣っていることを分かっている面々は、それぞれのやり方で感謝の意を示しながら見送ってくれた。
 ドアを閉める間際にダイゴと一度目が合ったものの、今度はどちらも表情を変えるだけの時間はなかった。

 廊下には職員の姿もなく、しんと静まり返っている。窓のない通路であるため、ずっとここに居ると今が夜だということを忘れてしまいそうだ。天井に埋め込まれた蛍光灯の明かりが、延々と床のタイルに反射している。
 通常ならば、一介のジムリーダーがこんな遅い時刻にサイユウリーグに入ることはできない。そもそも入る必要がない。だからいっそう、今がイレギュラーな事態であると突きつけられるようで、身が締まる思いがした。
 水が沸騰するのを待つ間、ミクリは給湯室の壁に背を預けて目を伏せ、この嵐についてつらつらと考えていた。そうしているうちに、サイユウシティに来るさなかで肌に触れた湿った風や、眼下に広がる仄暗い海の、じわりじわりと高くなってゆく波などを思い出した。空はまだどんより曇っているだけだったし、海も今ほど荒れてはいなかったものの、海を知っている者ならばすぐに時化ると気が付いただろう。
 あれから数時間しか経っていないというのに、十数分前に窓越しに見た外のありさまはもうひどい暴風だった。奇妙に明るい曇天も、いつ翳って雨が車軸を降らすとも知れなかった。とてもではないが空路や海路を使うことはできないだろう。良い時に来たと思う反面、ミクリにはルネシティの様子が気掛かりでもあった。カルデラ島なので風はしのげるが、一度上空に雨雲が留まるとなかなか去ってくれないのが難点だった。
 そういえば、あの時は風は吹いていただろうか。
 ふと思い浮かんだ記憶に、重たい瞬きをする。
(狭いルネでも、空を見れば兆しはあったのかもしれないのに、幼かった私たちは気が付かなかったんだ……)
 やかんの中で、沸騰しはじめた湯がこぽこぽと気泡を生み出す音、それから蒸気が噴き出す気配が妙に心地よく、追憶に誘われるままにミクリはゆっくりとまぶたを閉じた。光の残滓がちかちかと踊った。

 秋は嵐を呼んでくる。
 じっとりと水気を多く含んだ空気。彩りのくすんでしまった街並み。低く飛ぶスバメ。雲の切れ目から見える、不思議に白く輝いている空。そこからさしこぼれる光によって、カルデラの乳白色の山肌がまばらに淡く、照らされているさま。それから――影の落ちるさま。





 ミクリは花を拾っていた。
 その日の明け方まで降り続いた雨のために、垣根に植えてあった赤い花はほとんどすべてが落ちてしまったのだ。星のような形をした小さなそれはルコウソウといって、ミクリのお気に入りの花だった。植物を育てることはポケモンを育てることに通じるのですよ、という師匠の教えに従って一生懸命育てていただけに、無慈悲に散らしてしまった雨が少々うらめしかった。ルネのような島では植物を育てることより、雨と折り合いをつけるほうがずっと、当たり前のスタンスだったというのに。
 晴れ間を覗かせた空を見た住人たちが一斉に洗濯物を表に出したので、ルネシティは色とりどりの旗を掲げたように賑やいでいる。青空にはためく様々な色のシャツやタオルを見上げるのが、ミクリは好きだった。真っ白い街並みだから、洗濯物や花の色がよく映えるのだ。
「それ、拾ってどうするの?」
 不意に意識に飛び込んできた声にびっくりして、ミクリはしゃがんでいた姿勢から跳ね上がった。シャツの裾を籠代わりにして花を集めていたから、立ち上がったはずみでぽろぽろといくつか落ちてしまった。ああ、と悔しさに声をあげながら首をめぐらすと、声の主と目が合い、その途端に相手は一気に距離を詰めてきた。
 ミクリはその顔を見つめ、少し弱ってしまった。明るい銀髪と青い目。利発そうな目鼻立ち。先程は突然で驚いてしまったけれど、彼は知っている少年だ。
「ダイゴ。いつ来たの」
「ねえ、その花どうするの? もしかして食べるの?」
「す、水盆に飾るんだよっ」
 相手の的外れな言葉と、大きい声を出してしまったことのどちらにも苛立ってしまい、ミクリは言うなりぱくりと口を閉じて、もう一度花を拾いにかかった。ねえ、と変わらない調子で声をかけ続けてくるこのダイゴという少年のことは、今は無視しようと心に決めた。いつも失敗するけれどたまには、上手くいったっていいはず。
「ミクリ、これあげるよ」
「ちょっと! 勝手に……」
 しかし決意は、ものの数秒で破られてしまった。
 集めていた花の中に、ダイゴ少年が勝手に何か別のものをいくつか落としてきたのだ。ミクリは条件反射できゅっと眉根を寄せたが、よく見るとそれはオレンジがかった黄色の葉っぱだった。花ほどではないが、綺麗な色をしている。なにこれ、と尋ねると、ダイゴはミクリの隣にしゃがんで「シラカバ」と答えた。聞きなじみのない言葉だった。
 どうやらシラカバというのはホウエンには生えていない植物で、この葉は数日前に彼がお父さんとカントーに行った際に拾ってきたものだという。カントーではもう紅葉が始まっているということにミクリは驚いたが、何となく癪だったので口には出さなかった。
 ダイゴは何かにつけてこうやって、拾ったものや珍しいお土産をミクリのところへ持ってくる少年だった。自慢したいというわけでもなく、ただ相手が喜ぶと思っての行動らしい。そのため、まったく欲しくない物だとしても逆に文句が言いにくいのだ。ミクリはただでさえはっきり断るという行為が苦手だったので、結局これまでダイゴがくれたものはすべて自宅に保管してある。今回の葉もそうなるだろう。
押し花のようにするのがいいだろうか。後で師匠に訊いてみようと思った。
「歩きにくいよねこの街って、迷路みたいで」
 花を家に置いてから、連れだって島の中央へ向かって白い階段を下りていると、ダイゴがそんなことを言った。そうかな、と曖昧に返したけれども実のところ、ミクリはそんなことは少しも感じていなかった。生まれ育った街をひいき目に見ているわけではない。以前一度だけ行ったことのあるカナズミシティは、建物は高いし大きいし、人通りは多いし、広いし、間違っても歩きやすいとは言えなかったのだ。
「そういうとこも、僕は好きだけどね」
「そ、そう」
 さらりと付け加えられた言葉になんだか気恥ずかしくなり、ミクリは心の中でカナズミをけなしてしまったことを謝った。そんな事情は知らないダイゴは、妙に機嫌よさげに歩を進めている。やっぱり変わった子だな、と隣の横顔をちらちらと見ながら、残りの階段を下りた。
「ダイゴ、そっちは行っちゃだめだよ」
「分かってる」
 カルデラ湖のほとりまで下りたところで、ミクリはダイゴの手を引いた。彼がめざめのほこらを見ていたから、思わず体が動いていたのだ。振り返ったダイゴは、安心させるためなのか、手を振りほどこうともしないままほこらに背を向けると、白岩が入り組んでいるほうへとミクリをぐいぐい引っ張っていった。指が硬いな、と思った。
 その時もダイゴの横顔を、ミクリは注意深く見ていた。彼のことを知りたいという好奇心よりも、彼のことを見ていなければいけないという責任感めいたものに、わけもなく駆られていた。

