瞼を持ち上げると、ヤニ汚れのない綺麗な天井が目に入った。規則的に広がる目地の上を、カーテンから漏れ入ってくる乳白色の朝陽が照らしている。窓は東側に面しているらしい。
寝返りを打とうとしたが手足がろくに動かず、芋虫のようにもぞもぞと身じろぎをするだけに終わる。そこでピートは自分が寝袋で寝ていたことを思い出した。自宅のトレーラーハウスから持ち出してきた普段使われることのない寝袋は埃っぽく少しカビ臭い臭いがして、それは一晩経っても消えることはなかった。
脇のベッドを見上げると、寝ていたはずの部屋の主はすでにいない。掛け布団がピートの寝袋に被せられていることからして、先に起きて一階へ行っているのだろう。
ずいぶんと早起きの吸血鬼もいたものだ。
マイクの部屋は存外、普通である。吸血鬼だとかバンピュアだとか痛々しいことばかり言っているからさぞ痛々しい部屋かと思っていたから、初めて来たときは拍子抜けした。黒で塗りつぶされているとか血や蝙蝠モチーフだらけだとかそういうこともないし、ゴスによる絶対的な信奉を得ているクトゥルフの影など勿論どこにも見当たらない。カーテンの柄やポスターやアクセサリーなんかは確かにヴァンプらしいカマ臭いセンスだったが、全体的に見ればヘンリエッタの部屋よりもよほど普通の子供らしい、つまり多数派の全体主義者らしい部屋だった。クローゼットを開ければ昔遊んでいた模型や玩具なんかが仕舞ってあるのだろうと予想はつくが、他人の部屋を物色する趣味はない。
あくびをしながら、ピートはのっそりと起き上がる。
親といざこざを起こして家出をしてきた自分がなぜこの家で寝ているのかといえば、ゴスの奴らのところに行くと親に連れ戻されるおそれがあるからだった。いつもつるんでいる連中は住所も割れているし、お決まりのヴィレッジインなんてもっての他だ。親には予想できないような場所といって思い浮かんだのが、マイクの顔であった。「家出したから泊めろ」と夜中にコールしたにも関わらず、マイクは少し困惑した顔をしただけで何も聞かずにピートを部屋へ上げた。その何かを察したような訳知り顔には面白くない心地がしたものの、正直受け入れられたのはありがたかった。スターク池のほとりで野宿するのはさすがに避けたかった。
「ああ、起きたのか。おはようピート」
ドアが開き、顔を洗ってきたらしいマイクが部屋に入ってきてのんびりと笑った。普段は濃いアイシャドウを塗りたくっている瞼も、今はただの肌の色をしている。
まだ眠りたい気分ではあったが、とりあえずおはようと返しながら伸びをする。やはり寝袋では寝心地が悪かったのか、背骨が少し強張っている気がして思わず顔をしかめた。
「だから僕はベッドで寝ろって言ったのに」
「お前のベッドじゃ二人寝れねえだろ」
「ピートなら大丈夫だろう、小さ……いや、小柄なんだから」
言い直しても大して意味変わってねえと顔をしかめる。
睨むピートの視線にはもう慣れているマイクは、その足元を通って窓際まで歩いてゆき、カーテンをひといきに開けた。眩しい朝陽が差し込んできて目を細めた。それから白い光に飲まれるようにしながら振り返る顔を、まじまじと見つめる。
安っぽい牙もなくメイクも施さない顔は、ずいぶんこざっぱりとして見えた。背中までかかる黄緑色のウィッグも外しているから、黒髪の裾から白いうなじが伸びている。その姿は普段見慣れている彼よりも幼く、どこかしら心許無く見えた。
「……ますます全体主義者くせぇ」
何かをごまかすように呟くと目が合う前に視線を外し、寝袋から這い出てそれを丸める。髪ぐしゃぐしゃだぞ、と手を伸ばして撫でてくるマイクに眉根を寄せつつも、振り払うことはしなかった。そんなことするより寝袋片づけるの手伝えよ、と言いかけてやめる。自分が持ってきた物なのだから自分で片づけるのが当然だし、何より照れ隠しに聞こえそうで癪だった。
初めはこうして絡まれることも、年下扱いされることも嫌だった。マイクとはあくまで対等でありたかったし、舐められたくないと思っていた。それが、いつの間にこうなったのだろうか。
こいつには悪気というものがない。第一印象は悪ぶった胸糞悪い気取り屋だったが、関わっているうちに素の部分が見えてくるようになった。所詮は興味本位の付け焼刃だ。スコッツデールに送った後からはずいぶん大人しくなったと思っていたが、見るたびに作ったキャラクターは影を潜めて、ありていに言えばマイクは普通になっていくように見えた。日和見の全体主義者など反吐が出るけれども、それでも以前のマイクよりはましだった。
軟弱でお人好しのエセ吸血鬼は姿こそ気取っているが、ファッションの域を出ずにゴスから見ればままごとにすぎない。芯からひねくれているわけでも、斜に構えているわけでもない。痛みを求めているわけでもない。こうして間の抜けた顔をして手櫛で髪を梳いてくるのも、ただ善意でのことなのだろうと今では分かっている。――いやそれ以前に、何も考えてはいないのかもしれない。当たり前のことだと思っているのかもしれない。
しばらくしてマイクの手が離れると、ピートは頭を振って前髪を揺らした。いつもの癖だ。黒い毛束が視界を横切った。
