もうすぐ夏至を迎えようとしている、いつまでも日の沈まない夕暮れ時のことだった。町の子供たちと定期的にやっている草野球もどきの帰りに必ず通る公園があるのだが、そこでひとりの少年と出会った。
 遊具のたぐいは少ないものの広さはそこそこある公園で、これをぐるりと迂回して角を二回ほど曲がると帝國図書館が見えてくるのだが、中を突っ切ると近道になるのを顔なじみの雑貨店の主から聞いてからというもの、正岡はいつもこの公園の中を通り抜けるようになっていた。
 まだ日は沈まないとはいえもう夕飯時も近く、ほかに人の姿は見えないだだっ広いグラウンドの片隅でその子はぽつんと佇んでいた。初めて見るはずだが服装といい髪型といい、ちょっと懐かしいかんじのする子だなと正岡は思った。ひとりで寂しそうにしているように見えたので思わず近づくと、目が合ってすぐににっこり笑って小さく会釈などをしてくれた。ずいぶん人懐っこそうな少年だ。
「こんばんは」
「おう、こんばんは。まだ帰らなくて平気なのか?」
 尋ねると、少年はどこか困ったような面持ちで曖昧に首を振った。是とも否ともとれるその仕草に家出か何かだろうかな、と考えながら正岡は笑い、肩に担いでいたバットとそこに引っかけていたグローブ、それからポケットから取り出した野球ボールをその子の目の前に差し出してにっかと笑った。少年はきょとんとしたどんぐりのような目でそれらと正岡の顔を代わる代わる見ていたが、遊んでくれるらしいと分かると嬉しそうに頬を紅潮させた。

 グローブを貸してやりしばらくキャッチボールをしていると、だんだんと日は落ちて天球には濃い青色から黒味かかった色が広がり、ちらほらと星のちいさな輝きが目立つようになってきていた。公園の外灯のおかげもあって白いボールはまだ視認できていたが、辺りがあまり暗くなってしまってからだと危ないかもしれないな、と思い正岡はボールを手に握ったまま少年におういと声をかけた。「そろそろ帰らないと駄目だぞー」それを聞くとしゅんと寂しそうな顔をしたようだったが、彼は素直に走り寄って来た。
「またやろうぜ、俺だいたい土曜はいつもここ通るからさ」
「ありがとう、お兄ちゃん」
 にこりとほほ笑んだ少年は、どこに入れていたのかいつの間にか両手で柿を持っていて、それをすいと正岡に差し出してきた。「これ、あげるね」「おっ柿じゃないか!」思わず目を輝かせてしまい気恥ずかしくなってから、その子の顔を見るとやはりにこにこと嬉しそうにしている。そんなにキャッチボールが嬉しかったのなら今度は草野球チームに誘ってやろうかな、と自分まで嬉しいような心地になりながら、礼を言って正岡は柿を受け取った。子供の両手でやっと納まるような大ぶりの柿で、つやつやとした橙色の皮は外灯のぼんやりとした光の中でやけに輝いているように見えた。そういえばこんな時期に柿なんて成るだろうか、という疑問が浮かばないわけではなかったが、さんざん動いた後だったから腹が減っていたこともあり、正岡は自然とその柿に口を寄せようとした。
「それは食べないほうがいいですよ、正岡先生」
 不意に名を呼ばれた。
 はっとして振り返ると、半分ほど夕闇に紛れるようにして立っている大人と子供の輪郭があった。谷崎と宮沢であった。彼らに気を取られた瞬間にぽろりと手から柿が落ち、あっと声をあげて視線を動かしたときにはもう、あの子の姿はどこにもなかった。慌てて首を巡らせたものの、見渡す限りがらんとした夜に飲まれつつあるグラウンドのどこを目で探っても、ついぞ少年を見つけることはできなかった。今の今まですぐそこに居たのに、足音もなくどこかへ行ってしまったのだろうか。そう怪訝に思っていると、のんびりとした歩調で歩み寄ってきた宮沢が薄くほほ笑みながら正岡を見上げた。燐光のようなきらめく瞳が空の星々を映して、まるで宝石のようだった。
「あの子はカムパネルラだったんだよ」
 落ちた柿を拾いあげると、宮沢は銀河をおもわせる外套の内にその柿をそっと仕舞い込んだ。どこへ入れたのか、柿の質量などまるでないかのように滑らかな布地は風になびいていた。手品でも見せられた気分できょとんとしている正岡を見て、谷崎がくすくすと笑った。
「もうすっかり日が暮れますねぇ」
 夕食を食いっぱぐれないうちに帰るのがよろしいのではないですか、と彼にしては俗じみた言い方をすると、彼は一足先に踵を返して帰路を進んでいった。あいつもこの公園を突っ切ったことがあるのかと正岡が不思議に感じるほど、その足取りは迷いのないするするとしたものだった。宮沢とその後を追いながら話を聞くと、ふたりは本屋に行った帰りだったらしい。現代の大人の絵本を見に行きたかった宮澤に谷崎が付き合ってたというので、正岡は大いに苦笑してこのふたりの奇妙な友情に感心してしまった。