 ダイゴの母親は、ルネの人間だったという。
 師匠から紹介されて知り合った日、ダイゴ本人からそう聞かされた瞬間、なぜか妙に心がざわついた。ダイゴからは、言うなればルネのにおいがまるでしなかった。
ルネの外のこどもで最初に友達になった彼は、バトルは強いし物知りだし、はっきり物を言うから会話もよく弾んで、決していやなかんじはしなかった。むしろ彼を好ましいと感じていたけれども、ただひとつ、彼はルネにはそぐわないという直感がミクリを苛んだ。
(二世なのに、ほこらに入ってしまうかもしれない)
 そう思った。
 ルネでは、人もポケモンも、めざめのほこらから生まれてくるという言い伝えがある。身籠った女性はほこらの前の祭壇で祈り、そこで赤ん坊の魂を授かるという風習が古くからあり、現代でもその風習は残っている。この時代であるからさすがに本気で信じている人間はいないけれども、数世代前までそれは、ルネの中ではごく一般的な常識だった。
人はほこらから生まれるのだ。
 ゆえに赤子が母の胎内に戻ること叶わないのと同じように、ルネの人間はめざめのほこらに入ることは許されなかった。そして今もかつての信仰を尊重し、ルネの血が流れる者がほこらに立ち入ることは禁忌とされている。例えルネから離れて暮らしていたとしても、ルネの人間が片親だけであったとしても、血が相当に薄まらなければほこらに入ることはやはり許されなかった。
 ダイゴはこの掟に則れば、まだ二世だ。しかも掟のことはおおまかに聞かされていたようで、めざめのほこらに入ってはいけないことは知っていた。しかし、肝心の理由までは知らなかった。もっとも、十歳そこらで納得するほうが難しかっただろう。
 一緒に遊んでいる内に、こどもで石好きとくれば当然とばかりにめざめのほこらに興味を示したダイゴに、ミクリは相当な勢いでルネに伝わる掟を話して聞かせた。そうして、祟りが起こるから絶対にほこらに入ってはいけないと、繰り返し彼に訴えた。
 どういう言い方をしたのかもう覚えていないのだが、まだ知り合って間もない少年が血相を変えて古い因習についてまくしたてたので、ダイゴは少なからず面食らったようだった。都会育ちの彼は、いかにもそういった土着の迷信じみた習わしとは無縁そうな顔をしていた。
「きみはそれ、信じてるの?」
「え……」
「ねえ、迷信だよ。全部ね」
 一瞬頭が真っ白になった。少し困ったように笑っているダイゴの顔を信じられない気持ちで凝視していた。まさかそれを、正面から言われるとは思わなかったのだ。
「で、でも――ほこらには、入っちゃだめなんだよ!」
 ミクリは確か、泣いてしまったと記憶している。
 信じていると答えることができなかったのが悔しかったし、目の前の少年を整然と説き伏せることができそうもない絶望を感じていた。それでもダイゴを、めざめのほこらに入れてはいけないという気持ちだけで喋り続けた。もし彼がほこらへ入ったことが誰か大人に知れれば、きっともう二度と彼とは会えないだろうという予感があった。それがひどく恐ろしかった。
 泣きだしてから、どれほど経った頃だったか。
 黙ってミクリの不明瞭な訴えを聞いていたダイゴが、ふいと手を持ち上げ、目の前で数度振って見せた。
「うん、分かった」
「え。ダ、ダイゴ……?」
「絶対ほこらには入らないから」
 もう泣くなよ。
 ダイゴは軽く肩に触れると、なだめるように幾度か撫でて、ミクリの脇をすたすた通り抜けて行った。
 そこが家の中だったか道端だったのかはおぼろげだが、はっとして顔を上げた時にはもう結構な距離が開いてしまっており、ミクリは顔を袖でこすりながら急いで追いかけた。ダイゴ、ダイゴ待ってよダイゴ、何度も呼びかけて、ようやく並びついて恐る恐る覗き込んだ横顔は、拍子抜けするほど普通の顔だった。
 不安の行き場をなくしたミクリに、ダイゴは得意げな目をして見せた。そして「いいものあげる」と言った。
 ダイゴがミクリに物をくれたのは、その時が最初だった。ポケットを探って取り出したそれを、半ば押しつけるように握らせてダイゴは笑ったのだ。ごくありふれた、ちょっとすべすべした黒っぽい石だった。こんなもの嬉しくない、とミクリは内心むっとしたのだったが、おかげで涙も恐怖心も引っ込んでしまった。
 思えばあの時のダイゴは、少しぞっとしていたのかもしれない。あるいは、うんざりしていたのかもしれない。未知の風習とそれに縛られて生きている人間の、おそれというものの、底知れなさについて。