「とりあえず一階に朝食を食べに行こう。母さんも、もうさっき仕事へ出てしまったから」
それを聞いて、ピートは内心ほっとした。
マイクの両親は、うまく言い方が見つからないが至極まっとうそうな人だ。夫婦仲も良く、数度顔を合わせただけでも分かる人間性にピートは実のところ気後れしていた。円満な家庭。その点においてはヘンリエッタやマイケルと同じだったが、彼らと違うのはマイクもまた自らの家庭のまっとうさについて、気に入っているらしいというところだった。マイクが家では付け牙もウィッグも化粧もしていないのも、あの両親に心配をかけないためなのだろう。家では昔のようにバナナ・リパブリックばかり着ているのも同じ理由のはずだ。改めて聞いたことはないけれども。
そこがマイクの全体主義者たる由縁なのだろう。
やはり生ぬるい、と思う。
リビングに下り、向かいの席でオートミールとスクランブルエッグを口に運ぶマイクが他愛ない話をしながら笑うのを、その子供っぽい表情を見ているのがなぜか耐えられずに、目が合いそうになるたびにピートはふてくされたような顔をして視線を落としていた。目を合わせないのはいつものことだから、マイクはさして気にはしていないようだった。いつもよりも無防備で明け透けなところを見せられると、どうにも調子が狂うのかもしれないと思った。

部屋に戻ってくると、太陽の位置は起きた時よりもずっと高くなっていた。とはいえ、まだ普段ならば一時間目終了のベルも鳴らない時刻だ。夜更かしをするのが常であるピートにとって、早起きをして早く朝食を食べるというのは新鮮だった。まるで自分までまともにされたような気がする。
そういえば普段学校が休みの日、マイクは何をしているのだろう。ふと興味が湧いて尋ねてみると、
「勉強したり本を読んだり詩を書いたり、音楽を聞いたりかな」
 という面白みのない答えが返ってきた。
「インテリ野郎が」
「人のこと言えるのか? そっちのほうが不健康そうだけれど」
「ゴスなんだからいいんだよ」
煙草が吸いたいと思ったけれど、さすがにこの家で吸うのはやめる。ただでさえピートが煙草を吸うのを見つけるたびに注意をしてくるので、マイクの前では極力吸わないようになっていたし、あの真白い綺麗な天井をヤニまみれにすればマイクの両親の心証も悪いだろう。――どうしてこんなことを気遣っているのか、自分でもおかしかった。
「その、家には帰らなくていいのか?」
 躊躇いがちに問いかけてくるマイクに目を向けると、いかにも年上ですというような心配顔をしている。少し前ならばただムカついていただろうその表情にも、今ではもう慣れてしまった。
「お前が迷惑なら帰るぜ」
「いや、そうじゃなくて」
「ならいいだろ。どうせ暇なんだ」
遮るように言い加えると、マイクは少し困ったふうにしながらもそれ以上は何も言わなかった。たとえ迷惑だってこいつは俺を放り出したりはできないだろうな、という妙な自信があった。
この話は終わりだというようにピートが頭をゆるく振ると、マイクはそれを受けて息をつき、ベッドに腰かけ、キャビネットから化粧品と卓上ミラーを取り出した。化粧を始めようとしているらしい。メイク道具が入っているケースを探る長い指と黒い爪を寸分見つめてから、ピートは黙ったままその手首を掴んで動きを止めさせた。転がり落ちたアイシャドウのスティックをベッドの端の方に放ってマイクの膝に乗り上げ、そのまま後ろへ体重をかける。突然の行動に反応できなかったのか、ぽかんとしたままマイクはあっさりとシーツに背中を沈めた。
柔らかそうな、少しはねた黒髪が白いシーツに広がった。
「ピート」
「お前、今日はそのままでいろよ」
「はあ? いやだよ、ピートが居るのに」
「俺だってアイシャドウ引いてねえし、スプレーもワックスも付けてないんだからいいだろ」
「いや、でも恥ずかしいじゃないか」
顔を背けて目元を赤くするマイクを見下ろしながら、おいどうしてそんなリアクションするんだ、と内心でつっこみつつも何かゾクゾクとしたものが背筋を這い上がったのを感じた。
「いつものお前の格好のほうがよっぽど恥ずかしいから気にするなよ」とぼそりと言ってやり、非難めいた色を浮かべてなにごとかを言おうとした唇に、背中を丸めてキスをする。あの鬱陶しい牙がないので、すんなりと舌同士が触れた。
 押し返すようなただ掴んでいるような、中途半端な強さでピートの肩口で握られた手に、この年上の少年のぬるま湯のような人間性を見る。脆い気障な自己陶酔はあっという間に消え失せて、自分より力のないガキの専横すら許している。
拒もうと思えば簡単に拒めるであろうが、拒まれないことにピートは自分の中にある独占欲めいたものが満たされるのを感じた。それと同時に、やはりどこかで甘やかされているのであろうという感覚に憤りをおぼえた。
一度顔を離すと、前髪の長い部分がマイクの頬をすべるように流れて影をつくった。
そのまま首筋に唇をずらし、浮き上がった頸動脈に軽く犬歯を立てる。これくらいの力でも痛いのか、怯えたように小さく息を飲む音が聞こえた。吸血鬼が聞いて呆れる、と目元だけで笑いながら、気付かないふりをして熱い肌の感触を味わった。