 戻ってその話をしたら、夏目にはえらく心配され森にはこんこんと説教を受けた。見知らぬものから貰ったものを容易に口に入れようとするな、と険しい顔をして言い聞かせる生真面目な軍医に頬をひきつらせて謝りながら、そうかあれはヨモツヘグイだったかと思い至って少しゾッとした。
 ゾッとしながらも、心のどこかで残念がっている自分にも正岡は気がついていた。あの柿は一体どんな味がしたのだろうと気になって仕方がなかった。それを見抜いているのかいないのか、何か言いたげな顔をした夏目が森の背後からじいと正岡に視線を送って寄越していたので、降参したというように笑って目配せをしておいた。親友は眉間に僅かな皴をつくると、諦めたといった風情で神妙に溜息をついていた。



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 佐藤とふたりで司書に頼まれた買い物に出た。帝國図書館の門を背にしたのは昼前のことであったのだが、ふと気がついた時にはもう道が分からなくなっていた。正確に言えば、妙な空間に迷い込んで出られなくなったというのがよいだろうか。どこをどう歩いても目的の場所に着かないのである。太陽はもう中天を過ぎて久しかった。何度も通った同じ四つ角の真ん中で、夏目と佐藤は半ば途方に暮れたように長らく立ち止まっていた。じりじりと砂利道を焼く日差しの照り返しを受け、こめかみからつうっと汗が流れ落ちた。
「弱ったことになりましたね」
「はあ、まさか図書館の外でもおかしなことが起こるとは」
 佐藤のくたびれたような声に頷くと、夏目は手持無沙汰に杖をくるんと軽く回し、辺りを眺めて表情を曇らせた。ありふれた街並みのようでいて漂う空気はどこか常世のものとは異なっており、少し有碍書の中にも似ているがどうもそれも違うようだ。空間の崩壊もなく侵蝕者の姿もなく、書物の中よりは明らかに現実世界に近いようで、またそれが厄介に思われた。試しに武器を出してみようかという話になってやってみたが、案の定ふたりの本はうんともすんとも言わなかった。
 視界のそこかしこでは人がいたと思ったらいなくなっているという現象が続き、道を尋ねようにも声を掛けることができないでいる。ちらほらと見える民家や商店にも人影らしきものはあったが、どれも陽炎の向こうにいるような茫洋とした印象で、あれもおそらく近づいたら消えてしまうのかと思うと気味が悪くて立ち寄る気にはなれなかった。恐らく人のようで人ではないのだろう、とふたりは暗黙のうちに悟っていた。
 昼下がりの屋外ともなればなかなかに暑く、騒ぎ出した蝉の声は頭の芯にまで染み込んで思考を阻んでくるようであった。このまま突っ立っていては干からびてしまいますね、と頭を掻きながら佐藤が呟いたのをきっかけに、とりあえず日影を求めて近くの神社に涼を求めた。さしたる大きさでもないが古い、ずいぶん昔からある神社のようであったが、どういう名前と由緒のある神社であるのかをふたりとも知らなかった。鳥居をくぐる際に額かなにか掛かっていないかと探してみたが見当たらず、社まで行っても結局それらしき文字はどこにもなかった。
「さて、これからどうしましょう」
 社に上がるための石段に腰かけると、夏目は少しネクタイを緩めてのんびりと言った。その声色は投げやりであるようにも聞こえる。佐藤も服の衿のところからぱたぱたと中に風を送りつつ、「どうしましょうかね」とうんざりしたような顔で応えた。言葉を交わしながらも、手の打ちようがないことは分かっていた。図書館を出てからもう三時間は経過していると思われる。そう遠くもない店で買い物をして帰るだけの予定であったから、こんなに時間がかかっているのは明らかにおかしかった。
「司書さんや皆も心配しているかもしれないね」
「いや分かりませんよ、いい年をした大人がお使いもまともにできないのかとか言われているかもしれません」
「ふふ、佐藤君は案外ネガティヴなんですねえ」
 思わず笑みをこぼした夏目にそう言われ、佐藤は初めて己が何を言ったのかを理解したような顔をすると、少し困ったふうに眉を下げて苦笑した。すみません疲れてるんでしょう、と言い訳がましく付け加える。普段ならば快活さに隠れて見えないもうひとつの顔が、こうして疲弊した時には表層にあらわれてしまうことを佐藤はあまり自覚していない。それは日常においても、また潜書においても同じであった。夏目はそんな佐藤の顔色を案じながらも、どこか自分と似通ったものを感じて内心で親しみを感じた。――師と呼ばれる人種はいくつもの顔を持っている。それを自覚しているのか、無自覚のうちであるのかはまた別の話だが。