 初対面でそんなことがあったためか、ミクリもダイゴもそれから後は、めざめのほこらに極力近づかないようにしていた。というのに今日はどうして、こんなに自然に近くまで下りてきてしまったのだろうか。
 白い入り組んだ岩場を歩いている間も、ダイゴとはずっと手を繋いだままだった。どこに向かっているのかは分からなかった。一歩進むたびにひょこひょこ小さくはねる、硬質そうな銀色の髪がすぐそこにある。斜め後ろからついて歩くというのがあの時と同じだとふと思い至って、ミクリは早足でダイゴの前へ回った。
 どうしたんだよ、と言ってきょとんとして見つめ返してくる青い目に、妙にどきどきした。
「ねえ、ダイゴ」
 私はほこらの祟りが怖いんじゃなくて、掟を破ったらもう会えなくなってしまうことが怖いんだ。泣いても泣いても済まないくらい、とても怖いんだよ――――
 閃光。
 すべてを一息に言ってしまおうとしていたのに、突然鼓膜を打った衝撃に心臓を跳ねさせ、ミクリは肩を縮めた。巨大な金属を破り裂くような音だった。まるでミクリの言葉を言わせないとばかりに、雷鳴が轟いたのだ。
 腹の芯まで震えるとてつもなく大きな雷にすくみ上がっている内に、土砂降りがルネを襲った。空を見ればいつの間にか重苦しい暗雲が折り重なり、ルネのカルデラへ落ちてきそうなほど低く垂れこめている。さっきまで青空だったのにと驚く暇さえなかった。
「嵐が来たんだ」
 ふたりは瞬く内にずぶ濡れになってしまい、今度はミクリがダイゴの手を引いて湖岸を走った。湖面は何かポケモンが無数に跳ねているように、激しく飛沫を上げている。白いすだれのようにごうごうと降る雨のために辺りは煙り、額を伝って流れてくる雨水のせいで視界は悪く、濡れた岩肌は滑りやすかった。ふたりとも何度も転びそうになったものの、どうにか支え合って持ち直しながら、夢中で走った。
 入り組んだ地帯を抜けると、ここへ下って来る時に通った白い石段が見えてきた。そうして安堵したところへ、空を巨大な光の亀裂が駆け抜けた。一寸遅れてすさまじい雷鳴が響き、肌がびりびり震えるようだった。
 ミクリは弾かれたように立ち止まり、上空を仰いでその光景をまざまざと目に焼き付けた。
 濃灰の雲を横切る、赤紫の雷光だった。
 あんなにルネの空いっぱいを貫く雷を、生まれてこの方初めて目にした。見開いた目にはしとどに雨が降り注いだけれども、まるで気にならなかった。
「ミクリ!」
 がくん、と体が揺れて慌てて膝に力を入れる。ダイゴが繋いだ手を引いたのだ。真剣な顔をして、いつもひょこひょこ立っている髪が雨の重みで垂れているダイゴは、どこか別人のように大人びて見えた。
「――――、」
 ダイゴが小さく何かを言ったけれども、岩肌を打つ雨音に掻き消されて聞き取ることができなかった。ミクリは焦りながら距離を詰め、なに、とダイゴの顔を見つめた。すると彼の双眸は一度だけ、階段の奥にあるめざめのほこらを映して、すぐに戻ってきた。間近で視線を絡めたミクリは、突として目の当たりにしたダイゴの面立ちに、思わずぽかんとしてしまった。
 彼が浮かべていた笑みには、決意めいたものが滲んでいた。それは彼のかんばせにしっかりと固着して、誰にも脅かすことはできないだろうと思われた。
 空いている側の手でミクリの耳に貼りついた髪をどけると、ダイゴは耳元に唇を寄せた。
「絶対手を離さないで」
 頷くことができたかどうか、定かではない。
 それからのち、数メートル先も見えないような土砂降りの中、ふたりはポケモンセンターまでの石段を息せき切って駆け上がった。汗と雨で滑っても、繋いだ手だけは離すものかと必死に握りしめていた。

 後になって考えれば大した嵐ではなかったかもしれないが、当時のミクリはダイゴの手を離したら死んでしまうかもしれない、と本当に思っていた。
 めざめのほこらに入って雨をやり過ごそう、と提案することだって、あの時のダイゴにはできたはずだった。それを拒否するだけの余裕がミクリにあったわけでもなかったし、あの状況で言われたら頷いていたかもしれない。しかしダイゴは、ほこらに入ろうとはしなかった。一緒に走ろうと、あの笑顔で言ったのだ。彼らしいとしか言いようのない、意志の詰まったあの笑顔で。
 己の中に植え付いている、自然への畏敬や崇拝といった感情であろうものを捉えてくれたのかもしれないと、少し時間が過ぎてからミクリは思い至った。
 もう泣くなよ、と言った時の、ダイゴの声がふと脳裏によみがえった。反芻すればするほど優しく染みてくるようだった。やがてその声は石段での笑みとひとつになって、ミクリの奥深いところにひっそりと仕舞われた。





 嵐は秋を連れていく。
 空と海の境目が分からない、水煙にみちた空気。逆巻いてあらぶる波。北から泳いでくるホエルコたち。張り裂けてしまいそうな風の音。どうどうと轟く雷鳴。駆け抜ける赤紫の閃光。あてどもない空。押し流されてゆく氷河のような雲と、塵ひとつ混じらない、洗い流された清冽でまどらかな夜。そこに広がるあまたの星々。
 あの嵐の後がそうであったように、この嵐も過ぎ去ってしまった後には何か、特別なものを残すだろうか。
 ミクリが紅茶を淹れて戻ると、もう会議室のテレビは消えていた。奥の窓を見やったところ、とうとう雨が降り始めたらしい。ガラスを通して雨音が響いている。
 ちょうど立ち上がったダイゴが、テーブルに片手をとん、と置いたところだった。
「もし上陸して、竜巻が発生したら僕らで止めるよ」
「わあ。ダイゴかっこいい〜!」
「おいおい、フヨウも頑張るんだからね」
 彼なりに真剣に宣言したらしい発言を茶化してくるフヨウに、ダイゴはこどもっぽい表情で拗ねて見せた。お互いにそうするのがいいということが分かっているから、こういうやりとりができるのだろう。
「ミクリも、その時はよろしく頼む」
 不意に話を振られ、紅茶を注いでいた手が一寸止まった。しかしすぐに持ち直し、「はい」と短くいらえると、皆のカップに注ぎ切る。タイミングを逃すと味が落ちてしまうのだと、師匠から繰り返し教わってきた。
「皆さんにお力添えできるよう、精一杯努めます」
 恭しく頭を下げると、ダイゴと視線がかち合った。ミクリのことを信じ切っている目をして笑っている。それにむず痒さと心浮き立つような喜びをおぼえながら、ミクリは今度こそダイゴにほほ笑みかけた。












 水中をぐんぐん上昇していくと、大小さまざまの泡が上方から差し込む光に照らされて、きらきらと輝きだしたのが見えた。海底から次第に明るさを増すにつれて、水の色もグラデーションをつくりだして鮮やかなものに変わっていく。海底のごつごつした岩山が眼下に遠くおぼろになって、自分の体が空へ舞い上がっていくような浮遊感に包まれる。
 そんな目まぐるしさとは対照的に、水中ならではの緩慢でまろやかな音が、うずをまくように周りを過ぎ去っていく。ダイビングの技巧のひとつにポケモン本体とトレーナーを空気の層でガードするというものがあるが、その層をすべるようにして水の流れが玲瑯と耳触りのよい音を生み出している。気泡が生まれる音も涼やかだ。そんな水の奏でるメロディに包まれながら見る、アクアマリンとエメラルドが混じり合ったような透き通った色、そこにゆらゆらとカーテンのように降ってくる光と、宝石みたいに浮かび上がっていく泡たちはいつ見ても綺麗だと、景観などというものにさしたる興味を持たないユウキでさえ思う。
 しかしそうはいっても、あまりぼんやりしてはいられなかった。ラグラージの作りだす空気の層によって守られてはいても、ダイビングからの上昇によって振り離されそうになる瞬間はひやりとするものだ。海の底におっこちてしまいそうな感覚に襲われる。ほとんど水面に対して垂直になった体が水圧と重力を受けて押し戻されそうになるのをぐっと堪え、相棒にしっかりと掴まりなおしてから、同じように反対側に掴まっている同行者の様子を見遣った。
すると彼はいつも通りのなんでもないというような表情でユウキにちょっと笑みを向け、あとすこしだね、というように海面へと再び目線を上げた。
 アイスシルバーの硬質な髪と水色の瞳が、水中独特のゆらめく光を映している。かっちりしたスーツ姿の男が海中にいるというのは、なんともいえず不思議な光景だった。トクサネで合流した時にはまさかそのまま潜るんですか、と思わず尋ねてしまったが、考えてみれば彼はいつだってスーツ姿でさっそうと動き回っている。
 この人を水の中で見るなんてことは、きっと滅多にない体験だろう、そうユウキが考えた瞬間に、ざばあと飛沫があがる音と、燦々とした光が辺りを包みこんだ。聞こえる音が一気にクリアになり、白い岩肌が視界に広がり、そして自由に酸素が吸えるという解放感に思わず歓声をあげる。どちらを見ても白いカルデラ内壁と、そこに立ち並ぶ同じ色の家屋しか見えない。これこそがルネである。ダイビングでこの島に入るのはずいぶんと久しぶりだった。
 着いたぜ、とラグラージの背中にのぼりながら撫でてやると、頼もしいパートナーはぶるんとヒレを震わせて嬉しそうに鳴声をあげた。

「やあユウキくん、お疲れ様!」
 岸に向かおうとしたところへ耳に飛び込んできたその声は、よく聞き覚えのあるものだった。きょろきょろと首を回していると、こっちだよ、と別の声がまたしても聞こえて今度は首を上に傾げる。いつの間にか空中に浮かんでいたメタグロスと、そこに乗ったダイゴがユウキを見下ろしていた。まるでずっと前からそこで待っていたかのような表情だったが、彼の行動力にはもう慣れているので今さら驚いたりはしない。そのまま視線を下ろしていくと、じっとこちらを見つめているミロカロスの綺麗な目とぶつかって少したじろいだ。潤いのある瞳はユウキを映すと、ぱちぱちと二度瞬きをしてからハープのような美しい声でどうやら挨拶をしてくれた。
 今しがたの声の主、この街のジムリーダーはミロカロスのつるりとした乳白色の胴体に器用に立って、歓迎のしるしというように軽く片腕を広げて涼やかな笑みを浮かべている。白いベレー帽が目に眩しい。ユウキはほかでもない彼に頼まれてルネへやって来たのだった。しかも空からではなく海から来るように、ついでにダイゴを拾ってくるように、という指定までされて。
「さっそくだけれど、あれを見てくれないか」
 ふと眼差しを遠くへ向けた彼のしぐさに息を詰め、恨み事を言おうとしていた口をぱくりと閉じる。優しいものの僅かに硬いその話し方に、いつかの日照りを思い出した。
 ものの色さえ分からなくなるような攻撃的な太陽光、浴びているだけで細胞が壊されてしまうのではないかというほどの日差しの中で、彼がどんな顔をしていたか、今ではよく覚えていないけれども、声のほうには何故だか鮮明に覚えがあった。初めてルネで対面したミクリという男は、他者の侵入を許さない、まったく別世界からやってきた人という印象があった。
 もっともあの場合は、自分のほうが余所者だったわけだけれど。とにかくこの人が通常はあんなに朗らかにダイナミックに感情を露わにするなんて、初めはとてもじゃないが信じられなかった。本当に同じ人なのかと疑ってしまったほどだ。
 あの時ほどではないものの、ミクリはどうやら似たような、張り詰めた雰囲気を纏っているように見えた。
「――うわッ!」
 意識が引き戻される。ミクリがひとさし指で示した方向とは別のほうで、何かが水中で爆発したような大きな水音がした。ほぼ時を同じくして視界がぐわんと傾き、慌ててラグラージに掴まる。ワンテンポ遅れていくつかの悲鳴があがった。
 ユウキ達がはっとして向き直れば、水面が生き物のように盛り上がって波打ち、ルネジムのトレーナーらしき女性達が水面に浮かんだそれぞれのポケモンから振り落とされないようにしがみついているのが見えた。噴水みたいに筒状に高く伸びあがった水柱が重力に従って落ちてくるのに比例して、盛りあがった水面が同心円の波になって轟々とこちらまで寄せてくる。ユウキくん気をつけて、とミクリが呼びかけた時にはもう体が大きく揺れていて、ユウキは喚きながらラグラージにぴったり体を貼り付けると、迫りくる衝撃に身がまえた。