「佐藤! 夏目先生も、こんなところにいらしたんですか!」
 不意に耳に届いた声にふたりしてびくっとし、それから顔を上げると、木立の中からこちらへ走ってくる人物が見えた。藍色の長髪をなびかせて駆けてくるその姿に、永井さん、永井くん、と声を合わせて応じ立ち上がる。誰かが見つけてくれるとは思っていなかったために、驚きと安堵がどちらの声にも色濃く出ていた。軽く息を切らした永井は夏目と佐藤の顔を代わる代わる見てから、ずいぶん探しましたよと神経質そうな表情を浮かべて言った。
「どうしてここが分かったんだ、永井さん」
「図書館からそこの大通りまでは君たちの目撃情報があったのに、角を曲がった後はぱったり途切れていたからな。この辺りで何かあったのではないかと探していたんだ」
「へえ」
 どこか感心したふうに佐藤が目を見開いた。
「では、他の皆も探しているのですか」
「ええ、皆心配していますよ。さあ帰りましょう、こちらです」
 永井がうながした先は、佐藤と夏目が入って来た鳥居のある方向ではなくあの木立のほうだった。神社を囲むように生い茂っている木々の葉がいくつも折り重なり、さほど深い林でもないのにやたらと暗く見える。そういえばなぜきみはあんなところから来たんだい、と夏目は尋ねようとしたが、もう永井は早い足取りで歩きだしており、佐藤はそれに続いてゆくところだった。みるみるうちに離れつつあるふたりの背中を見て妙な胸騒ぎを覚え、「待ちたまえ」と咄嗟に呼びかけていた。思いがけず出た硬い声に、永井と佐藤はぴたりと足を止めた。
「どうしたんです、夏目先生」
 振り返った佐藤のまるで何も疑っていない幼子のような顔つきがじわり、と罪悪感をもたらしたが、そのあちら、黙って視線だけを向けてくる永井の姿にやはり得体の知れない気味悪さを感じ、夏目はかぶりを振った。彼について行ってはいけないと直感的に思った。白い能面のような永井の顔がこちらへ近づいてくるような気がして、つぶさに佐藤の腕を掴むと永井とは逆のほうへと力任せに引っ張った。
「うわっ、ちょっとなんですか?!」
「ほら佐藤くん、私達はまだ買い物をしていなかったでしょう、このまま帰るわけにはいきませんよ」
「だけど永井さんが」
「いいからっ」
 小声でそう短く被せて黙らせる。夏目のただならぬ様子に委縮したのか、佐藤は抵抗するのをやめて困惑したまま夏目に引きずられた。いくらか距離を取ったところで、足は止めぬままに振り返る。追いかけてきているかもしれないと思ったが、永井はまだあの場所に立っていた。感情のうかがえない整った顔つきがじいとこちらを見つめており、それが夏目には異様に恐ろしく映った。
「永井くん、先に戻って皆さんにもう大丈夫と伝えてください。きみがここへ入れたということは、異変はなくなったのでしょうから」
「……わかりました」
 逃げるように去る間際、まったく別の何かの声が聞こえて鳥肌が立った。
 ぞくりとして思わず佐藤の顔を見上げると、彼も同じように強張った表情で虚空をにらみつけている。今しがたまで会話していたモノが知人ではなかったのだと悟ったようだった。速足で、もうほとんど走るようにしながら社から離れる間中、ふたりは一度も元来たほうを振り返らなかった。最後に聞こえたあの声がいつまでも耳に残り、それを振り切るように無心になって足を動かした。
 ほとんど敷地の外れまで来たところで、首の落ちた地蔵を見つけた。その頃には夏目の息は切れており、佐藤のほうはまだ体力に余裕はあるようだったが精神面ではずいぶん参っているようだった。立ち止まってしばらく黙って呼吸だけをしてから、どちらともなく地蔵の首を拾って胴に乗せてやり、近くに咲いていたヤマユリをたむけ手を合わせて供養をした。それは黙々と行われ、夏目も佐藤もついぞ一言も口をきかなかった。声を出したら何かにまた見つかってしまうというような予感があったのかもしれない。風が木々の葉を鳴らす音と氾濫する蝉の声のただ中で、それらに溶けいるほどの沈黙を保ったまま、やがてふたりはしずしずと神社の敷地から立ち去った。