 あの大波は爆発ではなく、ユウキ達が到着するよりずっと前に遥か上空からやってきた落下物が、タイムラグを経て海底から浮上してきた衝撃によるものであったとユウキが知ったのは、それから数分後のことだった。
「なんであんなのが降ってくるんですか!」
 帽子を絞ると、びっくりするくらい水がぼたぼたと出てきた。吸水性のよい素材だったらしい。そんなことはどうでもいい。
 腕を組んでカルデラ湖を見下ろしていたミクリはユウキに顔を向けると、これが君を呼んだわけさ、と言って眉を下げて苦笑した。いまだにあらゆる意味で興奮の冷めやらぬ自分に対して至って落ち着いている彼に、うっと言葉を詰まらせる。
 あの後、岸辺まで押し流されたユウキは見事に全身びしょ濡れになってしまったのだが、さほど離れていないところに居たはずのミクリがちっとも水を被っていないようなのが腑に落ちなかった。いくら水には慣れているからって理不尽な気がする、と唇を尖らせたけれども、こんなことをいちいち気にしていたってキリがない。すぐに考えないようにすることに決めた。ホウエンを巡る冒険でユウキが学んだ処世術である。
 ふたりが見ている先では、ダイゴのメタグロスがサイコキネシスで水中からホエルオーを引き上げている。ちょっとした小島のような青いボディが浮かんでくるさまは圧巻だ。どうやら相当にレベルが高い個体で、しかも先程まではパニックになって大暴れしていたために他のトレーナーは避難を余儀なくされたのだったが、流石にチャンピオンの敵ではなかった。ぐったりした様子の、体に対してとても小さな黒い目が水面に出たところでダイゴがメタグロスの上からモンスターボールを投げると、赤い光がひらめき、しばらくしてから無事にホエルオーを収めてダイゴの手に戻って来たようだった。 
 岸辺に集まっていた島民が歓声をあげた。
「さっすがダイゴさん!」
「ふふ、やはりこういう時は頼りになる」
 ミクリとユウキは顔を見合わせてほっと胸を撫でおろした。
 しかしそうして和んでいられたのは僅か数秒のことで、すぐさま笑みを仕舞うとふたりは揃って上空を見上げた。雲間からいくつかの影がちらついているのが見える。水面から顔を出しているミロカロスが、警戒するように高くひとこえ鳴いた。
 皆の目がホエルオーに注がれている間にも、実は上空からの落下物は絶えることなく続いていたのである。曇りがちの空から種類も大きさもさまざまのみずポケモンたちが、次から次へとルネの町に降ってきているのだ。さきほどのホエルオーのように湖に落ちたのならばまだいいが、家屋や岩肌に落ちたらただでは済まない。ポケモンのほうは最悪死んでしまうかもしれないし、逆にルネの街も損壊をまぬがれない。あの日照り以来の異常事態がこの島に起こっていた。

「ミクリさま!」
甲高い悲鳴のような声が聞こえた。
 見ると、カルデラ斜面に建てられた小さな家から顔を覗かせていた小さな女の子が、怯えた表情で空を指差している。ミクリが仰ぎ見ようとしたのを気配で感じながら、ユウキは咄嗟にモンスターボールをその子が指すほうへ投げ上げ、同時に「かぜおこし!」と叫んでいた。それから対象をとらえようと素早く目線を動かして、落下してくるものの正体に目を丸くする。
「ちょ、ミクリさんあれって!」
「え……まさか!」
 同じく落下してくるそれを視認したらしいミクリもまた、驚愕の声をあげた。そうしているうちに、どんどんとあちらは近づいてくる。空気がこちらへ押し付けられている錯覚に襲われる。いよいよと地上数百メートルまで迫ったところで、オオスバメの強力なかぜおこしがそいつに直撃した。
 硬い地面に激突するはずだった落下の軌道を変えて、一気に湖まで吹っ飛ばす。赤いボディが宙を舞っていく。すでにヒットポイントは大部分削られているようだった。そこを待ちかまえていたダイゴがまたしてもタイミングよく捕まえて、ここへ来てから二度目の歓声が沸き起こった。ユウキは狙ったわけでも何でもなかったのだが、オオスバメはベストな方向へかぜおこしを放ってくれたらしい。モンスターボールをキャッチしたダイゴが、ユウキに向かってその手を振っているのが見えた。
 見事な連携プレイだったよとミクリが駆け寄ってきたけれども、それよりもユウキは今降って来たポケモンに意識が持っていかれてしまっていた。ダイゴが持っているボール、あれに入っているのは、見間違いでないのなら――

「すっげー! アズマオウなんて久しぶりに見た! すげーっ!」
「ちょっとユウキくん、落ち着こうか」
「……だめだな、新しい石を見つけたときのダイゴみたいな目をしている」
 いまだに降り続けているみずポケモンを湖にたたきこむべく注意を怠らないよう視線を巡らせながら、ちらと少年を見遣ってミクリは諦めたように肩を竦めて笑った。身を乗り出しすぎて湖に落ちそうなユウキの服の背中を引っ張っているダイゴの声など、本人にはちっとも聞こえていない。ボールから出され、すごいきずぐすりで回復してすいすいと泳ぎ回っているアズマオウを目で追うユウキはきらきらと瞳を輝かせて、童心(もとよりまだ彼はこどもなのだが)のままに感嘆を叫び続けている。ジョウトから引っ越してきた彼にとってアズマオウは懐かしく、また新鮮味のあるポケモンなのだった。
元気だなあ、とついついダイゴは柄にもなく呟いていた。ミクリはその横顔におや、というような視線を向けたものの、僅かな笑みを湛えたまま何も口にすることなく頤を上げなおした。
 
 北東からやってきた巨大な竜巻がホウエンの東上空でようやく勢力を弱め、やがて消滅したのが今朝方のことである。自然災害の多いホウエンであっても、過去最大クラスの竜巻とあってメディアは大騒ぎしていた。いざとなったらすぐにポケモンセンターかジムに避難してくださいなどという勧告まで出されていた。直撃するようならばリーグのポケモン達を総動員して食い止める、との指針をダイゴは出していたのだが、それを知っているのは今となっては結局、リーグの人間とジムリーダーくらいのものである。発表する前に竜巻は勢力を弱めだしていたから、ぎりぎりまで様子を見ることにしていたのだ。直撃に備えて寝ずに夜を過ごした彼らが実際に動員されることはなかったわけだが、竜巻は思わぬところで置き土産を残してくれた。お陰でダイゴもミクリも寝不足なのである。
 竜巻によって巻き上げられた物が遥か何キロも先で発見されるという事例は確かに存在するが、カントーやジョウトにしか生息していないポケモンがここまで運ばれてくるなどと予測できた人間はいなかったであろう。今やこのルネシティ火口湖には、トサキントにアズマオウ、コイキング、テッポウオやニョロモなど、ホウエンではまず観測できない種類のポケモンが次々と降ってきている。大量発生なんかはこうやって起こるのかもしれないな、とダイゴはポケモン分布の神秘について考えてみたけれども、博士と呼ばれるような人達とは違うので思考はさほど広がることはなかった。
「それにしてもルネにだけ降るなんて、神秘の街は違うね」
「いや、おそらく気流がここで止まったから……ミロカロス、アクアリング!」
 みなまで言い終える前にミクリが目つきを鋭くし、腕を振り上げ、待機していたミロカロスに指示を出した。伸びあがった彼の周りを水の輪が取り囲む。それを上空へ浮かび上がらせると、柔らかい水は落ちてきたサニーゴを器用に受け止めて衝撃を和らげ、くるくるとゆっくり回転しながらミロカロスの元へ戻ってきた。流れるような無駄のない動作であった。
 なるほどアクアリングにはそういう使い方もあるのか、とダイゴが感心している横で、ユウキがまたしてもホウエンでは見ることのできないポケモンに歓声をあげている。「図鑑がデータなしって言ってる! すげー!」と文字通り跳び上がって喜んでいる若いポケモントレーナーに微笑ましさを感じながらも、今しがたのミクリの比喩の言葉を思い出してダイゴは頭を掻いた。
 気を失っていたらしいサニーゴは、やがてふらふらしながらも目を覚まし、アクアリングに包まれたまま不安そうに周囲をきょろきょろ見回しだした。つぶらな瞳が心細げである。いきなり上空へ巻き上げられたと思ったら知らないところに真っ逆さまとあっては無理もない。泣きそうな声を出しているサニーゴであったが、ミロカロスが鼻先でつんつん、とつつきながら優しくなにごとかを話しかけてやると、どうやら落ち着きを取り戻したらしい。再び疲れにまかせて目を閉じ、ぱたりと眠ってしまった。


*             


 空からやってくるみずポケモンの回収は、この日の夕方まで休みなく続けられた。ホエルオーはあれきり降ってくることはなかったものの、ホエルコが大量に降ってきた時には町中総出で受け止めなければならなかったし、トドセルガが冷凍ビームを乱射しながら落ちてきた時には阿鼻叫喚のありさまで、ユウキのライボルトにはたいへんに活躍してもらうこととなった。
「なにが難しいって、空中でヒットさせないといけないことですよね……」
 呟きながらユウキが白い岩面に腰を下ろした時には、丸く切り取られた空がオレンジ色に染まりつつあった。ばららばららら、とその美観をぶち壊すように騒々しいプロペラ音が響いている。まったく明日になるまで待てと言ったのに、とミクリが困ったようにぼやいて腰に手を当て、空を見上げた。
「でも無理ないっすよ、こんな大事件滅多にないし」
「まだ空にポケモンが残っていて、ヘリにぶつかったらどうするんだ。ポケモンが怪我をしてしまう!」
 大仰に芝居くさいポーズをとって悲劇的な声をあげたミクリを横目に見遣ると、ああそうですね、とひとりごと半分に相槌を打った。もしホエルオーなんかがまた降ってきたら、間違いなくヘリのほうが大破しますけどね……とは言わなかった。言うだけ野暮だろう。なんにせよメディアの取材班なんていうのは、自己責任でスクープを追い続けているのである。
 ユウキ達は空を飛んでルネに入ることを禁じられていたけれども、彼らは、というより外の人間は今日一日ルネシティに立ち入ることも、またルネに起こった異常気象について報道することも禁止されていたらしい。解禁となった今頃は、テレビでもラジオでも神秘の街に奇跡が起こった! とかなんとかいう特番が組まれて大騒ぎになっているだろう。既にユウキのところにはお隣さんやらその父親やらから幾度もコールが来ていて、情報の速さに恐れ入りながら早々にポケナビの電源を切っていた。
「内地からトレーナーや密漁者がやって来る前に、あの子たちを元の海に戻してあげなければ」
「元って、分かるんですか? あいつらがどこから来たか」
 今ごろルネのポケモンセンターで不安にしているであろう、ホウエン生まれではないポケモン達を脳裏に浮かび上がらせてユウキはだらりと仰け反っていた体を起こした。ミクリは神妙な顔をしてゆっくりと首を横に振り、「竜巻の軌道をなぞるしかないね、しかしホウエンからは出してあげないと」と微かに疲れを滲ませた笑みを浮かべた。
「そうだ、ユウキくん、君にお願いしたいことがある」
「え?」
「残っているみずポケモンがいないかどうか、街と湖は私たちトレーナーが確認しているけれど……君にしか入れないところがあるでしょう?」
 ウインクをした彼にあっと目を瞬かせ、ユウキは勢いよく立ち上がった。今まですっかり忘れていたのが不思議だった。そうだ、ルネにはまだあの祠が残っていたのだ。
「じゃあ俺、これからめざめのほこらに行ってきますよ」
「あ、いや……君もポケモンも疲れているだろうし、明日で構わないよ。祠の外では町のトレーナーが交代で見張っているから、なにかあれば教えてくれる」
 優しく諭すように手を置かれ、意気込んでいた肩がすとんと落ちた。言われてみれば今日はずっと働きっぱなしだったから、ラグラージ達も疲れている。自分だってあの祠にまた入ってみたい気持ちが紛らわしているだけで、しっかりと疲労は溜まっているに違いなかった。
 今晩は私の家で休むといい、とにっこり微笑んだミクリの顔が、夕焼けによって濃いサンゴ色に染まっていた。こんな柔和な面差しの彼を見たのは初めてだった。その向こう側では、ルネの町並みもカルデラ斜面も同じように鮮やかな暖色に彩られている。
 海の色をうつした薄藍のところと夕陽色のところが織りなす色合いは、現実味がないほどに美しかった。天然の芸術品とも呼ばれるルネの夕暮れにユウキはほうと息をつき、体中の力を抜くと頭の重みに任せるまま、ルネそのものである休火山の山頂へとまなざしを投げた。山際がリングのようにまばゆい光に縁取られている。燃えているみたいだ、と思っている間にやがて太陽は高度を下げて、ルネ内部はふっつりと暗くなってしまった。
 カルデラ内部にあるルネシティでは夕焼けはあっという間に見えなくなって、ホウエンのどこよりも早く夜になる。





 ミクリの家は、ジムからほど近いカルデラ中腹に建っていた。ルネシティの大抵の家屋と同じように壁を白塗りにした異国情緒あふれる外観で、風通しをよくするために窓がそこここに設えられている。二階には花の飾られたバルコニーが見えた。
 外から見るとさほど広さはないように思われたのに、入ってみると意外にも奥行きがあった。すっきりとした内装と白い壁がそう装わせているのか、何か特別な建築技術が施されているのかは分からない。とはいえ、おそらくミクリという男のファン、それからテレビなどでのみ彼を知っている者がこれを見たなら驚くこと間違いない、それくらい質素な家であることに変わりはない。エレガントでグロリアスなミクリ様、というのが世間ではすっかり通念となっている。ジムリーダーの自宅なんてこんなもんだろう、と自らの経験から冷めて構えているユウキのような人間のほうが珍しいのだ。
透明なローテーブルを挟んで置いてある青いソファに深く沈みこんで、白い天井をぼんやり眺める。アサギの海の家で見たような大きなシーリングファンがゆるやかに回転している。夜だということを忘れそうになるくらい、室内は冴え冴えと明るかった。壁の色のためだろう。視線を移すと、窓際に並べられたコンテストのトロフィが妙に目立っていた。部屋の隅はユウキの背丈ほどはある大ぶりの観葉植物が置かれていて、柔らかな黄緑色と模様のように走った白が目に優しい。ルネにはあまり野生の植物が見当たらないためか、ほっとしたような心地であった。
「なにもないけれど、好きに寛いでくれ」
 今しがたまで誰かと連絡を取っていたらしいミクリが、気づかない内にテーブルのすぐあちら側まで来ていた。
ローテーブルにトレイを置いて、目の前にミックスオレを置いてくれる。どうも、と小さく頭を下げつつ見ると、トレイにはミクリのポケナビが載っていた。電話をしながら用意をしてくれたのかと思うと申し訳なくなったが、同時にこの人もそんなことをするんだなあと妙なところに感心した。なんというか家庭的なにおいのしない人だと思っていたから、いちいち新鮮に見えてしまうのだろう。ポケナビ片手にジュースを注ぐ彼の姿を想像したらますます不思議な気分になってしまい、すぐに掻き消す。
 ミクリさんはいいんですか、と尋ねると、私はキッチンで火を見ないといけないからねと笑みを返されて、ユウキはまたしてもぎょっとした。料理できるのか、というおそらく失礼な驚きを胸に仕舞いながら、急いでコップを空にすると俺も手伝いますと言ってソファから立ち上がる。いいよいいよ、と眉を八の地にして手をひらひら降っていたミクリだったが、こどもなりに気を遣っているのだということも分かっているのだろう、暫くするとじゃあお願いしようかなといってキッチンへと案内してくれた。