 図書館に戻ると、なんと三日が過ぎていた。
 それぞれ芥川と太宰に泣きつかれながら司書と文士達に囲まれて質問責めにされ、ふたりは驚きと苦笑をない交ぜにした面差しで顔を見合わせた。あのまま何もなかったことにしようかと帰り道に話していたのだったが、三日もいなかったとなればそうはいかないだろう。不可思議なことが起きたとあって、小泉などはひときわ瞳を輝かせてあれこれと尋ねてくる。それを落ち着かせつつ、夏目は人だかりの外側で永井がやれやれという顔で立っているのを見た。かつての弟子を遠くから眺めるそのまなざしに、ひどく人間くさいものを捉えて深く安堵した。
 ――やはり師というのは、多くの顔を持っているものだ。




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 深夜に医務室を出ると、ほどなく歩いたところに洋装の少女がぽつんと立っていた。古めかしい仏蘭西人形のような雰囲気のある、線の細い娘だった。廊下の窓から夜の暗い景色を静かに眺めていたらしい彼女は、森が見ていることに気づくとスッと首を巡らして視線を向けてきた。色素の薄い碧眼が猫のそれのように光った。見知らぬ少女だが、どことなく知っている女の面影があるような気がして思わず凝視する。年の頃は十代前半ほどだろうか。緩くウェーブのかかった髪もレースの施された服装も、森の持つランプに照らされていやに明るげにそこだけ浮かび上がっているように映った。
「君は誰だ、どこから入ったんだ」
 呼びかけると、薄い肩が揺れた。少女の顔は俯きがちで、暗いこともあって表情まではよく見えない。森がランプを持ち上げて近付いていくと、少女は小さな唇を動かして囁くように答えた。
「×××に行きたいの」
 ザアッとノイズがかかったように、そこだけが聞き取れない。もう一度聞いても駄目だった。しかし何故か、彼女が言う場所がどこなのかを森は理解していた。耳では聞き取れぬままであったのに、頭ではもう判然としているのだ。
「分かった、行こうか」
 気づくとそう答えていた。差し出してきた少女の小さな手を握ると、森は迷いなく歩き出した。この娘が誰でどうしてこんな時間にこんな場所に居るのかという疑問はもう思考の隅に追いやられ、一刻も早く連れて行ってやらなければならない、という思いだけが体をきりきりと動かしていた。
 真夜中の図書館に人の気配はない。寄宿棟のほうでは今夜も誰かが徹夜をしているのだろうが、この時間に本棟へ立ち入る者はまず居ない。廃墟のように古めかしく寂としている長く入り組んだ通路を、ランプの明かりがぼうやりと照らしながら進んでいく。その光景は、森をなにか倒錯的な気分にさせた。まるでひとつ前の生に戻ったかのような拠り所のない体感が、静かに足元から全身を覆ってくる心地がした。浮遊感と重苦しさがひとまとまりになっているような、奇妙な感触が骨の髄までを満たしていった。
「ねえ、私ね、顔を見られたくないの」
 だから振り返らないで、と背後で恥ずかしそうに言う少女に、森はひとつ頷いた。顔を見てみたい気持ちはあったが、本人がそう望んでいるのなら聞いてやらなければならないだろう。振り返らない代わりに繋いだ手に力を込めると、少女のか細い手も応えるように森の手を強く握った。
 それからしばらく歩いていると、少女がしくしくと泣き始めた。どうしたのかと尋ねても答えはない。様子を窺おうと首を回そうとして、はたと先ほどの約束を思い出し視線を戻す。逡巡し、もう一度声を掛けようとした時、あちらから小さく訴える声が届いた。
「痛い」
「どこが痛むんだ」
「痛いの」
「だから、どこが」
「振り返らないで」
 少女はそれしか言わなかった。
 いたい、いたい、ふりかえらないで。それが延々と繰り返され、聞いているうちに次第に頭がぐらぐらと痛くなってきた。背後ですすり泣く声はいや増していく。少女を気遣いながらも、森はだんだんと歩調が速くなるのを自覚していた。泣き続ける彼女の涙でひたひたと心臓がふやけてゆくような、あまり好ましくない心持ちがした。