 オリーブとトマトの香りが鼻腔をくすぐり、空腹を訴える腹を容赦なく攻撃してくる。
 追加されたチーズも効果抜群だった。
 食欲をそそる匂いにぼんやりと手を止めてパスタを和えているミクリの背中を眺めていたユウキの脚に、どんと何かがぶつかった。びくっと肩を跳ねあげて足元を覗くと、ココドラが何か言いたげな目をしてじっと見上げている。
 どういうわけか最初からキッチンに居たココドラを、ミクリはさも当然というように好きに遊ばせていた。ユウキはぼんやりしていたのがバレたのかもしれないと思ってココドラに向かって誤魔化すように笑い、腹に力を入れ直して作業を再開した。自分にはサラダ用のレタスとブロッコリーを千切り、プチトマトの蔕をとり、ドレッシングを作るという役目が与えられているのである。つけあわせのポテトサラダは出来合いのものが在ったらしく、冷蔵庫からそれを取り出したミクリに好きなだけ盛っていいよと言われている。ポテトサラダが好物のひとつであるユウキは内心ガッツポーズをしたのだったが、ミクリの前では気恥ずかしかったので顔には出さなかった。
「さあ、もうすぐ完成だよ」
「あのーミクリさん、気になってたんですけど」
「なに?」
「ダイゴさんは?」
 知らず知らずココドラを視界に探しながら、何時間か前まで一緒に居た、けれどもなんだか久しぶりに呼ぶような気がする名前を口にした。夕刻からいつの間にか姿が見えなくなっていたのだが、ミクリが何も言わないから訊きそびれていたのだ。
 フライパン片手にくるりと向き直ったミクリは、透き通った青い双眸を心なしか丸くしてああと気易い様子で笑ってから、「彼なら上でぐっすりさ」と言って首を傾げ、肩を竦めた。それらの仕草はユウキにとってひどくこそばゆいかんじがするのだが、ミクリという人にはこれ以上ないくらい似合っていた。
 聞けば竜巻騒ぎで寝不足だったのだというチャンピオンは、空から降って来るポケモンがようやく途切れた頃に仮眠をとるといってミクリの家へ向かい、それからずっと起きてこないらしい。昨晩の竜巻について、サイユウではそんな対策が取られていたのだということをユウキはようやく知った。そんなら俺にも言ってくれればよかったのに、と若干拗ねた口調でぼやくと、ミクリは今度は声をあげて楽しそうに笑ってから、
「君にばっかり頼ってもいられないからね」
 と宥めるように言った。
「うんうん、そのとおり」
 まだ何か言いたい気分でいたところへ、不意に背後から声がした。
 思いがけず同意を得たミクリが瞬きをして視線を動かしたのにつられて振り返ると、キッチンの入り口に噂のダイゴが少々眠たげな目をして立っていた。相変わらず前触れなく現れる人だ。いつものスーツを脱ぎスカーフも外したシャツだけの格好で、それがユウキには随分とさっぱりとラフに映った。
「ダイゴさん! 起きたんですか」
「さっきね。予定より長く寝ちゃったみたいだ」
 今日はお疲れ様、と頭を撫でてきたかと思うと、プチトマトをひとつ口に放り込んでダイゴは流し台へ向かった。「こら、行儀が悪い」「水くれる?」「自分でどうぞ」これ見よがしにフライパンとトングを持ち上げてミクリがいらえると、はいはいと慣れた様子でダイゴは頷きながらグラスを探しにかかった。寝起きだからか声が掠れている。銀髪がいつもとは違うおかしな方向へ、あっちこっち跳ねている。
 ユウキくんが来たからって片づけただろう、と食器棚を開けてダイゴがぼやくと、その背中に向かって苦い視線を向けたあとでミクリがまたこちらに向き直り、困った奴だと言わんばかりに肩を竦めた。
 一連のやりとりがいかにも旧知という雰囲気で、そういえばこの人達の関係ってなんだっけ、とユウキは初めて疑問を抱いた。グラードン事件の時以来ふたり一緒に会ったことがなかったし、あの時だって彼らが会話しているところを見たわけではない。ダイゴの口振りから親しいのだろうということは感じていたが、知人なのか友人なのか、あるいはそれ以外なのかということもよく知らなかった。