 やがて行き着いた重い扉を開くと、ひやりとした夜風が頬に当たった。晴れてはいるが月のない暗い夜だった。踏み出してゆっくりと歩いてゆくうちに、少女の泣き声はいつの間にか止んでいた。足音もなく、ただ繋いだ手の感触だけがそこに彼女がいるのだということを知らしめていた。もうすぐに彼女の望む場所へ連れて行ってやれる、その確信に我知らず昂揚めいた感慨をおぼえながら、森は一歩ずつ踏みしめながら進んでいった。白衣を揺らす風がだんだんと強くなり、持ち主を弄ぶように布が舞い踊った。
「鴎外さん!」
 びょうと風が唸った。弾かれたように振り返ると、そこには有島と島崎が立っていた。走って来たのだろう、ふたりとも肩で息をしている。今声をあげたのは有島だった。いつも静かに憂いを帯びた色を浮かべている瞳が、見たことのないような焦りと剣呑さに鋭いかたちをしている。
「早くこっちへ来たほうがいいですよ」
 島崎が手招きをした。こちらは普段とさして変わらない声色であったが、幾ばくかの緊張がにじみ出ているように思われた。宵闇によく馴染む色の外套が、風に煽られて激しくはためいている。
「足元に気をつけてください」
「あんまり下は見ないで」
 口々に言われて怪訝に思い、足元を見てぎょっとした。今まで全く認識していなかったのだが、ここは図書館本棟の屋根の上であった。手にしていたはずのランプはどこかに置いてきたのだろう、両手は空になっている。非常用に設けられた階段を上がり、施錠されていたはずの扉をこじ開けこんなところまでやって来たというのに、全く無意識であったのだと思うと得体の知れない恐怖に体が強張った。森が立っているのはまさしく屋根の縁であり、もう一歩でも踏み出せば地上へと真っ逆さまであったろう。
 じりじりと後ずさる。はたとして見れば少女の姿はもうどこにもなく、確かに繋いでいたはずの手には温度のかけらも残ってはいなかった。呆然としながらふたりの元へ歩み寄る間、森は出来うる限り何も考えないように努めた。視界をほとんど全て埋め尽くしている、あまりにも暗い闇に眩暈がした。

「貴方は振り返らなかったんですね」
 本棟の通路をゆきながら、有島がぽつりと言った。途中で見つけたランプの明かりが、彼の白銀の髪をほろほろと照らし出している。
「僕は振り返った、有島くんも」
「君達も彼女に会ったのか」
「ええ、多分……姿かたちは違うけれど」
 できるならもう一度会いたいと思って時々夜中に起きてみるのですが、会えたことはないんです。そうどちらともなく呟いて、ふたりは自嘲を孕んだ寂しそうな笑みを浮かべた。それをまじまじと見つめている己の心音が、森には煩いほどに大きく聞こえた。あの娘がどこへ行きたがっていたかはもう思い出せなかったが、あのまま進んでいたら自分がどうなっていたかは想像に容易かった。
 未だ体に残っている倒錯的な感覚を振り払うように、繰り返し深呼吸をする。森はもうあの少女に会いたいとは思わなかった。彼女も会いには来ないだろうと、理屈ではないところで悟っていた。有島はああ言ったが、理由はどうあれ最後の最後で振り返ってしまったのだから。――あの時の約束は守られなかったのだ。
「振り返ったとき、君達は何を見たんだ」
 ふと気にかかって尋ねると、ふたりは視線を合わせてから二者二様の顔つきをした。そのかんばせのほの暗く美しいさまを、しばらく忘れることはできないだろうと森は思った。

「知らないほうがいいですよ」