 明日はめざめのほこらをお願いしようと思ってね。
 ミクリが話しながらパスタをくるくるとフォークに絡めているのを隣で眺めていたユウキは、話題が自分に移ったらしいと気がついて姿勢を正した。そういえばそうだと頷いて、テーブルの向かいに座っているダイゴがこちらを見る。キッチンに顔を出した時にはまだ眠たげだった顔つきが、今ではもうすっきりと覚醒しているようだった。
「まあ、大丈夫だとは思うけれど」
「あそこばっかりは僕も入れないからね」
 ミクリに目を向けながら、もうとっくに食べ終えてしまったダイゴが手遊びのようにグラスを回している。対してミクリは食がゆっくりであるらしい。まだパスタが半分以上残っている。
対照的なんだなと思ったところで、ふと疑問が浮かんだ。
「あれ、ダイゴさんってなんで入れないの?」
 ふたりの青いまなざしが、すっとユウキへと注がれた。ぎくりとしてフォークを置く。これって前にも思ったけど言えなかったんだよな、とは明かせない流れだった。
 めざめのほこらにはルネの人間は入れないとミクリが言って、ダイゴが当然のように彼と一緒に留まった、あの時にも同じ疑問符を浮かばせたはずだったのだが、とにかく緊急事態だったからそれどころではなかったのだ。不思議に感じたことさえすっかりと忘れていた。今回のことがなかったら、ずっと思い出さなかったかもしれない。
「そうか、君には言ってなかったんだ」
 身構えたユウキをよそに、ダイゴは面白がるような相好を浮かべて少し身を乗り出すと、テーブルに肘を置き、その手の甲に頬をのせた。相変わらずグラスを回している。大ぶりの指輪がきらりと光った。ちらとミクリを窺えばやっぱり行儀が悪いと言いたげな目をしていたけれども、今度は注意することはなく、代わりに隣のユウキの顔をよく見るために体の向きを少し変えたようだった。特徴的なかたちのセルリアンブルーの髪が、ふわりと揺れた。帽子を被っていないミクリは、この色のためにずいぶんと冴えた印象になる。
「ダイゴはルネの血を引いているんだよ」
 思わぬ答えにえ、と目を丸くしながらユウキは身じろいだ。
 静かにゆっくりと告げたかんばせはあくまで穏やかに微笑んではいるのだが、それがどういう内意を映した表情なのか、うまく読みとることが出来なかった。思わず目を逸らしたくなるような、心を読まれてしまいそうな、不思議な色を湛えていた。臍のあたりがむずがゆいかんじがする。
「僕のおふくろがルネ生まれなんだよね」
「……あ、そうなんだ」
 ダイゴのほうはと言えば、至って気軽な調子で話しているらしい。ユウキは助け船を得た思いで相槌を打った。
「僕も入ってみたかったんだけどいっつもミクリに止められてさ、だからユウキくんが羨ましいよ」
 懐かしむようにひとりで頷きながらの口振りに、自然と気が抜けて笑いがこぼれる。どうせ石が目当てなんでしょと言うとよく分かったねと感心されて、ユウキはまた笑ってしまった。石を拾い集めては好奇心に湧き立っている幼いダイゴが目に浮かぶようだった。
「そうだ、明日もし珍しい石があったら拾ってきてくれない?」
「ダイゴ、遊びに行くんじゃないんだから」
 瞳を輝かせだしたところへ、呆れたような口調で溜息交じりに交渉を遮られてダイゴはむっと唇を尖らせた。こどもっぽい拗ねた表情だけれども、こちらはわざとそういう顔をしてみせているのだと分かる。昔からこうなんだ、とユウキのほうへ顔を寄せながら眉を下げた彼の声色には、どことなく嬉しそうな響きがあった。





 ユウキはダイゴと一緒に、ミクリ邸の客室で寝ることになった。
 いつものようにポケモンセンターで泊るという手もあったが、せっかくルネに来たのだからと大人ふたりに推されては断りようもない。ダイゴさんにココドラと一緒に寝る習慣があったらどうしようと密かに心配していたが、普通にモンスターボールに戻っていったのを見てほっと一安心した。
 客室はまるでホテルのように小奇麗で、よく人を止めているのだろうと伺い知れた。
 バルコニーから見渡す夜の街並みは、青白いなかにぽつりぽつりと小さな灯りが広がっていて、きっとルネでは当たり前の光景に違いないのにまったく夢を見ているようで、幻想的の一言しか出てこなかった。こんなときハルカだったら、もっと感動を言葉にするのが上手いんだろう。いつもあっちこっちを飛び回っているお隣さんの顔を頭の隅に浮かべ、それからポケナビの電源を切りっぱなしだったことを思い出しながら、ユウキは欄干に体をのっそりと凭れ掛けて目を閉じた。
「あー、そっか」
「どうしたの?」
 ぼそりと呟いた音を、室内にいた彼が拾い上げたことに驚いた。振り向くよりも先に隣にやって来たダイゴは、ポケットに手を入れて星空を見上げていた。さっき見た時にはベッドに寝転がって、ダンバルと気持ち悪いくらいの笑顔で戯れていたのに、黙っているとこんなに静かな雰囲気が似合うから面白い人だと思う。日照りのときの神妙な顔つきと、少しだけ似ているかもしれない。
「波の音がしないと思って」
「ああ、なるほどね」
「それに、灯台もない」
 灯台? と少し可笑しむように反芻してきたダイゴと目を会わせないまま、欄干に顎を乗せた。今さら恥ずかしいことを言ってしまった気がした。岬でもないルネシティにそんなものがあるわけがないのは分かっているのに、何故かルネには灯台があるような思いこみをしていたのだ。ここは島の内陸で、中央にあるあのでっかい湖は海と繋がっているけれど、海ではない。その特殊性にまだ慣れていないのだろう。
「俺が前住んでたところには、灯台があったんすよ」
「アサギだっけ」
「うん、デンリュウが灯りを照らしてる」
「いいね、僕も見に行こうかな」
 真似するように欄干に手をついて、ダイゴはぐんと背筋を伸ばすと息を大きく吸い込んだ。横顔を窺い見る。この人はいつだって焦点が合っているなあ、とユウキは思う。ジョウトは決して近くはないけれど、行こうと決めたらきっと行ってしまうだろう。じっとしていられない性分に違いないのだ。
 夕食の席での話がフラッシュバックする。
 この人がもしもルネで生まれ育っていたら、それでも尚こんな風に自由奔放で、行動力のある人間になっていただろうか。白く包まれたおとぎ話みたいなこの島で一生を終えるような静かな人々、あるいは伝説を守りながら暮らすミクリのような隣人達に囲まれても、やっぱり未知を求めて飛び出していってしまったのだろうか。
「僕はね、ミクリに嫌われたくないんだ」
「……は?」
「だから祠には入らない。ルネの血が流れているとか長老が怒るとか、祟りがあるとか、そういうことはどうでもいいんだよ」
 聞いてもいないのにすらすらと喋り出したと思ったら、ぽかんとしている少年をじっと見つめてから満足そうに口を閉じて、ダイゴは背を丸めると、ユウキに見覚えのある笑みを落とした。ミクリとは正反対の印象を与える、独特の笑い方だった。彼が言うのならそうなんだろうな、と誰しも納得する顔つきを、名の知れた御曹司でありチャンピオンであるこの男は熟知している。
 どこで生まれ育ってもダイゴさんはダイゴさんになっただろうな。ユウキは無駄なことを考えてしまったと内心ごちながら、石は期待しないでくださいよと茶化すように言った。ダイゴは堪える様子もなく、からりと笑って頭を掻いた。